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銀狼の軍師令嬢

第2話 第2話

第2話

第2話

雪を蹴る音が、自分の足音とは思えなかった。エルナ・ヴァイセンベルクは輜重隊の最後尾から、隊列を縫うように前へ駆け出した。革帯の下で兵書の角が肋に食い込み、息を吸うたびに鋭い痛みが胸を刺す。それでも足は止められなかった。父の朱書きが、頁の向こうから背を押しているような気がした。

「乱れるな! 隊伍を組み直——」

騎士見習いフェリクスの声は、既に裏返っていた。雪の重みで沈む隊列の中央で、若い指揮官は剣を抜き放ち、霧の壁に向かって虚しく振りかざしていた。彼の馬の鼻面から噴き上がる白い蒸気が、彼自身の判断を覆い隠す煙幕のように立ちのぼる。

「散開せよ! 輜重車を盾に、全員——」

「いけませぬ!」

エルナの声は、自分でも驚くほど遠くまで通った。霧の中を走る蹄の地鳴りを切り裂くように、痩せた娘の叫びが一筋、隊列の上を渡る。フェリクスが鞍上で振り返った。鈍色の瞳に、混乱と苛立ちと、それから僅かに縋るような色が浮かんでいた。

「——なんだ、貴様は」

「徴発兵、エルナ・ヴァイセンベルクにございまする」

雪と泥に汚れた軍装の裾を踏みつけ、エルナは指揮官の馬の轡(くつわ)に手を掛けた。馬は不審がって首を振ったが、彼女の指は離れなかった。掌の皮膚が革と霜に擦れて熱を持つ。その痛みが、かえって声を低く整える助けになった。

「フェリクス殿、左翼を——左翼を、河岸へ。グレーフ支流の凍結面へ誘い込んでくださいませ」

「気は、確かか」

フェリクスの口の端が、痙攣のように引き攣った。彼の周囲を固める古参兵——鬚に霜を載せた百人長ヴァルター、左頬に古い刀傷を負う伍長ルーカス——が、いずれも侮蔑と怒りを綯い交ぜた目でエルナを睨みつけた。輜重の娘が、何の権限で軍配を口にする。雪の上に唾を吐いたのは伍長ルーカスだった。

「下がれ。隊列の妨げだ、痴れ者が」

「下がりませぬ」

エルナは轡から手を離さなかった。風は北西から、谷底へ向かって流れている。頬を撫でる方向は変わらない。霧の薄れる向きが、それを裏付けている。

「敵はノルダルント七連隊。重装騎兵、一騎七十貫。馬装を含めれば八十に届きまする。グレーフ支流は冬季凍結いたしまするが、水量は深く、氷の厚みは四寸——歩兵までは支えれども、騎兵の重みには」

「黙れ!」百人長ヴァルターが吠えた。「氷など、何の関わりがある」

「関わりは、あちらの将が決めまする」

エルナは、霧の向こう、北東の地響きが集中する一点を顎で示した。指は震えていたが、声だけは震えなかった。

「ノルダルントの将ジークムント・フォン・オーデンタールは『見逃さぬ意思』の異名を持つお方。退路を断たれた我らを、必ず一兵残さず屠らんと欲するはず。左翼に隙を見せれば、最短距離で食い破りに参ります。最短距離は——河岸の凍結面」

霧の谷底から、再び角笛が響いた。今度は二度。攻撃開始の合図だった。

「布陣替えの時はございませぬ」エルナの声が早まった。「左翼の徴発兵を、崩れたるが如く河岸へ走らせて下されませ。五百歩。敵は必ず追撃を掛けます。重装騎兵が氷の上に乗った瞬間——氷は割れまする」

「五百歩、走れ、と」

フェリクスが繰り返した。声の底に、信じたい色と、信じてしまうことへの恐怖が同居していた。

「父の地誌に、支流の流幅と水深が記されてございました。冬至から二十一日、午前の四つ刻——一日のうちで最も底氷の薄い時間帯にございまする」

エルナは早口に告げた。父の書斎の暖炉の橙色が、不意に瞼の裏で揺れた。「軍を動かすのは、地と時と、人の心だ」と語った父の指の動き。あの晩、薪が爆ぜ、地誌の頁の右下に父の朱書きが浮かび上がった。「ここで馬を失えば、騎兵は歩兵に劣る」——あの一行が、いま、娘の喉から溢れ出ている。

「人の心、と申すか」

百人長ヴァルターが、初めて声の調子を落とした。彼の馬がふと前足を踏み替え、雪を蹴る。鬚の先端で霜の粒が小さく揺れ、白い息が長く尾を引いた。古兵の目が、令嬢を真正面から計った。

「七連隊は、追う時に隊伍を整えぬ。獲物を逃すなと教え込まれている。一騎が走れば、十騎が続き、十騎が走れば——」

「全軍が、河岸を踏みまする」

エルナは答えた。フェリクスは、無言で剣を鞘に戻した。鞘走りの音が、奇妙なほどはっきりと鳴った。彼は鞍上で振り向き、副官に向かって声を絞り出した。

「左翼第三・第四中隊、徴発兵を主軸とし、河岸方面へ後退の体を取れ。崩れたるが如く——ただし五百歩で踏み留まれ。中央・右翼は重装歩兵を盾に、車列を縦深に組み直せ。議論は無用!」

