第2話
第2話
朝霧が、薬草畑の上で白く渦を巻いていた。
ハルナは籐の籠を腰に下げ、親指の爪で月草の葉を摘む手を止めた。鼻の奥に、焦げた鉄の匂いが走ったからだ。半世紀、この辺境で薬師をやってきて、初めて嗅ぐ匂いだった。
「……雷でもないね」
独り言がかすれる。空は晴れている。雲ひとつない。
匂いは北の峠の方から流れてきていた。麓の村の井戸水を汲みに出る時刻にはまだ早い。ハルナは籠を畑の端に置き、腰の痛みを忘れて細い獣道を登り始めた。足首に絡む露草の冷たさが、脛を濡らす。峠まで半里もないはずだが、息が上がって咳き込んだ。
獣道の終わりに、直径三歩ほどの円形の凹みがあった。苔が焦げ、地面の黒土が灰色に変色している。その中心に、少女が一人、うつ伏せに倒れていた。
ハルナは膝を折り、土に指をついた。息を整えてから、少女の細い手首を取る。脈はある。けれど、触れた皮膚がひどく熱い。夏の釜戸の縁に触れるような熱だった。
「……嬢ちゃん、聞こえるかい」
返事はない。ほどけた黒髪が泥に貼りついている。首筋には、浅い赤い筋が走っていた。刃物で浅く切ったような、そんな傷だ。
ハルナは少女の背に手を滑り込ませ、抱き起こした。老いた体には重すぎる。けれど、ここに置いて村まで人を呼びに戻る余裕はなかった。体内で熱が荒れている。この熱の正体を、ハルナは知っている。
「魔力あたりだね、こりゃあ」
風下から、雪解け水の匂いがした。川まで下れば、家はそこだ。ハルナは少女を担ぎ上げ、歯を食いしばって獣道を下り始めた。途中、二度ほど膝が砕けかけたが、その都度、近くの樫の幹に肩を押しつけて支えた。少女の頬が、ハルナの首筋にぴたりと貼りついている。発熱した子どもの体温というより、湯たんぽに直接抱きつかれているような熱量だった。歩を進めるたびに、少女の口元から漏れる息が、ハルナの鎖骨を湿らせる。その息にも、あの焦げた鉄の匂いが混じっていた。
板敷きの土間に、湯気が充ちていた。
薪ストーブの上で、鉄鍋が低く鳴いている。湯を沸かし、月草と白花の根を刻んで煎じたものだった。ハルナは藁布団に少女を寝かせ、濡れた布で額を拭く。布はすぐに熱を吸って湯気を立てた。
「ひでえなぁ」
ハルナは舌打ちをした。少女の指先が細かく震え、唇の端から青白い光が細い糸のように漏れている。魔力が暴れている徴だ。普通なら鎮静の薬湯で収まる。普通なら、だ。
ハルナは布を桶の水に浸し直し、絞った。水が指の節を濡らす。その水が、布から離れた瞬間に、ほんの一拍だけ、鈍い銀色を帯びた気がした。錯覚だろうか。半世紀の薬師仕事で、錯覚と前兆を見分ける目だけは鍛えてきたつもりだった。それでも今は、自信が持てない。
「エステル、様……」
少女の唇が動いた。
ハルナは耳を近づけた。
「結界の、北東……満月までに……」
「いいから寝ときな。村の結界なら、うちの爺さんが昨日見回ったよ」
ハルナは煎じ薬を匙で少しずつ口に運んだ。少女は飲み込めず、半分は頬を伝って落ちる。喉元に手を添え、ゆっくりと上下に撫でた。三十年前、夫が瘴気熱で倒れたときに覚えた手順だった。指先の節が、夫の喉仏の硬さを今でも覚えている。あの時は間に合わなかった。今度は、と思いかけて、ハルナはその先を考えるのをやめた。考えると、手が止まる。手が止まれば、目の前の命が滑り落ちる。
ふと、少女の睫毛が震えた。
瞼が、薄く開く。
水晶のような、けれど焦点の合わない瞳が、天井の梁を映した。
「……ここは」
「辺境だよ。ハルナの家。お前さん、峠の上で倒れてたんだ」
ハルナの声は穏やかだった。少女の目が動き、窓の外の朝日を捉える。その瞳孔が、少し開いた。
「空気が……違う」
少女の唇が、かすれた声で言った。
「違う、って」
「魔力、が……濃い。こんな、濃度……王国には、なかった」
ハルナは眉を上げた。王国、という言葉に引っかかったからだ。このあたりで王国と呼ぶ国はない。都市国家フォルティスが一番近い勢力で、北東に大公国、西に小さな部族連合がある。王国と名のつく国家は、少なくともハルナの生きてきたあいだにはなかった。
「嬢ちゃん、名前は」
「ルミナ、……です」
「ルミナ。聞き慣れない響きだ」
ルミナが答える代わりに、小さく咳き込んだ。咳のたびに、体の輪郭が微かに光る。ハルナの手の甲に、鳥肌が立った。
ルミナの咳は、次第に発作に変わった。
