第2話
第2話
石畳の冷たさで目が覚めた。
右の頬骨がじんと痺れ、首の関節が錆びた蝶番のようにきしむ。路地裏の壁に背を預けたまま夜を越した代償だった。空はまだ藍色に沈み、どこか遠くの鐘楼が五度、低く鳴る。夜明け前の街は、俺の呼気だけが白く浮かぶ世界だった。
立ち上がると、服の背中に張りついた砂埃がぱらぱらと落ちた。上着を軽く払い、舌の奥を噛んで唾を作る。鉄の味が薄く滲む——空腹と渇きが、頭の芯に少しだけピントを合わせてくれた。
東門まで歩いて十五分。露店の水売りが柄杓を並べはじめていたが、銅貨一枚も持たない俺は素通りするしかない。パン屋の煙突から立ちのぼる細い煙だけが、勝手に鼻を刺した。焼けた小麦の匂いが、胃の奥のくぼみにじかに触れる。唾を飲み下すと、喉仏が乾いた音で動いた。
門の手前、木製ベンチの上で提灯がひとつ揺れていた。
リーネだ。小柄な体に似合わない大きな革鞄を肩に斜めがけして、膝の上に手帳を広げている。俺の足音に気づいて、はじかれたように顔を上げた。
「レイドさん」
「待たせたか」
「いえ、私が早く来すぎただけです」
橙色の灯りが、そばかすの浮いた頬を照らす。目の下に薄いくまが見えた。昨日、どれほど人手を探して街を歩いたのだろう。提灯の油が、風にあおられてじじ、と小さく鳴く。リーネは手帳を閉じ、鞄の外ポケットに丁寧に差し込んだ。几帳面な指先だった。ページの縁が指の熱で少し湿っている——ずっと握っていたのだ、この手帳を。
「他のメンバーは」
「もうすぐ。ガルドさんは朝に弱くて、ミラさんが毎回引きずってくるんです」
「先輩を引きずるのか」
「年齢は関係ないんです、うちは」
——それだけで、この四人の力関係がうっすら見えた。
足音が二つ、通りの奥から近づいてくる。片方は重く、片方は鋭い。やがて灯りの輪に押し出されてきたのは、熊のような巨漢と、その襟首を片手で掴んで引きずっている褐色肌の女だった。
「歩けガルド、朝は来るんだよ」
「……あと五分……」
「五分後には依頼が終わってる」
襟を離された巨漢——ガルドが、地面に片膝をつき、顎が外れるような深いあくびをした。腰に吊した両手斧は、柄の革が擦り切れて芯の木肌が覗いている。十年単位で使い込まれた得物だ。立ち上がりざまに太い首をぼきりと鳴らし、鼻の下を親指の腹でこすった。寝汗と、乾いた土と、安酒の残り香。体の大きさに比して、動きの無駄がひとつもない。眠そうに見せて、重心はすでに前足にかかっている。
襟を掴んでいた女——ミラのほうは、腰が低い。背中には短弓より一回り大きい複合弓。矢筒の縁に、羽根の角度が揃いすぎた矢が六本だけ差してある。節約しながら当てる射手の差し方だ——と、見た瞬間に頭へ流れ込んできた。
【観察眼】。意識しなくても、情報が視界の端で勝手に言語化されている。
「こいつが新人か」ガルドが眠たげな目で俺を見下ろす。「細えな。森、歩けるか」
「歩く」
「返事が短えのは嫌いじゃねえ」
欠けた前歯を見せて笑った。悪気のない笑いだ。ただ、肩の筋肉は立派なのに左肩の可動域だけ微妙に狭い。古い怪我だろう。
ミラは俺を見て一言。
「鑑定、【観察眼】だってな」
「耳が早いな」
「あの時間、鑑定台で笑い声が起きりゃ朝には街中に回る」
淡々とした声に嘲りはなかった。ただ事実の確認だ。
「それで、来たのか」
「来た」
「逃げなかったのは偉いけど、足引っ張ったら私が斬るから」
「弓手なのに斬るのか」
「斬れる距離まで詰められたら斬る」
ガルドが「朝イチから冗談やめろ」と笑ったが、ミラの目は冗談ではなかった。前の仲間で、足を引っ張られて何かを失った目だ。瞳の奥の光が、笑ったり曇ったりしない。こちらの重心、こちらの手癖、こちらがどこで膝を折るか——それだけを見ている目だった。
門が開く。衛兵が俺たちを一瞥し、何も言わずに通す。お決まりの顔、という扱いだった。門の軋む音が、朝の空気の中でやけに長く尾を引く。
街を出ると、露に濡れた草が靴の縁を湿らせた。冷たさが足首から這い上がる。空は藍から薄桃へと滲みはじめ、鳥らしき影が二羽、先行して森の方角へ飛んでいった。草の露が、靴先を越えてズボンの裾まで這い上がってくる。冷たいはずなのに、歩き続けているうちに足裏だけがじわりと温かくなってきた。先頭をガルドが、続いてミラ、最後尾が俺とリーネ。四人の歩幅は、意外なほど噛み合っていた。何度も組んで歩いた者の歩幅ではない——互いに合わせる呼吸の速さが、まだぎこちないほうへ残っている。
歩きながらリーネが口を開いた。
「うちのパーティ、Eランクなんです。下から二番目」
「知ってる」
「去年まではDランクだったんですけど……落ちました」
そこで言葉が切れた。ガルドが無言で前を向き、ミラが肩をすくめる。踏み込むタイミングじゃない——落ちるには落ちるだけの理由があった、それだけ分かれば今は十分だ。
「今日の依頼、内容を詳しく」
リーネが鞄から依頼書を取り出した。
「東の森・第二区画、薬草『月雫草』の採取、三十株。期限は今日の日没まで。報酬は銀貨十二枚、四等分です」
銀貨三枚。昨日俺が握っていた依頼書と同額だった。
「月雫草ってのは」
「夜露を吸って葉の裏が光るんです。朝のうちしか採れません。日が昇りきると光が消えて、見分けがつかなくなる」
「時間との勝負か」
「三人だと、朝いっぱい使っても二十株が限界でした。四人目が欲しかったのはそのためです」
つまり俺の役割は、目。光る葉を見つけて指差す作業。【観察眼】を馬鹿にしていた昨日の冒険者たちが聞いたら、また笑うだろう。最弱スキルの最適運用、薬草狩り。
——いや。光る葉を見分けるのと、魔獣の弱点を見抜くのと、能力の使い方にどれだけの違いがある?
