第2話
第2話
街の門は開いていた。
門と呼ぶには簡素すぎる。石を積んだ柱が二本、街道の両脇に立っているだけだ。王都の三重城門とは比べものにならない。だが柱の表面には淡い紋様が刻まれており、リーネが近づくと微かに光を発した。光は青白く、冷たい水を思わせる色だった。肌に触れる空気が一瞬だけ湿り気を帯び、草原にはなかった潮のような匂いがかすめた。
魔力感知の術式だ。王国のものとは体系が違う。紋様の構成が根本から異なっている。王国の術式が直線と鋭角で組まれるのに対し、ここの紋様は曲線と渦で構成されていた。水の流れのような、自然な形だった。
——これが、この世界の魔術。
「おい、嬢ちゃん。こんな時間にどこから来た」
門番らしい男が松明を手に近づいてきた。革鎧に短槍。四十がらみの、日に焼けた顔。松明の炎が男の頬の深い皺を照らし、長年ここに立ち続けてきた者の貫禄がにじんでいた。表情には警戒があったが、敵意はない。
「南の……いえ、北の草原から」
言いかけて、自分がこの世界の地理を何も知らないことに気づいた。銀狼は「南に街がある」と言った。ということは自分が来たのは北からだ。
「草原から歩いて? 荷物もなしに?」
男の目がリーネの服装を上から下まで確認した。王国の神殿服。白地に金の刺繍。ただし処刑台に立たされたときのまま、裾は汚れ、刺繍は半分ほつれている。見知らぬ様式の服だと思われたのだろう。男の眉が上がった。
「魔獣にやられたか。それとも——」
「道に迷いました」
嘘ではなかった。あらゆる意味で、迷っている。
男はしばらくリーネの顔を見つめていた。額の傷跡。石で割られた古い傷は、転移しても消えなかったらしい。首筋の赤い線にも目をやったが、問い詰めはしなかった。
「冒険者ギルドが通りの突き当たりにある。宿も斡旋してくれる。行き場がないなら、そこを頼れ」
それだけ言って、男は松明で道を示した。問い詰めない。詮索しない。見知らぬ身なりの人間が夜に門を叩いても、追い返さない。
リーネは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
声が掠れていた。最後にまともに誰かと言葉を交わしたのがいつだったか、思い出せなかった。
通りに入ると、街の息遣いが聞こえてきた。夜だが完全には眠っていない。酒場の窓から暖色の灯りが漏れ、笑い声が聞こえる。鍛冶屋の裏手で、誰かが遅くまで槌を振っている。金属を打つ音が一定のリズムで響いていた。焼けた鉄の匂いが夜風に混じり、どこかの家の煙突からは煮込み料理の湯気が細く立ち昇っている。生活の匂いだった。王都にもあったはずなのに、長い幽閉のあいだに忘れていた匂いだった。
王都とは規模が違う。王都の十分の一もないだろう。だが不思議と窮屈さがなかった。建物と建物の間に余白がある。路地の奥まで風が通っている。
通りを歩きながら、リーネは自分の手を見下ろした。鎖の痕は消えている。皮膚は滑らかで、手首を縛られていた赤黒い変色もない。まるで最初からなかったかのように。
消えたのだ。あの世界の痕跡が、ひとつずつ。
首筋の赤い線だけを残して。
酒場の前を通りかかったとき、扉が開いて酔った男が二人出てきた。リーネを見て足を止める。
「見ねえ顔だな。旅の冒険者か?」
「……ええ」
咄嗟にそう答えた。冒険者かどうかも定かではないが、否定する理由もなかった。
「ギルドなら突き当たりだ。もう受付は閉まってるが、宿直のやつが仮登録くらいはしてくれるだろ」
酔っ払いは手を振って去っていった。門番に続いて二度目だ。行き場のない人間を冒険者ギルドに送る。この街では、それが当たり前の流れらしい。
王国では、身元のない人間は衛兵に拘束された。出身、所属、渡航許可証。すべてを証明できなければ門をくぐることすら許されない。聖女候補であっても例外ではなかった。リーネ自身、七歳で神殿に入る前に三日間の身元審査を受けた。親のない孤児だったから、余計に。
ここは違う。
リーネは通りの突き当たりに辿り着いた。二階建ての石造りの建物。入り口の上に木製の看板がぶら下がっている。剣と杖を交差させた意匠。文字は読めなかったが、門番と酔っ払いが教えてくれた場所に間違いない。冒険者ギルドだ。
