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癒糸師リーネの逆位覚醒

第2話 第2話

第2話

第2話

第二鐘の響きが、ギルドの高い天井に吸い込まれていく。

「揃ったな。審査室は奥だ」

ガルドは先頭で歩き出した。セレナが続き、マルクとベインが後ろに並ぶ。リーネは功績報告書の写しを胸に抱えたまま、最後尾に回った。石の床を踏む五人分の足音。そのうちの一つは、誰にも数えられていない足音だった。

審査室は壁が厚く、光が天井の高窓からしか入らない部屋だった。円卓の向こうに審査官が座っている。初老の男で、鼻梁に古い刀傷があった。卓上には「鉄鎖の盟約」の功績報告書が広げられている。

「着席を。Bランクからの昇格審査を始める」

乾いた声だった。五脚並んだ椅子の一番端に、リーネは腰を下ろした。革紐のほつれた手袋を膝の上でそっと握る。昨夜磨いたガルドの胸甲が、今朝は彼の背中で鈍く光っている。

「討伐実績、確認した。達成率九十二パーセント。被ダメージ推移——」

審査官がページをめくる指が、止まった。

「——推移。前年同月比で被ダメージが逓減している。ポーション消費量も継続して低い水準だ。戦闘回数に対して、パーティの損耗率が不自然なほど抑えられている」

ガルドが胸を張った。「連携の成果です」

「連携」審査官は顔を上げた。「連携で、装備損耗率が平均の六割以下に収まるか?」

刀傷の老人の視線が、ゆっくり卓上を滑った。

「功績報告書に記載された構成員は四名。だが、このダメージ数値は四人編成のものではない」

審査官は指先で数字の列を叩いた。乾いた音。

「支援職。結界維持、継続回復、装備修繕——貢献度が未記載だ。誰がやっていた」

部屋の空気が、わずかに張った。セレナが杯を持つ仕草で指を動かしたが、杯はない。マルクが咳払いをした。ベインは視線を床に落とした。四人分の沈黙が、それぞれ違う形をしていた。セレナの指先は宙をなぞり、マルクの喉仏は一度上下し、ベインの靴先は石床の目地を執拗にたどっていた。リーネは彼らの背中を、ほんの少し前の位置から見ていた。三年間、後ろから見続けた背中だった。胸甲の凹みの場所、ローブの裾の擦れ具合、籠手のベルトの締め忘れ癖——目を閉じても描けるほど覚えている。

ガルドだけが笑った。

「審査官殿、その件でしたら——」

椅子の脚が石床を擦る音。ガルドが立ち上がった。

「今日付で一人、パーティから外します。荷物持ちのリーネ。三年、置いてやりましたが、昇格審査の足手まといになるなら、話が別だ」

一拍、空気が止まった。

リーネは耳を疑った。意味が脳に届くまでに、半呼吸分の遅れがあった。手袋を握る指の関節が白くなる。耳の奥で、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。脈に合わせて視界の縁が一度、暗くなった。胸の中に冷たい水が流し込まれるような感覚があって、その水は指先まで到達する前に凍った。

「ガルド、待って」口が勝手に動いた。「わたし、なにか——」

「なにかじゃない」セレナが口を挟んだ。杖の柄を卓の縁に立てかけ、滑らかな声だった。「あなたがいると、昇格に響くの。数値化できない仕事は、審査の場では『記載するものがない』ってことなの。わかる?」

わからない。昨夜この杖のひびを塞いだ指が、まだ熱を覚えている。深夜、ろうそくの芯を短く切って、セレナの寝室の前に届けた。杖は扉の横に立てかけられていた。ひびは螺旋状に走っていて、指で魔力を通しながら、息を止めて繊維のひとつひとつを繋ぎ直した。終えたときには朝が白んでいた。その指が、いま、膝の上で意味を失って震えている。

「除名手続きは昨日のうちに済ませてある」ガルドが一枚の書面を審査官の前に滑らせた。「ギルド公認。パーティ構成から正式に外れた状態での審査ってことで、よろしく」

審査官の眉が、かすかに上がった。

「昨日、ね」

「段取りってやつです」

老人は書面を二度、読み返した。リーネのギルドカードを卓の中央に、と手で示す。リーネは胸ポケットから金属片を取り出し、置いた。カードの表面に刻まれた「鉄鎖の盟約」の刻印が、灯りを受けて光る。三年前、この刻印が刻まれた日、指先が震えて何度も取り落としそうになった金属だった。