若い指揮官の声が、初めて、騎士らしい強さを帯びた。

霧の薄い裂け目から、敵将ジークムント・フォン・オーデンタールは前線を見下ろしていた。

雪原の彼方、帝国軍の後尾——輜重と徴発兵の混じる雑色の旗が、見るからに崩れ立った。隊伍の整わぬ、烏合の退却。河岸へと逃げ落ちる足音は、霧の底でばたばたと乱れ、経験豊富な敵将の耳には『恐慌』そのものに聞こえた。

「左翼が崩れた」

副将が短く告げた。ジークムントは黒貂(くろてん)の毛皮の襟を雪上に投げ捨て、鉄兜の縁を握り直した。

「逃すな。一兵残らず、河までに屠れ」

号令は、軍歌の唱和の上に重なった。重装騎兵一万のうち、左翼を担う四千が、一斉に槍の穂先を伏せた。雪を蹴る蹄音は、最初の十騎が走り出した瞬間に、自然と五十騎、二百騎、千騎へと拡張した。隊伍を整える時は、追撃の習慣に取って代わられた。獲物を逃すな——額に焼き付けられた『北の屠殺者』の信条が、騎兵団を一個の長大な槍へと変えた。

帝国軍の左翼——崩れたと見せかけた徴発兵らは、五百歩を全力で駆け抜け、グレーフ支流の南岸に達した。先頭を走った少女兵は息を切らし、エルナから預けられた襟巻きを口に押し当てて、転倒寸前で踏み留まった。エルナは自身も雪を蹴って走った。革靴の底が、凍った地面の上を滑る。革帯の兵書が脇腹を打ち、肋骨の痛みが息を奪った。

(——届け)

支流の凍結面が眼前に広がった。幅およそ四十間、灰白色の氷が、霧の薄まった朝光を鈍く照り返している。父が地誌に記した「冬季凍結、水量深し」の一行が、いま、雪原の上に実体として横たわっていた。帝国軍兵らは、合図に従って氷上を駆け抜けた。歩兵の靴底は、氷面に擦過音を残しただけだった。

蹄音の地鳴りは、もう背後に迫っていた。

最初の騎影が、霧の中から飛び出した。ノルダルント七連隊の先鋒は、河岸の縁で躊躇わなかった。獲物が氷の上を渡っていったのを、自らの目で見ていたからだ。一騎、二騎、十騎、百騎。蹄が氷面に乗った瞬間、その音は、雪上を走る時とは明確に違った。重く、鈍く、そして——軋んだ。

中央まで、二十歩。

氷の表面に、最初の亀裂が走った。人の声よりも低く、地鳴りよりも鋭い、ぴしり、という乾いた音だった。続いて、もうひとつ。さらに、三つ目。亀裂は、騎兵団の先頭の脚下から後方へ向かって、扇のように放射状に広がった。

最初に氷を踏み抜いたのは、先鋒中央の隊長格の馬だった。八十貫の重みが氷の薄い一点を貫いた瞬間、その馬は腹まで一気に水中に沈んだ。続く二騎、三騎が、後続の勢いに押されて同じ地点に殺到し、亀裂はさらに大きく口を開けた。氷の下から、灰色の冷水が音を立てて噴き上がる。

「止まれ! 止まれッ!」

七連隊の中で、誰かの絶叫が走った。だが、隊伍を組まずに突進していた騎兵団は、止まれなかった。後方の千騎は、前方の異変を察知する前に、既に氷上に乗り上げていた。彼らの体重がさらに氷を圧迫し、亀裂は河の対岸まで一直線に走り抜けた。

雪原の谷底で、轟音が起きた。

フェリクスは、鞍上で凍りついていた。

霧が薄れ、視界が開けた先——グレーフ支流の凍結面は、もはや氷ではなかった。砕けた氷塊と、灰色の濁流と、水中で藻掻く無数の馬の頭と、鎧の重みに引きずり込まれていく騎兵の手と、絶叫と、軍歌の途絶えた沈黙が、ひとつの巨大な渦として谷底に渦巻いていた。

フェリクスの視線は、しかし、河岸の惨状にではなく、その手前——雪と泥に塗(まみ)れた、痩せた令嬢の背に注がれていた。徴発兵の粗末な軍装。霜の付いた黒髪。革帯から覗く、古びた兵書の角。彼女は氷上の轟音に背を向け、膝を雪に突いていた。両手で胸甲の内側を押さえ、白い息を、ひとつ、またひとつ、長く吐いている。

「……令嬢、殿」

フェリクスの口から漏れた呼称は、もはや嘲弄ではなかった。百人長ヴァルターも、伍長ルーカスも、武器を構えたまま、誰一人動けずにいた。霧の彼方から、銀狼ジークハルト本陣の角笛が、戦線の異変を察して長く一度、鳴った。

エルナは、雪の上で、ゆっくりと立ち上がった。

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