第1話
第1話
死んだ、と思った。
いや、死んだのだ。それだけは確かだった。胸の奥に残る冷たい感覚——心臓が止まった瞬間の、あの底なしの静寂。音が消え、光が消え、自分という存在の輪郭が溶けていくような感覚。名前も、顔も、どこで何をしていたかも思い出せないのに、死の感触だけが鮮明に焼きついている。
目を開けると、木漏れ日が視界を刺した。
湿った土の匂い。背中に触れる苔の感触。冷たくもなく温かくもない、奇妙に心地よい大気が肌を包んでいる。見上げた空は、知らない色をしていた。青いのに、どこか紫がかっている。雲の流れ方も違う——薄い絹のような雲が、風に逆らうように東から西へではなく、螺旋を描くように漂っていた。木々の幹は異様に太く、大人が三人で手を繋いでも囲いきれないほどだ。葉の形も記憶にあるどの植物とも一致しない。鳥の声に似た何かが遠くで響いているが、それすらも聞き覚えのない旋律だった。
ここはどこだ。
体を起こす。痛みはない。服は簡素な麻の上下で、ポケットには何も入っていない。手のひらを開いて閉じてみる。指は動く。握力もある。死んだ直後の体にしては、あまりにも正常だった。立ち上がって周囲を見回しても、人工物は一切なかった。道もない。ただ果てしなく森が続いている。
とりあえず、歩くしかない。
どれくらい歩いただろう。太陽の位置が変わり、木の影が長くなった頃、森が途切れた。眼下に広がっていたのは、石造りの建物が並ぶ街だった。城壁に囲まれ、門の前には荷馬車が列をなしている。中世ヨーロッパ——いや、違う。城壁の上に光る紋様。空中に浮かぶ淡い光の粒子。これは魔法か、それに類する何かだ。
死んで、別の世界に来た。
不思議と混乱はなかった。状況を理解する思考回路だけが、妙に冷静に動いている。パニックになる余裕もないのかもしれない。今の俺には名前も記憶も金もない。あるのは、動く体だけだ。
なら、まずは生きる手段を探す。
街の門をくぐると、行き交う人々の会話が耳に飛び込んできた。言葉は理解できる。通貨の単位、物価の感覚——そういった生活知識は頭にあるのに、自分自身のことだけがすっぽり抜け落ちている。奇妙な欠落だった。石畳を踏む靴の音、露店から流れてくる焼き肉の煙、荷車の車輪がきしむ音——街は生活の気配で溢れていた。すれ違う人々は誰もが目的を持って歩いている。俺だけが、行き先を持たない異物だった。
人の流れに沿って歩くうち、ひときわ大きな建物の前に出た。木製の看板に剣と盾の紋章。出入りする人間は、誰もが武器を携えている。
冒険者ギルド。
その単語が、自然と頭に浮かんだ。
扉を押し開けると、酒場と事務所を合わせたような空間が広がっていた。カウンターの奥では受付嬢が書類を捌き、テーブルでは冒険者たちが酒を飲みながら依頼書を品定めしている。空気に混じる革と鉄と汗の匂い。
カウンターに向かう。受付嬢——栗色の髪を結い上げた女性が、俺を見て営業スマイルを浮かべた。
「いらっしゃいませ。ご依頼の確認ですか?」
「登録したい」
「新規登録ですね。お名前は?」
名前。そうだ、名前がない。数秒の沈黙の後、口が勝手に動いた。
「——レイド」
なぜその名前が出たのかは分からない。ただ、舌に馴染む響きだった。
「レイドさんですね。では、こちらの鑑定台に手を置いてください。保有スキルと適性を判定します」
鑑定台は石の台座で、表面に複雑な紋様が刻まれている。手を置くと、紋様が淡く発光し始めた。光は手のひらから腕を這い上がるように広がり、全身を一瞬だけ包み込んだ。温かくも冷たくもない、風のような感触だった。
受付嬢が結果を読み取る。
その瞬間、彼女の表情が凍った。
営業スマイルが消え、眉がわずかに寄る。困惑。気まずさ。そして——同情。彼女の視線が鑑定結果と俺の顔を二度往復し、それから声を落とした。
「あの……レイドさん。結果が出ました」
「言ってくれ」
「保有スキルは一つ。【観察眼】です」
沈黙が落ちた。——俺の沈黙ではない。周囲の冒険者たちが、一斉にこちらを見ていた。