背が弓なりに反り、指が藁布団を掻き毟る。口元から漏れる光が、細い糸から太い束へと膨らんでいく。部屋の空気が歪み、天井から吊るした乾燥薬草が、持ち主を失った蜘蛛の巣みたいに揺れた。鉄鍋の中の煎じ薬が、火にかけてもいないのに、ぐら、と一度沸いた。窓ガラスが内側から押されるように軋み、薪ストーブの煙突が、口笛のような音で鳴いた。空気そのものが、ルミナの体を中心に渦を巻いている。
「落ち着きな。息を吐くんだ。吸っちゃいけない」
ハルナはルミナの両肩を押さえた。老女の手とは思えない力で。
「しまい込むんだ、胸の奥に。無理でも、しまい込む」
ルミナの瞳が、ハルナを見た。初めて、はっきりと。
「無理、です……私、ずっと、最弱で」
「知らないよ、お前さんがどこの最弱だったかは。今この瞬間、うちの家を吹っ飛ばされちゃ困るんだよ」
ハルナは腰の帯から革の袋を引き抜いた。中には、銀色の丸薬が三粒。三年寝かせた鎮魔丸。この村ではハルナの家にしか置いていない最上級品だ。一粒で、暴走した熊憑きの大男を半刻で眠らせた実績がある。
「口、開けな」
一粒を舌の上に乗せた。ルミナは反射的に飲み下した。
効く――はずだった。
鎮魔丸は、丸薬が胃に届く前に、ルミナの体の中で砕け散った。光の粉になって、毛穴から蒸発していく。
「……あらま」
ハルナの喉の奥で、息が小さく詰まった。半世紀やってきて、鎮魔丸が砕けるのを見たのは初めてだった。胃酸でも、火でも溶けない丸薬だ。それが、まるで紙でできていたかのように、少女の中で崩れた。
ハルナは残る二粒を一度に口に入れさせた。同じだった。毛穴から光の粉が漏れ、部屋中に桜の花弁のように舞う。畳まれた洗濯物の縁が、薄く発光し始めた。床板の節目が、淡い青で輝き、天井裏で何かが――おそらくは古い結界の護符が――じりじりと焦げる音を立てた。ハルナの喉の奥が、唾を飲み込めずに乾いていく。
「爺さん、だめだこりゃ」
ハルナは立ち上がり、戸棚を開けた。奥の黒檀の箱から、古びた真鍮の筒を取り出す。指の太さほどの、針のない目盛り盤。村長から預かっている、辺境連合規格の魔力測定具だった。十年前、流行り病の調査で連合本部から配られたまま、一度も最大値の半分すら指したことのない代物だ。
ルミナの胸に押し当てる。
目盛り盤の指針が、勢いよく右に跳ねた。最大値の三百を示す位置まで飛んで、そこで止まらず、盤の外にはみ出した。ガラスの覆いに、鋭い罅が入った。
「……こいつは、ねえだろ」
ハルナは筒を離し、震える指で眼鏡を直した。半世紀、薬師をやってきた。山の霊泉で直接魔力を汲む巫女も、月蝕の夜に生まれた高魔力体質の双子も、この目で見てきた。あの巫女ですら、この測定具なら百二十を指す程度だったはずだ。
それでも、測定具の指針が振り切れて罅を入れたのは、初めてだった。
ルミナの発作は、少しずつ収まり始めていた。
外に光の粉が漏れる代わりに、少女自身が吸い戻すように、輪郭が鈍く明滅を繰り返している。意識は既にない。長く眠る必要がある、とハルナは思った。この熱を抜ききるまで、三日。あるいは、もっと。
ハルナは罅の入った測定具を、窓辺の朝の光に透かした。指針の軸が折れ曲がり、盤の裏側から薄く光が漏れている。魔力の残滓が、内部の歯車を焼いたのだ。村長にどう説明すればいいか。壊したのは自分ではなく、この藁布団の上の少女だと、どう切り出せばいいか。連合の規格品だ。弁償しろと言われたら、薬草畑の半分を売っても足りない。けれど、と思い直す。弁償の心配ができている時点で、まだ余裕がある証拠だ。本当にまずいのは、この少女が誰で、どこから来て、何故ここに落ちてきたのかが、まるで分からないことの方だ。
少女の寝息は、ようやく穏やかになった。
ハルナは測定具を膝に乗せ、長く息を吐いた。煎じ薬の湯気が、天井の梁にゆっくりと昇っていく。
「この子の体内魔力、うちの測定具じゃ振り切れるねぇ」
独り言は、返事のない土間に消えた。
ハルナの皺だらけの指が、ルミナの黒髪をそっと撫でた。指先に、今もなお微かな熱が灯っている。夏の釜戸の縁の熱ではない。もっと深く、もっと静かで、もっと――底が見えない、井戸の水を覗き込んだときのような熱だった。
「爺さん、ちょいと、厄介な客が来たぞ」
壁に立てかけられた亡き夫の遺影に、ハルナは小さく笑いかけた。
窓の外で、朝の鶏が、一度だけ鳴いた。