第3話
第3話
ギルドの扉を押し開けると、朝の街は既に動き始めていた。
荷車を引く馬の蹄が石畳を打ち、パン屋の窓からは焼き上がったばかりの匂いが漂っている。昨日までなら、この匂いを嗅ぎながら武具屋に寄り、ガルドの剣の砥ぎを頼む時刻だった。リーネは武具屋の前を通り過ぎた。頼む剣は、もうない。
胸ポケットに入れた白い金属片が、歩くたびに肌に触れた。紋様が消えた面はつるりとしていて、体温を吸わない。三年間、鎖の意匠がそこにあったはずの場所を爪でなぞっても、指先は何の段差も拾わなかった。
掲示板の前で足を止めた。
辺境行き馬車の発着表。東のマリオン経由が金貨一枚。南のラスティカ直通が銀貨六枚。ラスティカは最も安い。最も遠い。
「南、ラスティカ行き」
受付の係員は羊皮紙に名前を書きながら、こちらを見ずに言った。「片道?」
「片道で」
「昼の第四鐘に出る。定員まであと二枠あるよ。荷物は」
「これだけです」
革袋をひとつ、カウンターの上に置いた。昨夜ガルドの胸甲を包んでいた布は、今朝ほどけて袋の底に畳んである。自分の装備——癒糸の手袋と、替えの下着が数枚、薬草採取用の小刀。それだけだった。
係員がようやく顔を上げ、袋と少女の顔を見比べた。
「支援職の子が単独で辺境?」
「……はい」
「まあ、行ってみればわかるよ。向こうはこっちと勝手が違う」
銀貨を六枚置いた。カウンターの縁に並べた円が、灯りを受けて鈍く光った。手元に残った貨幣を数える。金貨二枚と銀貨が十二枚。三年間の貯金は、昇格後の装備更新に使うつもりで取っておいた額だった。
馬車発着場の長椅子に腰を下ろす。木の背もたれが背中に硬い。膝の上で革袋を抱え、昨夜までの日常がほんの半日で紙の上から消えたことを、指先で確かめるように考えた。
第四鐘が鳴った。
御者の声で乗客が集まる。商人らしき中年男が二人、薬売りの老婆、冒険者風の男がひとり。リーネは一番後ろの席に乗り込んだ。木の座面は固く、馬車が動き出すと背骨に衝撃が走った。
街の城壁を抜け、馬車は街道へ出る。畑の緑が流れていく。窓枠に肘をついて景色を見るうちに、目の奥が熱くなった。泣くな、と自分に命じた。涙は昨夜のうちに、宿の枕で全部使い切っているはずだった。
——三年前の春だった。
地方の孤児院を出て王都に着いた日、冒険者ギルドの掲示板の前で途方に暮れていたリーネに、ガルドが声をかけた。「支援職か。うちは結界張れる奴がいなくてな。試しに一週間、組んでみないか」。あの日の親切は本物だったと、今でも思う。少なくとも、最初の数ヶ月は。日に焼けた頬に浮かんだ笑窪と、差し出された手のひらの大きさを、今でも覚えている。
一ヶ月目、マルクの偵察で魔獣の群れを回避したとき、ガルドは「リーネの結界がなきゃヤバかった」と自分の胸を叩いた。その手のひらは、酒場の卓を回して注文するときと同じ強さで、ぼん、と音を立てた。三ヶ月目、ベインの盾が大破した戦闘で、リーネが徹夜で修繕してみせたとき、ベインは分厚い手で肩を叩いた。「お前、器用だなあ」。指先が針の穴ほどの大きさに感覚を失って、朝日が窓から差し込むまで、癒糸の紡ぎ目をひとつも乱さなかった夜だった。
半年目、セレナの杖に初めてひびが入った夜、「あんたじゃないと直せないの、これ」と頼られた瞬間、胸の奥が温かくなった。暖炉の炭に息を吹きかけたときみたいに、肋骨のあいだで火が起きた。その熱を、自分はずっと自分の価値だと思っていた。
——いつからだろう。
一年目の終わり頃、討伐報酬の配分で「支援職は前線に立たないから」と八パーセントを提示されたとき、ガルドはすでに目を合わせなくなっていた。二年目、セレナが杖の修繕を「当然」のように扉の前に置くようになった。扉を開けると、床に転がった杖と、短い書き置き。「明日の朝までに」。それだけ。マルクは偵察報告の中にリーネの名前を入れなくなり、ベインは盾の手入れを頼むときだけ「おい」と呼ぶようになった。
でも、必要とされていた。
呼ばれれば行った。頼まれれば応えた。装備を磨く夜の手の動きだけが、自分の居場所を測る物差しだった。
馬車の揺れが激しくなる。街道が悪路に入ったのだ。隣の薬売りの老婆が舌打ちをして、荷物を抱え直した。