そして、笑いが弾けた。
「観察眼だってよ!」
「戦闘スキルですらねえ! 情報系の、しかも最弱じゃねえか!」
「おい兄ちゃん、そのスキルで何を狩るんだ? モンスターを観察してる間に食われるぞ!」
カウンター横のテーブルから、体格のいい冒険者が声を上げる。周囲がどっと沸いた。ジョッキがテーブルを叩く音が重なり、ギルドの喧騒が一段と大きくなった。誰もが面白い見世物を見つけたという顔をしている。
受付嬢が申し訳なさそうに言う。
「【観察眼】は対象の情報を読み取る能力です。鑑定の下位互換とも言われていて……正直に申し上げると、戦闘職での運用実績はほぼありません」
知っている——いや、知らないはずなのに、理解できた。このスキルが「外れ」だということは、周囲の反応を見れば明らかだった。
だが、不思議と悔しさはなかった。そもそも期待していなかったからだ。記憶のない男が、都合よく最強スキルを授かる——そんな展開を信じるほど、俺は楽観的にできていないらしい。
「登録は可能か?」
「え? あ、はい。スキルの有無に関わらず登録自体は——」
「なら登録してくれ」
受付嬢が目を瞬かせた。笑っていた冒険者の何人かも、少し意外そうな顔をする。
俺には選択肢がない。記憶もない。金もない。身寄りもない。だが体は動く。ここで引き下がったら、明日食う飯もない。
登録証を受け取り、依頼掲示板の前に立つ。最低ランクの依頼書がいくつか貼られている。薬草採取、下水道の害獣駆除、荷運びの護衛——。どれも報酬は雀の涙だ。
一枚を手に取った。薬草採取。戦闘スキルがなくてもできる、最も基本的な依頼。
「——あの」
背後から声がかかった。振り返ると、小柄な少女が立っていた。亜麻色の髪にそばかす。腰には薬草を入れるらしい革の鞄。冒険者というより、街の薬局の店員のような印象だ。
「さっきの鑑定、見てました」
「ああ。笑いたければ笑えばいい」
「笑いません」
少女はまっすぐこちらを見ていた。その目には嘲笑も同情もなく、ただ切実な何かがあった。周囲の冒険者たちがまだちらちらとこちらを見ている中で、彼女だけが違う温度を持っていた。
「私、リーネっていいます。薬師見習いで……パーティを組んでるんですけど、明日の依頼に人手が足りなくて」
「俺でいいのか。【観察眼】だぞ」
「分かってます。でも、人がいないんです。うちのパーティ、みんな——」
リーネは言葉を切った。みんな訳あり、と言いかけたのだろう。視線が一瞬泳ぎ、それから覚悟を決めたように唇を引き結んだ。
底辺パーティが底辺の新人を拾う。それだけの話だ。利害は一致している。
「いつ、どこに集合だ?」
リーネの目が、ほんの少し明るくなった。強張っていた肩から、目に見えて力が抜ける。
「明日の朝、東門に。早いですけど、日の出前に」
「分かった」
それだけのやり取りだった。
リーネが小走りで去っていく背中を見送りながら、俺は握りしめた依頼書に視線を落とした。薬草採取。報酬は銀貨三枚。命を賭けるような仕事じゃない。
——のはずだった。
ギルドを出ると、空はもう暗かった。宿代も払えない俺は、路地裏で壁に背を預けて目を閉じた。石壁の冷たさが背中に染みる。どこかの家から夕食の匂いが漂ってきて、空の腹が小さく鳴った。通りを歩く人々の足音が遠ざかり、やがて静かになった。酔った冒険者の笑い声がどこかの酒場から漏れ聞こえるだけだ。
瞼の裏に、死の感覚が蘇る。冷たく、静かで、絶対的な終わり。
俺は確かに一度死んでいる。そしてこの世界で目を覚ました。理由は分からない。意味も分からない。分かるのは一つだけだ。
せっかく拾った命だ。簡単には手放さない。
夜風が頬を撫でた。知らない星座が、頭上で瞬いている。
明日、森に入る。最弱のスキルと、会ったばかりの仲間と。それが今の俺の全てだ。
——だが、この時の俺はまだ知らなかった。あの森で待っているものが、薬草なんかじゃないことを。そして【観察眼】が本当に「最弱」なのかどうか、その答えが突きつけられることを。