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癒糸師リーネの逆位覚醒

第1話 第1話

第1話

第1話

夜の酒場で、英雄たちが笑っていた。

壁に掛けられた獣角のランプが橙色の光を揺らし、焼けた肉と安酒の匂いが煙のように漂っている。木のテーブルには空になった皿が積み重なり、杯が鳴るたびに琥珀色の雫が飛び散った。

「今日の戦闘、俺の〈断鉄斬〉で仕留めたな。ガルドさんの囮がなけりゃ引き出せなかったけど」

「いや、セレナの氷壁で退路を断ったのがデカい。完璧な連携だったろ」

Bランクパーティ「鉄鎖の盟約」——前衛のガルド、副リーダーで魔法士のセレナ、斥候のマルク、重装のベイン。酒場の中央テーブルで杯を重ねる四人の声は、周囲の冒険者たちにも聞こえるように大きい。隣のテーブルの新人冒険者たちが、羨望と畏敬の入り混じった視線をこちらに向けていた。

その隅の席で、リーネは黙々とガルドの胸甲を磨いていた。

酒場の喧騒は壁一枚向こうの出来事のように遠い。手元のランプだけが頼りで、胸甲の表面に映る自分の顔はひどくぼやけている。戦闘で受けた衝撃の痕を、油を染み込ませた布で丁寧になぞる。凹みの一つひとつが、今日ガルドが身を挺して受けた攻撃の記録だった。

革紐のほつれを〈癒糸〉で編み直す。魔力を込めた糸は、断裂した繊維を元の強度以上に修復する。支援職〈癒糸師〉——それがリーネのクラスだった。戦闘中の結界維持、状態異常の回復、そして戦闘後の装備修繕。パーティの裏方すべてを十六歳の少女が一人で担っている。

磨き終えた胸甲を布で包み、次はセレナの杖に取りかかる。魔力伝導部に微細なひびが入っていた。放っておけば次の戦闘で暴発する。リーネは〈癒糸〉を髪より細く紡ぎ、ひびの奥まで浸透させた。指先に伝わる杖の脈動が、かすかに乱れている。魔力の流路が歪んでいる証拠だった。糸を一本、また一本と通し、流路の形を整えていく。額にうっすら汗が滲んだ。集中を途切れさせれば、ひびが広がる。呼吸を浅くして、最後の一本を通し終えたとき、杖がふわりと淡い光を放った。正常な魔力循環が戻った合図だ。

誰もこちらを見ていない。

それでいい。明日もみんなが万全で戦えるなら、それが自分の仕事だ。

「——で、明日の昇格審査だけどよ」

ガルドの声のトーンが変わった。酒場の喧騒が一瞬遠くなる。リーネは手を止めずに耳を傾けた。

「功績報告書は俺がまとめた。審査官の受けがいいように、討伐数と達成率を前面に出してある」

「報酬配分の記載はどうしたの?」セレナが杯を傾けながら訊いた。

「均等配分で出した。まあ実態とは違うが、審査に関係ないだろ」

リーネの取り分は八パーセント。均等なら二十パーセントのはずだが、「戦闘に直接参加していない」という理由で入隊初年度から削られていた。三年間、一度も異議を唱えたことはない。支援職だから仕方がない——リーネ自身がそう思っていた。最初の頃は、せめて十五パーセントに、と言いかけたことがある。だがガルドの「前線に立たない奴が取り分を語るな」という一言で、喉の奥に言葉を押し戻した。それ以来、報酬の話が出るたびに、リーネは自然と手元の作業に目を落とすようになった。

「マルク、お前の斥候報告は載せたぞ。ベインの盾役スコアも数字が映える」

「ありがてえ。で、リーネの分は?」

マルクの何気ない一言に、テーブルが一瞬静まった。

「……支援職の貢献は数値化しにくいからな。結界維持とか回復回数とか、審査基準に項目がないんだよ」

ガルドは肩をすくめた。セレナが小さく頷く。

「仕方ないわよ。審査官が見るのは戦闘実績。リーネの仕事は——まあ、裏方だもの」

リーネは杖のひびを塞ぎ終え、静かに布で拭いた。胸の奥がわずかに軋んだが、すぐに飲み込んだ。いつものことだ。自分の名前が報告書に載らないのは、今回が初めてじゃない。

