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銀狼の軍師令嬢

第3話 第3話

第3話

第3話

雪を払って立ち上がったエルナ・ヴァイセンベルクの背後で、グレーフ支流の谷底は地獄に変じていた。

砕けた氷塊が水面に浮き沈みし、その合間に鎧の肩当てが、兜の鉄が、馬首の白い瞳が、次々と顔を出しては引き込まれていく。八十貫の鎧を着込んだ重装騎兵にとって、灰色の濁流はもはや河ではなかった。氷の下に隠されていた水深は人の背丈の二倍、底泥は脛まで沈む。一度落ちた者は、馬具の革帯と鎖帷子の重みに引かれて、息を吸う暇もなく沈んだ。谷底からは、人とも獣ともつかぬ叫喚が断続的に立ち昇り、霧の底へ吸い込まれては消えた。鎖帷子に絡まれた腕が水面を一度だけ叩き、それきり浮かび上がらぬ。馬の嘶きが、ある瞬間にぷつりと途切れ、そのあとには泡沫(ほうまつ)の弾ける細かな音だけが、谷底をしばらく満たした。氷の縁に這い上がろうとした若い騎士の指は、新しく剥がれた薄片に切り裂かれ、握り直す力もなく、灰色の濁流へ滑り落ちていった。後続の千騎は、前方の異変を察するより先に、自軍の死体の上へ蹄を踏み下ろした。

「あ……ああ……」

騎士見習いフェリクスの口から、言葉とも嗚咽ともつかぬ音が漏れた。鞍上の彼の手綱は、いつの間にか緩み、馬は主人の意志を失って雪上を二歩、三歩と泳ぐように後退していた。視界の一切が、谷底の濁流と、その上を覆う水煙と、千を超す断末魔の唱和に塗り潰されていた。軍歌は、途絶えていた。

「……届いたか」

百人長ヴァルターが、誰にともなく呟いた。鬚に張りついた霜が、霧の中で銀色に光った。古兵の双眸は、河岸の惨状を映してなお、瞬きをしなかった。三十年の戦場で見てきたあらゆる勝敗の中に、この一筋の氷の罅は、含まれていなかった。古兵の鼻孔がわずかに膨らみ、霧の冷気を深く吸い込んだ。革手袋の指が、腰の剣の柄を一度だけ撫で、すぐに離れた。三十年の戦場で、剣を抜く間もなく趨勢の決した戦は、これが初めてであった。

「届いた、と申すのか、ヴァルター殿」

伍長ルーカスが掠れた声で問うた。古兵は答えず、ただ鞍上で深く息を吐いた。白い湯気が長く尾を引き、霧に紛れて消えた。

エルナは、雪に膝を突いたまま、振り向かなかった。胸甲の内側で、革帯に縛りつけた兵書が、肋に痛むほど食い込んでいる。痛みは、思考の最後の輪郭を保つための錨であった。

(……一万、いや、半数は呑まれよう)

数を量(はか)った瞬間、頬を伝うものがあった。涙ではなかった。鼻血だった。極度の緊張に、毛細の血管が裂けたらしい。エルナは指先でそれを拭い、雪に擦りつけた。指先には、まだ感覚が戻らない。

革帯の下の兵書は、亡き父が朱で書き入れた幾つもの注釈を、いまもなお肋に押しつけている。父の声は記憶の底に沈んだまま帰らないのに、その朱の一画一画だけが、不思議と冷えた指先より鮮明であった。雪の上に落ちた一滴の血は、薄紅に滲んで凍りつき、まるで父の朱がそこにまで届いたかのように、ぽつりと残った。

霧の彼方、敵本陣の小高い丘の上で、ジークムント・フォン・オーデンタールは鉄兜を握りしめていた。

「……何が、起きた」

副将は答えられなかった。河岸へ走らせた左翼四千のうち、霧の中から戻ってくる蹄音は、僅かに数十騎に過ぎなかった。残りの蹄音は、すべて、灰色の濁流の唸りに置き換わっていた。「北の屠殺者」の異名を持つ将は、生まれて初めて、自軍の軍歌が途絶える音を聞いた。

「……仕掛けられたか、儂が」

ジークムントの口の端が、薄く歪んだ。怒りでも、絶望でもなかった。それに最も近い感情は、屈辱の極にあって尚抑え込まれた、戦人の畏(おそ)れであった。

副将の喉仏が、唾を飲み下す音を立てた。ジークムントの兜を握る指の骨が、軋むほど白く浮かんでいた。霧の彼方、河岸から立ち昇る湯気は、自軍の死体が冷えてゆく証のように、低く長く尾を引いていた。彼は一度、目を閉じた。瞼の裏に、出陣の朝に己の手で軍旗の房を結び直した妻女の指先が、ふと甦り、すぐに霧へ溶けて消えた。

