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最弱聖女の原初浄化

第3話 第3話

第3話

第3話

朝の光が、藁布団の縁を金色に染めた。

 ルミナが目を開けたとき、最初に視界に入ったのは天井の梁の節目だった。三本目の節が、人の横顔に見える。三日間、熱に浮かされながら、薄目の合間に何度もそれを数えていた気がする。

 体を起こすと、首筋の瘡蓋が引きつれた。指でなぞる。処刑台で頬をかすめた石の傷ではなく、刃が落ちる寸前に当たった――あの冷たい金属の名残だった。

「起きたかい」

 土間の方から、しゃがれた声がした。ハルナが鉄鍋を匙で掻き混ぜている。湯気の中で、白髪が朝霧のように揺れた。

「三日も寝たね。粥、食えるか」

「……はい」

 声がかすれた。喉の奥に、まだ熱が残っている。けれど胸の奥で暴れていた何かは、嘘のように静まっていた。代わりに、皮膚の下を流れる血の一滴ずつが、温泉の湯のような温度で循環している感覚がある。

「ここは、どこですか」

 ルミナは雑穀の粥を匙で口に運びながら聞いた。塩と、嗅いだことのない香草の風味がする。舌の上で、ほのかな甘みと土の匂いが溶けていく。王都の宮廷で出された白米の味を、ルミナはもう思い出せなかった。

「辺境連合のはずれ。トルカという小さな村だ」

「連合……」

「都市国家フォルティスが盟主の連合さ。北東に大公国、西に部族連合がある。お前さん、本当に何も知らないのかい」

 ハルナの老眼鏡の奥の目は、詮索ではなく薬師としての観察だった。

「私のいた国は、ここには、ないみたいです」

 ルミナは粥を飲み下した。三日のあいだに、自分の置かれた状況の輪郭が見えてきていた。あの光の柱が、自分をどこか別の場所へ運んだ。それは確信に近かった。

「歩けるかい。外の空気を吸わせてやろう」

 ハルナが匙を置き、戸を開けた。

 外の空気が肺に触れた瞬間、ルミナは思わず立ち止まった。

 濃い。ただ、濃い。

 王国の宮廷で結界補修のために集めていた魔力の、十倍――いや、もっとだ。呼吸するだけで、毛穴の隅々まで魔力が染み込んでくる。痛いほどの飽和感に、ルミナは胸を押さえた。指先が、勝手にじんと痺れる。瞼を閉じると、暗闇の向こうに無数の光の粒が舞っているのが見える気さえした。

「気分が悪いか」

「いえ……逆、です。ここでは、息をするだけで力が満ちる」

 ハルナが眉を上げた。

「お前さんの国は、空気が薄かったのかね」

「魔力が、です」

 村は、丸太と石で組まれた素朴な家屋が三十軒ほど寄り添うように建っていた。中央に井戸。その奥に古びた木造の祠。子どもたちが井戸の周りで石蹴りをしている。一人がルミナに気付いて立ち止まり、目を丸くした。

「ハルナ婆、その人」

「峠で拾った客人だ。気にすんな」

 子どもは頷いて、また仲間と駆けていった。ルミナの頬が、わずかに緩んだ。王都では、見慣れない人間が広場を歩けば、必ず兵士に呼び止められた。槍の穂先を向けられ、出自を問われ、答えるまで前に進めなかった。ここには、それがない。誰も、ルミナの背中に刃を向けない。

 通りを行き交う村人たちは、皆ルミナに会釈をした。怪訝そうな視線はあったが、敵意はなかった。畑帰りの男が、ハルナに薬草の束を渡し、二言三言交わして去る。誰もが、自分の仕事と隣人の顔だけで世界が完結している様子だった。洗濯物を抱えた女が、すれ違いざまに「おはよう」と言った。その声の軽さに、ルミナは喉の奥が詰まるのを感じた。挨拶ひとつが、これほど温かいものだと、三年間の王都で忘れていた。

「ハルナ様。あの祠は」

「ああ、あれは鑑定碑だ。千年以上、村の守りでね」

 ハルナが指さした先に、苔むした石碑があった。祠の中央に立つ、人の背丈ほどの灰色の石。表面に、文字とも紋様ともつかぬ細い線が無数に編まれている。

「鑑定、ですか」

「触れると、その人の魔力素質が刻まれる。子どもが十になると、皆ここで一度測る。村の習わしさ」

 ハルナはルミナの顔を、じっと見た。眼鏡の奥の目が、薬師ではない別のものに切り替わっていた。

「お前さん、自分が何者か、知りたかないか」

 ルミナは鑑定碑を見つめた。処刑台で読み上げられた「Eランク」の三文字が、瞼の裏にこびりついている。あの数字に三年間縛られて、結界を直しても疫病を浄めても、誰にも信じてもらえなかった。廊下ですれ違うたび、貴族が扇で口元を隠し、小さく笑った。「Eランクの聖女様」と。その嘲りの声が、耳の奥で今も反響している。