「じゃあ明日、全員揃って審査会場に来いよ。朝の第二鐘な」

「了解」「はいはい」「わかった」

四つの返事。リーネも小さく頷いたが、誰もそれを確認しなかった。

酒場を出ると、夜風が冷たかった。石畳を踏む自分の足音だけが路地に響く。背中の革袋には、磨き終えた四人分の装備が詰まっている。重い。でもこの重さが、自分がパーティにいる証拠だと思っていた。

宿に戻り、自分の装備——使い古した癒糸の手袋だけを寝台に置く。修繕する必要もないほど、戦闘で消耗していない。

壁に立てかけたギルドカードに目をやる。「鉄鎖の盟約」の刻印。三年前、初めてこの刻印が刻まれた日の興奮を、まだ覚えている。

「明日もみんなの役に立てますように」

小さく呟いて、灯りを消した。

眠れないまま、天井の染みを数えていた。

窓の隙間から入り込む夜気が、薄い毛布の端を揺らしている。どこか遠くで酔っ払いの歌声が聞こえ、やがて笑い声に変わって消えた。静寂が戻ると、自分の心臓の音がやけに大きく感じられた。

ふと、先月の定期報告を思い出す。ギルドの受付嬢が渡してくれた任務記録の写し。パーティの被ダメージ推移が月別でまとめられていた。

リーネが風邪で二日間休んだ月だけ、被ダメージが四割跳ね上がっていた。

ポーション消費量は三倍。マルクが負傷離脱、ベインの盾が大破。たった二日、結界維持がなかっただけで。

その数字を見たとき、少しだけ嬉しかった。自分がいる意味がある、と思えたから。

でもガルドはその報告書を「誤差の範囲だ」と一蹴した。セレナは「たまたまハズレ依頼が重なっただけ」と言った。

——たまたま、か。

寝返りを打つ。明日の審査のことを考える。Aランク昇格が通れば、受けられる依頼の幅が広がる。報酬も上がる。三年間の下積みが報われる。

ガルドが功績報告書にリーネの名前を載せなかったことは、気にしないようにした。審査官が見るのは戦闘実績。支援職の自分が載らないのは、おかしなことじゃない。

そう自分に言い聞かせた。

手袋を握りしめる。使い込んで柔らかくなった革の感触が、少しだけ心を落ち着かせた。

寝台の上で身を起こしたのは、夜明け前だった。

窓の外はまだ暗い。第一鐘が遠くで鳴っている。審査は第二鐘。支度には十分な時間がある。

だが、胸騒ぎが消えなかった。

昨夜のガルドの言葉が引っかかっている。「支援職の貢献は数値化しにくい」——それ自体は事実だ。だが、数値化しにくいのと、記載しないのは違う。

リーネは宿の階段を降り、ギルドの掲示板へ向かった。早朝のギルドは閑散としている。受付嬢が一人、あくびを噛み殺しながら書類を整理していた。

「あの……明日——いえ、今日の昇格審査の提出書類って、閲覧できますか」

「パーティメンバーなら写しを出せるわよ。ちょっと待ってね」

渡された功績報告書の写しを、リーネは掲示板の灯りの下で開いた。

討伐実績。達成率。報酬総額。個別貢献記載欄。

ガルドの名前。セレナの名前。マルクの名前。ベインの名前。

四人の名前が並んでいた。

リーネの名前は、どこにもなかった。

パーティ構成欄すら四人編成と記載されている。五人目は存在しない。三年間、一緒に戦ってきた〈癒糸師〉は、紙の上では最初からいなかったことになっている。

報告書を持つ指先が、小さく震えた。

昨夜あれほど丁寧に修繕した装備が、この報告書の中では誰の手で整備されたことにもなっていない。セレナの杖のひびも、ガルドの胸甲の凹みも、自然に直ったことになっている。あの額の汗も、息を殺した集中も、淡く光った魔力の脈動も——なにひとつ、ここには残っていなかった。

「……知ってた。知ってたけど」

声が掠れた。目の奥が熱い。泣くな、と自分に言い聞かせた。泣いたところで、紙に名前は現れない。

報告書を閉じようとした手が止まる。最後のページの隅に、小さな注記があった。「装備損耗率:過去十二ヶ月平均の六割以下」。その数字を維持していたのは誰だ。リーネは唇を噛み、静かに報告書を折り畳んだ。

背後で、ギルドの大扉が軋んだ。

「お、早いな。リーネ」

ガルドの声。振り返ると、「鉄鎖の盟約」の四人が揃って入ってきたところだった。セレナがリーネの手元——功績報告書の写しに目を留め、一瞬だけ表情を硬くした。

第二鐘が、鳴り始めた。

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