自分の思考に、一拍遅れて俺自身が驚いた。記憶のないはずの頭が、なぜそんな類推を勝手に組み立てる。
道の先に、森の輪郭が見えてきた。朝靄がその裾を白く覆い、樹冠の向こうが鈍い金色に染まりはじめている。
「Dから落ちた理由」
歩きながら、ぽつりとガルドが言った。
「聞いとけ。知らねえまま組むのは、そっちに悪ぃからな」
ミラが横目で彼を見たが、止めなかった。
「前のパーティで、俺は盾役だった。斧持ちの盾役だ。左肩を潰された夜、庇い切れねえ仲間が一人死んだ。それから俺は、前に出るのが怖ぇ」
ガルドの声は低く、前を向いたまま、足音のリズムは一度も乱さなかった。ただ、斧を担ぎ直す手の甲に、薄い古傷が幾筋も走っているのが朝日で見えた。肩幅と声の太さから想像する男ではなく、怖ぇ、と短く認めた中年の男の背中だった。
「私は」ミラが続けた。「射線を外した。一度だけ。その一度で、庇われたのは私」
ミラの唇が、言葉の最後で一瞬だけ止まった。弓を握る指の、関節の色が白く抜けて、また戻った。淡々とした声の調子は崩れなかったが、歩幅だけが半歩、狭くなった。
リーネが声を落とす。
「私は、調合を間違えました。急いで、順番を」
そこまで言って、リーネは口を閉じた。鞄の持ち手を握り直す手が、一度だけ細かく震え、そのまま動かない。順番を、その先を、彼女は言わなかった——言えないのだろう。調合の失敗が何を焼いたのか、誰を間に合わせなかったのか、俺はまだ知らない。知らなくても、沈黙の重さだけは息苦しいほど伝わった。
三人分の沈黙が、下草を踏む音の中に沈んだ。俺は何も言わなかった。今言える言葉を持っていない。ただ——この三人が昨日、人手の足りない依頼のために、最弱スキルの男に声をかけた意味が、ようやく輪郭を持った。
彼らは、もう失敗できないのだ。
その重さを背負ったまま、三人は朝の森へ向かっている。最弱と笑われた男を、今日はじめて連れて。——腹の底に、冷たくも熱くもない、ただ薄い鉄の味が残った。昨日、鑑定台の前で笑われた時には感じなかった種類の感覚だ。名前はまだ付かない。付けるには早い。ただ、目の端で、ガルドの背中の幅とミラの肩の角度とリーネの鞄の揺れが、勝手に視界に収まっていく。【観察眼】が、三人の歩きかたを記憶しはじめている。
森の入口に着いた。霧が膝まで這い、木々の根本で白く渦を巻いている。空気が変わった——湿度と、苔と、それから名前のつかない金属質の匂いが、鼻の奥にかすかに残った。舌の上にまで薄く載る匂いだ。鉄錆にも似ているが、もっと冷たい。血ではない、とだけ本能が判じた。だが、血ではないものが血に似た匂いを放つとき、森はたいてい、何かを隠している。
「行くぞ」
ガルドが両手斧を肩に担ぎ直した。ミラが弓の弦を短く弾いて音を確かめる。澄んだ、低い、きん、という音が、霧を一瞬だけ震わせた。リーネが鞄から小瓶を一つ取り出して、俺の手のひらに押しつけた。
「これ、解毒剤です。念のため」
「念のため?」
「第二区画、最近ちょっと——普段は出ない種類の魔獣の目撃報告が出てるって、昨日ギルドで聞きました」
俺は瓶を握り、森の奥に視線を送った。霧の向こう、樹冠のさらに奥で、鳥の声がひとつ、途中で途切れた。
踏み出す。
湿った苔が、靴底の下で小さく沈んだ。