審査官がカードを盤面にかざした。刻印の登録を解除する儀式魔法の文字列が、空中に一瞬浮かび、融けた。

金属面から、紋様が抜けていく。

縁から中央へ、細い筋が消えていく。鎖の輪を模した意匠が、鎖の形を失い、ただの線になり、線も消えた。最後に残ったのは、白い金属片。名前も所属もない、ただの板だった。三年間、胸ポケットの温度を共有してきた板が、いま、卓の上で急速に体温を失っていくように見えた。リーネはその金属を見つめたまま、瞬きを忘れていた。まつ毛が乾いて、内側からちりりと痛んだ。

リーネの喉の奥で、なにかが干からびた。

「除名、受理した」審査官の声は事務的だった。「これで構成員は四名。記録を更新する」

ガルドが満足げに頷いた。セレナは視線をリーネから逸らしている。マルクはすでに卓の下で指を組み替え、ベインは相変わらず床を見ていた。

「では改めて——」

審査官はそこで一度、言葉を切った。ページをめくる。めくる。また、めくる。

卓上の数字が、さっきと同じ数字で並んでいた。四人編成では説明のつかない損耗率。四人の連携では出ない達成率。支援記載欄は、空白のまま空白だった。

審査官の指が、書類の端で止まった。

「審査を、一旦保留とする」

声が乾いた石のように落ちた。

ガルドの笑みが固まった。「——は? いや、審査官殿、構成員の除名は正式な手続きで」

「手続きは有効だ。異論はない」審査官は老いた目を上げた。「だが、功績報告書の内容と、今の構成員名簿に、整合性がない。この達成率と損耗率は、ここにいる四人だけで出した数字ではない」

「連携で——」

「若いの」老人の声が低くなった。「わしは三十年、この席に座っている。数字は嘘をつかん。四人で出せる数字と、五人で出せる数字は違う。お前たちの報告書は、五人分の成果を四人で出したことになっている」

セレナが唇を噛んだ。マルクが目を泳がせた。ベインは卓の下で拳を握り直した。三人の呼吸が、それぞれ違うリズムで浅くなっていくのが、リーネの位置からは手に取るように感じられた。支援職は、仲間の呼吸の変化で体調を読む仕事だ。三年間、そうやって生きてきた感覚は、除名の紋様が消えたあとも、指先と耳の奥に残っていた。

「鉄鎖の盟約の昇格審査は、一ヶ月延期とする。その間に、除名された支援職を抜いた体制で、再度任務達成の記録を取れ。数字が維持できるなら、昇格を認めよう」

「待ってくれ!」ガルドが卓に手を突いた。「一ヶ月も遅れたら——」

「二ヶ月にするか?」

老人の刀傷が、灯りの中で線になった。

ガルドは口を閉じた。セレナが彼の腕を引いた。四人は何も言わず、椅子を引き、部屋を出ていった。誰もリーネを振り返らなかった。扉が閉まる音。石の部屋に、審査官とリーネの二人が残った。

リーネは立てなかった。

膝の上の手袋。三年間、魔力を通し続けた革。指の腹が擦り切れて薄くなっている場所がある。ここにあの杖のひびを伝う感触がまだ残っている。ここに胸甲の凹みの形が記憶されている。ベインの籠手のベルトを締め直した夜の金属の冷たさも、マルクの脇腹の傷に回復を流し込んだときの血の生暖かさも、この革は全部覚えている。覚えているのは革だけだった。

「お嬢さん」

審査官が、静かに声をかけた。

「顔を上げなさい」

リーネは顔を上げた。涙は出ていなかった。ただ、喉の奥が鉄の味がした。

「あんたの仕事は、報告書には載らなかった。だが、数字には残っていた。それが全部だ」

老人は卓の上のリーネのギルドカード——刻印の消えた白い板を、指先でこちらへ押し戻した。

「新しい刻印を入れるなら、受付で申請しなさい。支援職単独でのパーティ登録は、辺境支部でしか受理されんが」

辺境。

その単語が、リーネの頭の中で一度、転がった。

カードを受け取る。金属が冷たい。昨日まで鎖の紋様だった表面は、指先に引っかかりがない。つるりと、なにもなかったことになっている。

「……ありがとうございます」

声が自分でも遠かった。立ち上がるときに、椅子の脚が石床を擦った。その音が、部屋の広さを知らせた。

扉を押す。ロビーに出る。

「鉄鎖の盟約」の姿はもうなかった。受付嬢が驚いた顔でこちらを見て、慌てて視線を逸らした。昇格祝いのつもりで用意されていたらしい花束が、受付の脇の壺に斜めに刺さっている。

リーネは掲示板の前を通り過ぎた。辺境行き馬車の発着表。最安の便は、今日の昼過ぎだった。

審査室の中では、老審査官が卓の書類を一枚ずつ揃え、最後に功績報告書を閉じた。革表紙がぱたりと音を立てる。老人は小さく息を吐き、机の抽斗から新しい用紙を取り出した。

羽根ペンが、乾いた紙を擦り始めた。

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