第1話
第1話
刃が、陽光を弾いた。
白く、鋭く、一瞬だけ目を灼く光。処刑用の大剣は刃こぼれひとつない新品だった。わざわざこの日のために鍛えさせたのだろう。偽聖女の首を刎ねるための、特別な一振り。
処刑台の上から見る王都は、ルミナが知っているものとは違う景色だった。石畳の広場を埋め尽くす群衆。その誰もが、冷たい目をしている。昨年の大疫病のとき、夜通し浄化術を行使して救った人々。結界が破れた北門で、魔獣の瘴気を一人で鎮めたときに守った人々。同じ顔が、今は処刑を見届けるために集まっている。
春の風が処刑台を吹き抜けた。広場の花壇に植えられた白百合の香りが、かすかに届く。あの花壇は、去年の瘴気嵐で枯死した跡地にルミナが浄化術をかけ、土壌を甦らせた場所だ。そんなことは、もう誰も覚えていない。
「偽聖女ルミナに告ぐ。聖女の名を騙り、王国を欺いた罪により、ここに処刑を執行する」
宣告官の声が広場に響き渡る。ルミナは手枷の重みを感じながら、静かに息を吐いた。鉄の手枷は氷のように冷たく、手首の骨に食い込んでいた。三日前に投獄されてから、一度も外されていない。手首の皮膚は擦れて赤黒く変色し、鈍い痛みが脈拍に合わせて疼いている。
騙ってなどいない。聖女の証である浄化術を使えるのは、この王国でルミナただ一人だ。少なくとも——昨日までは、誰もがそれを知っていたはずだった。
視線を右に向ける。玉座の隣に設えられた貴賓席で、第二聖女エステルが微笑んでいた。金の巻き毛を風に遊ばせ、白い聖衣を纏い、慈愛に満ちた表情で群衆を見下ろしている。
その唇が、小さく動いた。
——さようなら、ルミナ。
読唇するまでもない。あの笑みは、勝利の笑みだ。
ルミナの功績はすべてエステルのものとして記録されている。三年前の南部疫病の浄化。二年前の王都結界の大修復。去年の瘴気嵐の鎮圧。ルミナが夜を徹して行った仕事のすべてを、エステルは翌朝の報告書で自分の手柄にした。
そしてルミナが抗議すれば、エステルは涙を流すのだ。
「ルミナ様がまた私の成果を奪おうとします」
その声は震え、頬を伝う涙は本物としか思えないほど美しかった。泣き崩れるエステルを見た廷臣たちの目が、一斉にルミナへ向けられる。その視線の冷たさを、ルミナは今も体が覚えている。
国王はエステルの涙を信じた。宮廷もそれに倣った。最弱と鑑定された聖女の言葉より、Aランク鑑定の第二聖女の涙のほうが、よほど説得力があったのだろう。
——鑑定結果、Eランク。浄化適性、最低値。
それがルミナに下された王国の評価だった。実際に結界を直し、疫病を浄いても、鑑定の数字は覆らない。この国では、数字がすべてだ。
「最後に何か言い残すことは」
処刑執行人が形式的に問う。覆面の奥の目は、もうルミナを見ていなかった。早く終わらせたい——その気配だけが伝わってくる。ルミナは群衆を見渡した。
恨み言を吐くこともできた。真実を叫ぶこともできた。だが、そのどちらにも意味がないことを、三年間で嫌というほど学んでいる。
声を張り上げて潔白を訴えたところで、この群衆の耳には届かない。彼らはすでに物語を完成させている。偽聖女が裁かれ、本物の聖女が国を守る——美しく、わかりやすい結末。ルミナの真実は、その物語を壊す不都合でしかない。
「——ひとつだけ」
ルミナは空を見上げた。青く、高く、どこまでも澄んだ空だった。
「結界の北東区画に微細な亀裂があります。次の満月までに補修しないと、瘴気が漏出します。……それだけです」
広場が一瞬、静まり返った。処刑台の上で、死にゆく聖女が最後に口にしたのが、国の安全への忠告。群衆の何人かが目を逸らした。最前列にいた老婆が、口元を手で覆って俯いた。あの老婆は覚えている——去年の疫病で孫を抱えて駆け込んできた女性だ。ルミナが一晩かけて孫の瘴気を浄化した。あのとき、老婆は泣きながらルミナの手を握って離さなかった。
その老婆が、今は目を逸らしている。
だが、それも一瞬のことだった。
「黙れ、偽聖女! 最後まで聖女のふりか!」
誰かが石を投げた。ルミナの頬をかすめ、血が一筋流れる。それを合図にしたように、罵声が広場を満たした。
