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穢れの聖女は異世界で最強に還る

第1話 第1話

第1話

第1話

石が飛んできた。額を割り、血が左目に流れ込む。視界が赤く滲み、鉄の味が唇の端まで伝った。リーネは瞬きひとつせず、処刑台の上から群衆を見下ろした。

つい三日前まで、この民を守っていた。

王都を囲む聖結界。維持できるのは王国でただ一人、聖女候補リーネだけだった。七歳で神殿に入り、十二で最初の疫病を鎮め、十五で魔獣の大侵攻を結界で防いだ。その功績は王国史に記されている——はずだった。

「聖遺物盗用の罪、および国家反逆罪。被告人リーネに死刑を宣告する」

第一宰相の声が広場に響く。群衆が歓声を上げた。まるで祭りの日のような高揚だった。リーネの手首を縛る鎖が、冬の空気に冷たく軋む。鎖は分厚く、一つひとつの環が指三本分の太さがあった。聖女候補を拘束するために特別に鍛えられた対魔鎖だ。手首の肌がこすれて赤黒く変色しているのが、自分でも見えた。

半日だ。たった半日の裁判で、十年の献身が犯罪に変わった。

宮廷魔術師グレイスの鑑定書が証拠として読み上げられたとき、リーネは自分の耳を疑った。「被告の魔力紋には聖属性の痕跡なし。従来の聖術はすべて聖遺物からの不正抽出によるもの」——嘘だ。だが反論の機会は与えられなかった。弁護人はつかず、証人は一人も呼ばれなかった。法廷の書記官ですら、リーネと目を合わせようとしなかった。あの男は三年前、娘の熱病をリーネに治してもらったはずだ。

「リーネ」

処刑台の階段を上がる直前、声をかけてきたのは王太子エドヴァルドだった。銀の髪に青い瞳。かつて婚約の証として渡された指輪は、もうリーネの指にはない。昨夜、牢に届いた一通の書簡で破棄された。蝋で封じられた王家の紋章を見た瞬間、中身を読むまでもなく全て悟った。

「残念だよ。君を信じたかった」

嘘だ、とは言わなかった。言っても意味がないと知っていた。エドヴァルドの目には最初から光がなかった。政治的な判断をすでに終えた人間の目だ。リーネを切り捨てることが王家の利益になると、誰かに吹き込まれたのだろう。その「誰か」の顔は容易に想像がつく。だがもう、それを追及する立場にリーネはいなかった。

「……ご婚約の破棄、承りました」

それだけ言って、リーネは階段を上がった。鎖が石段に擦れて甲高い音を立てる。一段ごとに鎖の重さが腕から肩へ、肩から背骨へ響いた。振り返らなかった。

処刑台の上は風が強い。王都の街並みが一望できた。聖結界の淡い光が街を包んでいるのが見える。リーネが十五の冬に命を削って張り直した結界だ。あのとき三日間意識を失い、目覚めたときには髪の一房が白くなっていた。あれがなければ、この街は三年前の魔獣侵攻で滅んでいた。

群衆の中に見覚えのある顔を探した。

北区の薬師、マーサ。息子が疫病に倒れたとき、リーネが三日三晩つきっきりで聖術をかけた。マーサはリーネの手を握って泣いた。「あなたは神様だ」と言った。

そのマーサが、今は目を背けている。

東区のパン屋の老夫婦。孫娘の足が動かなくなったとき、リーネが治した。「一生忘れません」と言った。

老夫婦は群衆の後ろに隠れるように立っていた。こちらを見ていない。

リーネは広場の隅々まで視線を巡らせた。何百という顔。何千という目。石を手に持ったまま次を投げる隙を窺う者。子どもを肩車して見物させる親。その中に「待って」と叫ぶ者を探した。

一人もいなかった。

処刑執行人が斧を構える。刃が冬の陽光を反射して白く光った。群衆のざわめきが遠のく。リーネの鼓動だけが、やけにはっきりと聞こえた。こめかみの血管が脈打つのがわかる。額の傷口から流れた血が、顎の先で一滴、足元の木板に落ちた。

——結界のことが頭をよぎった。

私が死ねば、あの結界は維持者を失う。数ヶ月、早ければ数週間で減衰が始まるだろう。魔獣が押し寄せる。グレイスの術では代替できない。リーネの聖術とは根本的に質が違うからだ。

この街は滅ぶかもしれない。

でも、それを今ここで叫んだところで何になる。「穢れの器」の言葉を誰が信じるというのか。

「罪人リーネ。最後に言い残すことは」

執行人の形式的な問いかけ。広場が静まる。

リーネは口を開きかけて、やめた。言い残すこと。あるとすれば——この国に尽くした十年を返してほしい。眠れない夜も、魔力の枯渇で血を吐いた朝も、すべてこの民のためだと信じていた。けれどそんな言葉は、石を投げた群衆には届かない。