リーネは膝の革袋を撫でた。中の手袋の革が、指先に馴染んでいる。このひだの形は、セレナの杖のひびを塞いだ夜に握った形だ。このほつれは、ベインの籠手のベルトに擦れた跡だ。革は覚えている。革だけが覚えている。
——あなたがいると、昇格に響くの。
審査室でのセレナの声が、耳の奥で蘇った。何度反芻しても、その言葉の温度は、最初に聞いたときと同じまま、喉の奥に沈んでいた。
日暮れ前、馬車は辺境都市ラスティカに着いた。
城壁は低く、石と木材が継ぎはぎに使われていた。門番の兵士は鎧を着ず、革の胴着ひとつで欠けた槍を担いでいる。馬車を降りた瞬間、街の匂いが王都と違った。鉄屑の錆、なめし革、焚き火の煙、そして——獣の臭い。街路に牛糞と魔獣の血の匂いが混じって残っていた。
「兄ちゃん、狩りどうだった」
「今日はワイバーンの幼体。一匹だけ」
「おっ、じゃあ今夜は肉祭りだな」
通りを歩く男たちは、王都の冒険者と体格からして違った。筋肉の付き方が実戦で鍛えられたもので、革鎧には魔獣の血の染みがそのまま乾いている。武具の手入れは最低限、折れた部分を縄で縛って使っている者もいた。装備の修繕文化が、ここにはまだ根付いていない。
リーネは荷物を背負い直し、ギルドの看板を探した。
ラスティカ支部の建物は、王都本部の三分の一ほどの大きさだった。石造りだが、壁には魔獣の爪痕らしき傷が幾筋も残っている。入口の扉を押すと、蝶番が軋んだ。
中の空気は、濃かった。
酒の匂いと汗の匂いが一緒くたに充満している。依頼掲示板の前で男たちが怒鳴り合い、奥の酒場席では昼間から杯が傾いていた。王都の礼儀ある静けさとは正反対の空間だった。壁際のベンチで、腕を三角巾で吊った冒険者が呻いている。誰も介抱していない。
受付カウンターは、入って右手にあった。
「すみません」
声をかけると、受付嬢——というより三十代の女性冒険者風の人間が、書類から顔を上げた。髪を後ろで乱雑に縛り、左頬に古い刀傷がある。目つきは鋭かった。
「新規登録? 冒険者カードは?」
「これです」
白い金属片をカウンターに置いた。紋様の消えたギルドカード。
女は片眉を上げた。「除名済みか。どこのパーティから」
「……王都の、鉄鎖の盟約です」
「ああ」女は小さく頷いた。興味があるとも、ないとも取れる頷き方だった。「で、ランクは」
「Bです」
「クラスは」
「支援職。〈癒糸師〉です」
女の指が、書類を繰る手を止めた。
数秒の沈黙があった。受付嬢はリーネの顔を一度見て、それから手元の登録台帳をめくり、また顔を見た。口の端が、わずかに歪んだ。同情とも嘲笑とも違う、もっと事務的で乾いた表情だった。ランプの火が揺れて、女の頬の刀傷が一瞬だけ深く陰になった。
「あんた、一人で来たの」
「はい」
「パーティは」
「これから、探します」
女は長く息を吐いた。カウンターに肘をつき、リーネを正面から見据えた。瞳の色は、鉄を水に浸けた直後の、黒に近い灰色だった。
「悪いけど、うちの支部じゃ支援職単独の依頼受注はできないよ」
「……え?」
声が、喉に引っかかって掠れた。耳の奥で、王都からここまで揺られ続けた馬車の軋みが、まだ鳴っている気がした。
「辺境のギルド規約でね。戦闘職を含まないパーティ構成は、魔獣討伐も薬草採取も受理不可。生還率が低すぎるんだ。去年、単独の治癒師がふたり、森で死んでる」
リーネの指先が、カウンターの縁を掴んだ。木の節目が爪の下で硬く抵抗した。背負った革袋の重みが、急に倍になったように肩に食い込んだ。
「で、でも、登録自体は」
「登録はできる。でも依頼は取れない。パーティが見つかるまでは、な」
女はリーネの白い金属片を、指先で軽く弾いた。つるりとした面が、カウンターの木目の上を滑った。
「まず宿を取って、掲示板でパーティ募集を探しな。辺境は人の入れ替わりが激しいから、枠は空く。ただし——」
女は一度言葉を切り、店内を目で指した。酒場席で昼から酔い潰れている冒険者。腕を吊って呻く男。壁の爪痕。
「ここには、選んで人を入れるパーティなんて、ほとんどない」
ギルドの奥で、木の扉が乱暴に開く音がした。