 もし、ここで測ったら――。

 怖い、と思った。同時に、知りたい、とも思った。

「触れて、いいんですか」

「客人にも開かれてる。それが村の決まりだ」

 ハルナが一歩、後ろに下がった。

 ルミナは石碑に近づいた。

 苔の匂いがした。湿った石の冷たさが、近づくだけで皮膚に伝わってくる。井戸端から、子どもたちの石蹴りの音が、遠く小さく響いていた。石を蹴る乾いた音、笑い声、誰かを呼ぶ高い声。その平穏が、かえってルミナの鼓動を速くした。

 右手を上げる。指先が震えた。三年前、王国の大神殿で初めて鑑定を受けた日も、こうして指が震えた。鑑定官が冷たい目で「Eランク」と告げたとき、体の中で何かが折れた音がしたのを、今も覚えている。大理石の床の冷たさ、高い天井に反響した嘲笑、そのすべてが、今この瞬間の指先に重なってくる。

 手の平を、石に当てた。

 刹那。

 石碑の中で、低い音が鳴った。

 地鳴りのような、けれど耳ではなく骨で聞く音。ルミナの掌が、跳ね上がるように石から離れた。離れたときには、もう遅かった。

 石碑の表面に、新しい紋様が走った。最初は細い線が内側から光を放ち、次に、線と線の間に別の線が割り込み、また割り込み――千年かけて刻まれた文字が、新しい文字に上書きされていく。石碑全体が、内側から赤い熱を持ち始めた。熱は白に変わり、白は青に変わり、やがて色を超えた眩しさになった。ルミナは片腕で目を庇った。

「下がれ!」

 ハルナがルミナの腕を掴んで引いた。

 その瞬間、石碑が砕けた。

 爆発ではなかった。崩落でもなかった。石の組成そのものが、内側から細かく分解されていくような、奇妙な砕け方だった。乾いた音が連続し、灰色の破片が祠の床に積もっていく。最後に、石碑の芯にあったらしい黒い結晶が、空中で粉になって消えた。

 祠の中に、白い粉塵が舞った。

 通りの村人たちが、悲鳴のような驚きの声を上げた。井戸端の子どもたちが石蹴りをやめ、走ってきた。畑から鍬を持ったまま、男たちが駆け寄ってきた。

「鑑定碑が……」

「千年、一度も罅すら入らなかったのに」

「何が起きた、ハルナ婆」

 ハルナは答えなかった。ルミナの腕を掴んだまま、砕けた石碑の残骸を見ていた。

 粉塵の中に、一行だけ、文字が浮かんでいた。石碑の最後の魔力が刻んだ、たった一言。

 ――測定不能。

 ルミナの息が止まった。

 Eランクではなかった。Aランクでも、Sランクでもなかった。ランクの枠そのものを、千年の石碑が拒絶した。

 体の奥で、ハルナの家で暴れていた光の正体が、ようやく形になって理解できた。あれは、王国の鑑定官が「最弱」と切り捨てたものの正体ではない。最弱と判定されたのは、王国の鑑定碑が――あの粗末な水晶板が、ルミナの魔力を測れなかったからだ。測れない値を、機器は最低値として表示する。Eランク。それは、機器が降参した印だった。

 ――私の浄化術は。

 ルミナは自分の手を見つめた。指先にまだ、石に触れた冷たさが残っている。その冷たさの奥で、温かい何かが静かに脈打っていた。

 ――王国の三年間で、誰も知らなかった、本当の名前があるの。

 原初浄化。

 その四文字が、なぜか胸の中で勝手に響いた。誰に教わったわけでもない。けれど、それが自分の力の本当の名前だと、骨の奥が確信していた。血の巡りが、その四文字に合わせて拍を刻んでいた。

 祠の前に、二十人ほどの村人が集まっていた。

 その中を、息を切らせた老人が掻き分けて出てきた。腰に村長の証である銀の鎖を巻いている。鎖は古く、銀がところどころ黒く曇っていた。

「ハルナ。何が起きた」

「見たまんまだ、村長」

 村長はルミナを見た。それから、砕けた石碑を見た。粉塵の中に浮かぶ「測定不能」の四文字を見た瞬間、村長の頬から血の気が引いた。銀の鎖が、村長の喉元で小さく鳴った。

 村長は周囲の村人を見渡し、声を絞り出した。

「……皆、聞け。今ここで見たことは、村の外で口にしてはならん。連合本部にも、隣村にも、絶対にだ」

 村人たちがざわついた。

「だが、村長。鑑定碑が――」

「他言するな、と言っている」

 村長の声が、低く震えた。

「『測定不能』の鑑定が出た者は、過去の記録で三人。三人とも、十年以内に他国の刺客に殺された。これは、そういう値だ」

 ルミナは、村長の顔を見た。皺の刻まれた額に、汗が一筋伝っていた。村長の目は、ルミナを恐れているのではなかった。ルミナを連れていかれることを、恐れていた。

 ハルナがルミナの腕を、強く掴み直した。皺だらけの指が、驚くほどの力でルミナの骨を抑えていた。離さない、という意思が、掌の熱から伝わってきた。

 粉塵の向こうで、子どもの一人が、もう駆け出していた。隣の畑の方へ。畑の向こうには、隣村へ続く街道がある。土埃を蹴散らすその小さな背中を、村長は止められなかった。誰も止められなかった。

 村長の口止めは、もう間に合わなかった。

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