ルミナは目を閉じた。
痛みはない。もう、ずっと前から痛みには慣れている。三年間、毎晩のように浄化術を行使し、体を酷使し、それでも報われなかった日々のほうが、石のひとつよりずっと痛かった。
頬を伝う血の温かさだけが、自分がまだ生きていることを教えてくれた。
エステルが立ち上がるのが気配でわかった。聖衣の絹が擦れる音。花の香を模した高価な香油の匂い。その一挙一動が計算されている。
「可哀想なルミナ。あなたが本物の聖女であったなら、こんなことにはならなかったのに」
慈悲深い声。群衆がエステルを讃える歓声を上げる。完璧な演出だった。偽聖女の処刑と、本物の聖女の慈愛。エステルにとって、この処刑式は自分の権威を盤石にする舞台に過ぎない。
「執行」
国王の短い命令。処刑執行人が大剣を振りかぶる。
ルミナは目を閉じたまま、最後にひとつだけ考えた。
——私がいなくなったら、この国の結界は誰が直すのだろう。
恨みでも、悲しみでもなかった。ただ純粋な、問いだった。この国を守りたかったのだ。最初から、最後まで。それだけが本当だった。
刃が振り下ろされる。風を切る音が、鼓膜を打った。
首筋に冷たい金属が触れた——その瞬間。
ルミナの体が、光った。
白ではない。金でもない。見たことのない色の光が、処刑台を中心に広場全体を呑み込んだ。群衆が悲鳴を上げる。処刑執行人が弾き飛ばされ、大剣が石畳に突き刺さる。
光の柱が天を衝いた。
ルミナ自身にも、何が起きているのかわからなかった。体の奥底から、押さえつけられていた何かが噴き出すような感覚。三年間、Eランクの枠に閉じ込められていた力が、枠そのものを砕いて溢れ出していく。
熱い。体の内側が灼けるように熱い。けれどそれは苦痛ではなく、凍えていた手を火にかざしたときのような——本来あるべき温度に戻っていく感覚だった。
手枷が砕けた。足枷が弾けた。処刑台の木材が軋み、亀裂が走る。
「な——何が起きている!」
国王が玉座から腰を浮かせた。近衛騎士が剣を抜くが、光に近づくことすらできない。
「エステル! あれを止めろ!」
「で、ですが——この魔力、桁が……っ」
エステルの顔から血の気が引いていた。聖女として最低限の魔力感知は持っている。だからこそわかる。あの光の中にある魔力は、自分の百倍、いや千倍——いや、比較すること自体が無意味なほどの規模だった。
——嘘。こんなの、ありえない。あの女は最弱のはずでしょう。
エステルの思考が凍りつく。三年間、周到に積み上げてきた偽りの実績。盗んだ功績。捏造した報告書。それらすべてが、あの光ひとつで無意味になろうとしている。
光の中心で、ルミナの体が浮き上がっていた。意識は薄れかけている。ただ、体の奥で何かが共鳴しているのがわかった。この世界ではない、どこか遠い場所からの呼び声のような。低く、深く、けれど不思議と懐かしい振動が、骨の髄まで響いている。
ルミナの体が透け始めた。足先から、光の粒子に変わっていく。
「消え——消えていくぞ!」
「聖女が消える!」
広場が恐慌に陥った。だがもう誰にも止められない。
ルミナは薄れゆく意識の中で、最後にエステルの顔を見た。
恐怖に引きつった、あの完璧な微笑みの下の、本当の顔。
——ああ、そんな顔もできるのね。
それが、この世界で見た最後の景色だった。
光が収束し、消えた。
処刑台の上には、誰もいなかった。
手枷の残骸と、砕けた大剣の破片。そして——石畳に焼きついた、見たことのない紋様だけが残されていた。
広場を沈黙が支配した。
群衆が息を呑み、国王が言葉を失い、近衛騎士が呆然と立ち尽くす中で、エステルだけが動いた。
紋様に近づき、しゃがみ込む。指先で触れた瞬間、微かな魔力の残滓が指を刺した。
——この魔力の性質。浄化属性。間違いなくルミナのもの。
だが、その濃度は処刑前の比ではなかった。Eランクどころか、鑑定で測れる範囲を遥かに逸脱している。
エステルの喉が、小さく鳴った。
「……死んで、ないわ」
誰にも聞こえない声で、エステルは呟いた。その顔は、処刑を宣告されたルミナよりもなお、蒼白だった。