「副将。退き太鼓を打て。残存をまとめ、北東の高地へ後退する。——氷を割った将を、調べよ」

「氷を、割った将、と」

「あの河岸を読んだ者がいる。風向きと、我が連隊の追撃癖と、冬至からの日数までを読んだ者だ。並みの将にできる仕業ではない」

副将は咽喉を鳴らして頷き、退却の合図を伝令に走らせた。重装騎兵団の本陣に、長く尾を引く太鼓が二度、響いた。続いて三度目が、霧を貫いた。雪原の彼方、帝国軍の側からも、応えるように角笛が三度、長く鳴った。それは、銀狼ジークハルト本陣の前線異変察知の合図であった。

戦線は、ほんの半刻のうちに、完全に逆転していた。

退却を始めた敵主力の背後を、銀狼直率の軽騎兵が霧の左翼から襲いかかった。氷上で一万の半数を失い、隊伍を整える間もなく後退する七連隊にとって、それは追撃ではなく、屠りに近かった。だが屠りの号令を発したジークハルト・フォン・ヴァルトハイム——銀狼の異名を持つ若き元帥——は、一兵の追い撃ちも許さなかった。

「逃げる者は、追うな。退路を残せ。降る者は、捕らえよ」

雪原を駆ける副官が、馬上で耳を疑った。常の銀狼であれば、敵将の首級を獲るまで馬を止めぬ男である。だが今朝に限って、彼の鈍色の双眸は、河岸の方角——崩れた徴発兵らが膝を突いている小さな雪の塊——にのみ、注がれていた。

「あの河岸の者を呼べ」

「は」

「氷を割った者だ。徴発兵の中に、名を持たぬ者がいるはずだ。連れて参れ。——丁重に、な」

最後の一語は、銀の毛皮の襟の内側で、ほとんど吐息となって消えた。

エルナの座り込んだ周囲には、いつの間にか、人垣ができていた。

最初に近づいたのは、襟巻きを返しに来た少女兵だった。痩せた指は震え、口を開いては閉じ、結局、何も言葉にできなかった。代わりに、彼女は襟巻きをエルナの肩にそっと掛け直した。布の端に、雪と泥と、薄く滲んだ薔薇水の匂いが残っていた。

次に膝を屈したのは、伍長ルーカスだった。左頬の古い刀傷が、霧の中で白く浮かび上がっている。

「令嬢殿。先程の暴言、平に……」

「お止めくだされ、伍長殿」

エルナの声は、自分でも驚くほど平たかった。「策を献じた者が罵られるは、戦場の常にございます。罵られなんだら、策を疑うべきにございました」

伍長は深く頭を垂れ、雪に額をつけた。百人長ヴァルターは、その背を見下ろし、顎の鬚をひと撫でしてから、自身も鞍を降りた。古兵は片膝を雪に突き、鎧の音を低く鳴らした。

「ヴァルター、三十年戦場を歩み、今朝のような策は初めて見た。氷の薄さと、敵の追撃癖と、風向きとを、ひとつに織り上げた策。……何処で、お学びになられた」

「父の書斎で」

エルナは、革帯の上から兵書の硬い角を、そっと撫でた。

「父は、軍を動かすのは剣でも矢でもなく、地と時と、人の心と申しておりました。私は、ただ、父の朱書きを読み返したに過ぎませぬ」

百人長は二度、深く頷き、それきり言葉を継がなかった。古兵の双眸の奥には、エルナがまだ知らぬ感情の光が宿りつつあった。畏敬とも、追慕とも、あるいは数十年を経て初めて出会う後継者への、静かな譲渡ともつかぬ光であった。雪原のどこかで、馬の鼻息が一度、長く響き、霧をひと刷毛、薄く払った。エルナの肩にかけ直された襟巻きの薔薇水の匂いが、雪解けの土の冷たさと混ざり合い、指先のしびれをわずかに溶かし始めていた。

霧の中を、雪を踏みしめる音が近づいてきた。鎧の擦れる音、馬具の革の軋み、銀の毛皮の襟が雪を払う、低い音。

帝国軍の最前列が、左右に静かに割れた。

割れた人垣の中央を、灰色の馬上から、一人の伝令が進み出た。鞍前に銀狼の紋章を刻んだ革袋を提げている。銀糸で縫い取られた狼の双眸は、霧を浴びてもなお冴えた光を放ち、見る者の背筋に細く冷たいものを通わせた。伝令は馬を降り、雪の上に片膝を突き、エルナの前で兜の庇(ひさし)を上げた。

「徴発兵エルナ・ヴァイセンベルク殿。元帥ジークハルト・フォン・ヴァルトハイム閣下より、口頭にて伝令を承りまする」

ざわめきが、広がった。フェリクスが鞍上で口を開けたまま固まり、ヴァルターが鬚を握りしめ、少女兵が襟巻きの端を強く掴んだ。エルナは膝を雪に突いたまま、ゆっくりと顔を上げた。

「——本日寅の四つ刻、グレーフ支流にて敵主力一万を河中に沈めし策、銀狼の本陣まで届きおる。閣下は、その策を献じし者の貌(かんばせ)を、自らの目にて確かめたき由。本陣まで、ご足労を願いたい」

伝令の声は、低く、しかし谷底まで届くほど明瞭であった。革帯の中で、兵書の角が再び肋に食い込んだ。エルナは、痛みを噛みしめながら、ひと息、長く白い息を吐いた。

雪は、いつの間にか止んでいた。

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