「……ありません」

短く答えた。目を閉じなかった。最後まで前を見ていようと決めていた。空が青かった。冬の空は高く、残酷なほど澄んでいる。

斧が振り下ろされる。

首筋に灼熱の一線が走った——はずだった。

痛みは一瞬だった。だが途切れるはずの意識が、途切れない。闇が来ない代わりに、視界が白く染まった。

白。

白い光が全身を包んでいる。鎖の重さが消えた。処刑台の冷たい木の感触が消えた。群衆の声が消えた。すべてが遠ざかり、代わりに温かい風の匂いがした。

草の匂いだ。

リーネは目を開けた。

空が、青かった。さっきまでの冬空とは違う。深く、柔らかく、見たことのない色の青。視界の端に白い雲が流れている。体の下には草の感触がある。一本一本が細く柔らかく、王国のどの草原とも違う手触りだった。背中に大地の温もりがある。

ここはどこだ。

上体を起こそうとして、首筋に手をやった。あの灼熱の一線。だが触れた指先に血はない。代わりに、細い線状の傷跡が残っている。熱を持った赤い線。処刑の刃が確かにそこを通った証拠。

夢ではない。死んでもいない。

リーネは草原の真ん中にいた。どこまでも続く緑の丘陵。遠くに山脈の輪郭。空気が澄みすぎていて、肺が痛いほどだった。風が頬を撫でるたびに、処刑台の記憶が嘘のように薄れていく。だが首筋の熱だけが、あの瞬間を手放させなかった。見覚えのある景色はひとつもない。王国の地理にはない地形だ。

足元で何かが光った。

銀色の毛並みを持つ狼が、三歩先に座っていた。普通の狼ではない。体の輪郭が淡く発光し、瞳は金色に燃えている。精霊だ。リーネは神殿の古文書で読んだことがある。上位精霊は獣の姿をとる。だが王国には精霊はもういなかった。数百年前に消えたと記録されている。

銀狼がゆっくりと口を開いた。

「——長かったな。ようやく還ってきた」

声は直接、頭の中に響いた。低く、深く、古い森の底を流れる水のような声だった。リーネは身構える。だが銀狼からは敵意を感じない。むしろ、長い間待ち続けた者特有の、静かな安堵があった。

「還ってきた、とは」

「おまえの魂は本来この世界に属する。あちらに生まれたこと自体が、十六年前の召喚事故だった」

リーネの思考が止まった。

召喚事故。つまり自分は最初から、あの王国の人間ではなかった。異物だった。聖属性の魔力が王国の体系と噛み合わなかったのも、グレイスの鑑定で「聖属性の痕跡なし」と出たのも——そもそも規格が違ったからだ。

十年間の違和感が、一つの線でつながった。神殿の術式を使うたびに感じた微かなずれ。魔力炉に接続するときの、歯車が半回転だけ噛み合わないような感覚。あれは技量の問題ではなく、世界そのものとの不適合だったのだ。

「じゃあ私の力は——」

「偽物ではない。むしろ、こちらの世界では規格外だ」

銀狼が立ち上がる。銀の尾が風に揺れた。

「南に街がある。まずはそこへ行け。おまえが何者であるかは、この世界が証明する」

光が収束するように、銀狼の姿が薄れていく。最後に金色の瞳だけが残り、それも消えた。

リーネは一人、草原に立ち尽くした。

風が吹いている。温かく、優しい風だった。王国の冬とは違う。頬に触れる空気が柔らかい。

首筋の赤い線に触れた。処刑の記憶が鮮明に蘇る。群衆の歓声。石の痛み。誰も言わなかった「待って」の一言。

涙は出なかった。泣けるほど、まだ安全な場所にいるとは思えなかった。

南を見た。丘の向こうに、小さな灯りが見える。街だ。銀狼が言った街だろう。

リーネは歩き出した。一歩、また一歩。草を踏む音だけが、異世界の静けさに響く。体は無傷だった。鎖の痕も消えている。首筋の赤い線だけが、唯一あの世界と自分をつなぐ証。

背後は振り返らなかった。処刑台でもそうしたように。

街の灯りが少しずつ近づく。何が待っているかはわからない。ただ一つ確かなのは、この足で歩いている限り、自分はまだ生きているということだけだった。

丘を越えたとき、風が変わった。街の匂いがした。煙と、食べ物と、人の気配。

リーネは足を止めなかった。

首筋の赤い線が、かすかに熱を帯びた。

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