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零の渇望、喰らいの回廊

第1話 第1話

第1話

第1話

その日、ハグレ村に夏の終わりを告げる風が吹いていた。

 山間の集落を囲む峰々の稜線が朝靄に霞み、谷底を流れる細い川からは冷たい水気が立ち昇っている。木々の葉先はまだ緑を保っていたが、風の匂いはすでに秋のものだった。乾いた草と、遠い山の岩肌の匂い。年に一度の魔力測定——王都から派遣された測定士が辺境を巡る日が、今年もやってきた。

 村の広場には粗末な天幕が張られ、その下に据えられた灰色の石板が鈍い光を帯びていた。測定石と呼ばれるそれに手を触れれば、内に宿る魔力の器が数値として刻まれる。十二歳を迎えた子供たちにとって、この日は将来を決める通過儀礼だった。

 カイは列の最後尾に立っていた。

 前に並ぶ同い年の子供たちが、一人また一人と測定石に手を置くたびに、石板の表面に青白い数字が浮かび上がる。三十二、四十七、二十八。そのたびに天幕の周囲を取り巻く大人たちからどよめきと拍手が起こった。

「おお、ミーシャは四十七か。上の中だな」

「うちの倅も三十を超えたぞ。ギルドの門は叩けるだろう」

 歓声が広場に満ちるたびに、カイの指先が微かに冷えた。掌に汗が滲む。自分の番が近づいてくる感覚が、真冬の川に足を踏み入れるときに似ていた。胸の奥で何かが縮こまり、呼吸のたびに喉の奥がきつくなる。期待しているのか、恐れているのか、自分でも分からなかった。ただ、どちらであれ逃げる気はなかった。

 やがて、前の子供がすべて測定を終えた。

 測定士が名簿に目を落とす。白い顎鬚を蓄えた痩身の老人は、辺境の村に似つかわしくない仕立ての良い長衣をまとっていた。袖口に銀糸で縫い取られた紋章が、王都の権威を静かに主張している。

「カイ。次はおまえだ」

 一歩、踏み出す。周囲の視線が背中に刺さるのを感じながら、カイは測定石の前に立った。灰色の石板は掌二つ分ほどの大きさで、表面には古い時代の文様が薄く刻まれている。触れれば冷たいのだろうと思った。

 右手を置いた。

 石板の冷たさが指先から腕を伝い、胸の奥にまで染み込むような感覚があった。数瞬の静寂。広場を包んでいた雑談や笑い声が、まるで水底に沈むように遠ざかる。カイは石板の表面だけを見つめていた。青白い光が灯るのを、今か今かと待っていた。測定石の表面に、数字が浮かぶ。

 ——零。

 広場が凍りついた。

 測定士が眉をひそめ、石板を二度叩いてからカイにもう一度手を置くよう促した。カイは従った。今度は左手も添えて、両掌で石板を覆うように押し当てた。体の中に何かが流れ出す感覚を必死に探した。だが指先に伝わるのは石の冷たさだけで、魔力の流れと呼べるものは何ひとつ感じなかった。結果は変わらなかった。零。石板は何の反応も示さず、灰色のまま沈黙している。

「…………規格外。下限未満」

 測定士の声は低く、抑えたものだった。だがその言葉は、静まりかえった広場の隅々にまで届いた。老人の目がわずかに揺れたのを、カイは見逃さなかった。同情ではない。長年この職に就いてきた者が、初めて遭遇した事象に対して浮かべる、戸惑いに近い表情だった。

 誰かが息を呑んだ。次の瞬間、堰を切ったようにざわめきが広がる。

「下限未満だと? そんな数値、聞いたことがないぞ」

「やっぱりなあ。あの子は昔から妙だった」

「可哀想に。これじゃあ冒険者どころか、まともな職にも——」

 カイは手を引いた。石板に触れていた指先だけが、不自然に白くなっていた。

 振り返ると、同い年の子供たちの顔があった。同情、好奇、そして——嘲笑。一人が口元を歪めて隣の子供に囁くのが見えた。その囁きの中身を、カイは聞くまでもなく知っていた。

 広場を離れた。誰も引き止めなかった。背後で誰かの母親が「あの子のお父さんも魔力がなかったって話じゃないか」と言うのが聞こえたが、カイは足を止めなかった。

 村外れの納屋は、カイの父が生前に使っていた小さな建物だった。壁板の隙間から西日が差し込み、埃が金色に舞っている。黴と古い油と、かすかに残る革の匂い。父がここで獣の毛皮をなめし、刃を研いでいた頃の記憶が、匂いとともに蘇る。カイは梁に掛けてあった革紐を解き、一振りの短剣を手に取った。