扉に手をかけて、止まった。
手が震えている。寒さではない。恐怖だ。
この扉を開けた先で、自分は何者だと名乗ればいい。聖女候補? 処刑された罪人? 異世界からの流れ者? 銀狼は言った。おまえの魂はこの世界に属すると。だがそれは魂の話だ。この体で、この記憶で、この傷で——何者として生きればいい。
王国で与えられた肩書きはすべて剥奪された。聖女候補の資格。王太子の婚約者。神殿所属の術師。ひとつずつ奪われ、最後に命まで取られかけた。今のリーネには何もない。名前と、首筋の赤い傷跡だけだ。
——いや。
リーネは震える手を握り締めた。
力がある。銀狼が言った。こちらの世界では規格外だと。それが何を意味するかは、まだわからない。だが少なくとも、自分の足でここまで歩いてきた。門番は道を教えてくれた。酔っ払いはギルドを案内してくれた。誰も石を投げなかった。
たったそれだけのことが、今は途方もなく重い。
扉を押した。
中は意外に明るかった。受付のカウンターに魔石の灯りが点いている。壁一面に依頼書が貼られ、奥には鑑定用と思しき水晶柱が据えられていた。柱は人の背丈ほどの高さがあり、内部に微かな光の粒が漂っている。まるで水中の気泡のように、ゆっくりと上下に揺れていた。カウンターの向こうに、眼鏡をかけた若い女性が書類を整理している。宿直の受付だろう。
リーネが入ってきたことに気づき、女性が顔を上げた。
「いらっしゃい。登録希望?」
「はい」
「名前は?」
一瞬、迷った。偽名を使うべきかもしれない。だが首筋の赤い線が熱を持った。処刑台で最後まで目を閉じなかった自分が、ここで名前を捨てるのか。
「リーネ。姓はありません」
受付が羽根ペンを走らせる。紙の上をペン先が滑る乾いた音が、静かなギルドの広間に小さく響いた。
「明朝、正式な登録鑑定があるわ。ランクはそこで決まる。今夜は仮登録で宿を手配するけど、それでいい?」
「お願いします」
受付は慣れた手つきで仮登録証を書き上げ、宿の場所を教えてくれた。事務的だが、冷たくはない。リーネの服装や傷跡について何も聞かなかった。ここでは、過去を問わないのが礼儀なのかもしれない。
宿は小さかった。簡素な寝台と洗面台だけの部屋。だが清潔で、窓から夜風が入る。風は草と土の匂いを運んできた。王都の石と灰の風とは違う、柔らかな風だった。
寝台に腰を下ろして、初めて息を吐いた。長い、長い息だった。
壁に背を預ける。体は無傷だった。銀狼の言う通り、この世界に来てからどこにも痛みがない。鎖の痕も、額の古傷も消えている。ただ首筋の赤い線だけが残っている。触れると、処刑台の記憶が鮮やかに蘇る。斧の光。群衆の歓声。マーサの背けた目。エドヴァルドの空虚な瞳。
体は無傷なのに、心だけが血を流し続けている。
目を閉じた。眠れるとは思えなかった。だが体が限界だったのだろう。意識が沈む直前、窓の外で微かに光を見た。
銀色の残光。銀狼の、名残のような。
そして暗転。
目が覚めたとき、窓から朝日が差し込んでいた。この世界で最初の朝だ。空が金色に燃えている。王国の冬空では見たことのない色だった。光が寝台の白い布を暖かく染め、リーネは自分が毛布を握り締めたまま眠っていたことに気づいた。指が強張っている。夢の中でも、何かにしがみついていたのかもしれない。
階下から声が聞こえる。冒険者たちが朝の依頼を取りに来ているのだろう。活気のある声。笑い声。日常の音だ。
リーネは寝台から立ち上がり、首筋に触れた。赤い線は消えていない。熱も残っている。
——鑑定。
受付が言っていた。正式な登録鑑定。あの水晶柱で、自分のランクが決まる。王国で「穢れ」と断じられた力が、この世界でどう測られるのか。銀狼の言葉が脳裏をよぎる。
こちらの世界では規格外だ。
期待はしていない。期待して裏切られることの痛みは、もう十分に知っている。ただ、知りたかった。自分の力が本当は何なのか。十年間、命を削って振るってきたものの正体を。
リーネは部屋を出て、階段を下りた。
ギルドの広間は朝の冒険者で賑わっていた。その喧噪の中を歩きながら、リーネの視線は奥の水晶柱に向いていた。
透明な柱が、朝日を受けて静かに光っている。