 刃こぼれした、粗末な短剣だった。柄の革は擦り切れ、鍔は歪んでいる。鍛冶師が見れば鼻で笑うだろう。だがこの短剣だけが、三年前に山で命を落とした父がカイに遺した唯一のものだった。

 握ると、掌に馴染む。何百回、何千回と握り締めてきた感触が、指の形を覚えている。

 納屋を出て、村の外周を走り始めた。

 山裾に沿った細い獣道を、短剣を腰に差したまま駆ける。足元の土は昨夜の雨で緩んでいたが、カイの足は迷わなかった。この道を毎朝走っている。夜明け前の暗がりの中でも、石の位置も根の張り出しもすべて体が覚えていた。

 息が上がる。太腿が熱を持つ。それでも足を止めない。肺が軋み、吐く息が喉の奥で熱く焼ける。頬を打つ枝葉の感触すら、今日は心地よかった。体が苦しんでいる間は、頭の中が静かになる。零という数字も、広場のざわめきも、遠くなる。

 走りながら、短剣を抜いて振るう。我流の素振り。型も理論も知らない、見よう見まねの反復。父が生きていたころ、たった一度だけ見せてくれた剣の構え——それを記憶の底から掬い上げて、何度も何度も再現しようとする不格好な鍛錬だった。刃が空を切るたびに鈍い風切り音が鳴る。正しいのかどうかも分からない。ただ、振るうたびに三年前の父の背中が脳裏にちらつき、それだけがカイの足を前に運ぶ燃料になっていた。

 村人たちはこれを「無駄な足掻き」と呼ぶ。魔力のない者が武芸を磨いたところで、魔物と渡り合えるはずがない。この大陸では魔力こそが力の根幹であり、それを持たぬ者は守られる側に回るしかないのだと。

 分かっている。

 頭では、分かっている。

 それでもカイは走ることをやめなかった。短剣を振ることをやめなかった。理由は単純だった。止まってしまえば、自分には何も残らないと知っていたからだ。

 外周を三度巡り終えたころ、日が傾いていた。

 村の北端にある古い柵に腰を下ろし、荒い息を整える。汗が顎を伝い、土の上に落ちて小さな染みを作った。西の空が茜に染まり、連なる山々の稜線が黒い切り絵のように浮かび上がっている。

 山の、向こう側。

 カイはそこを見たことがない。ハグレ村は三方を険しい山に囲まれた袋地で、外界との繋がりは南に延びる一本の街道だけだった。その街道を辿れば、三日で最寄りの町に出るという。さらにその先には、王都があり、大陸が広がり、海があると聞いた。

 すべて、人から聞いた話だ。自分の目で見たものは何ひとつない。

「…………いつか」

 声に出したのは、自分でも意識しないうちだった。

「いつか、越えてやる」

 誰に向けた言葉でもなかった。山に向かって呟いた独白は、夕風に攫われて消えた。下限未満。その烙印が何だというのか。魔力がなければ、魔力がなくてもできることを探すだけだ。父はそうやって生きた。魔力を持たぬまま、山に入り、獣を狩り、家族を養った。剣の才があったわけでもない。ただ、山を知り、獣を観て、生き延びる術を自分の体に叩き込んだのだ。

 短剣の柄を握り直す。刃こぼれした刀身に夕日が映り、鈍い橙色に光った。

 立ち上がろうとした、その時だった。

 足元が、揺れた。

 最初は自分のふらつきかと思った。だが違う。地面そのものが震えている。柵の杭がかたかたと音を立て、遠くで鶏が騒ぎ出した。

 地鳴り。

 低く、重い振動が、北の裏山の方角から伝わってくる。カイは反射的に山を見た。稜線の向こう——普段は静かに眠っているはずの裏山の頂が、微かに揺らいでいるように見えた。

 振動は数秒で収まった。

 鶏の鳴き声が遠ざかり、再び夕暮れの静寂が戻る。カイは眉をひそめたまま、しばらく裏山を見つめていた。地鳴りは珍しくない。山間の集落では、年に何度か地の底が唸ることがある。だが今のは、いつもと何かが違った。

 振動の中に、かすかな——本当にかすかな、何かが砕ける音が混じっていた気がした。

 気のせいだろうか。

 カイは首を振り、短剣を鞘に収めて村へ戻り始めた。背後で山の稜線が夜の色に沈んでいく。その山の下、誰も知らない地の底で、千年の眠りから目覚めようとしているものがあることを、このとき少年はまだ知らない。

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