第1話
第1話
縄が首筋に食い込む。粗い麻でできた軍装の襟が、霜を吸って凍りつき、肌を擦るたびに細い赤い筋を残していく。エルナ・ヴァイセンベルクは輜重隊の最後尾で、唇を引き結んでひたすら足を動かしていた。
帝国暦四百二十一年、神無の月。北辺ヴァイセンベルク領は、ひと月前に焼け落ちた。父を看取ったのは三日前、家屋敷の裏手の納屋でのことだった。煤の匂いがまだ髪に残っている。形見になったのは、父が書斎の鍵付きの抽斗に仕舞っていた一冊だけ——『ローテンツ将軍兵書』。羊皮紙の角は擦り切れ、金箔の押された表題は半ば剥げ落ち、頁の隅々まで父の細かな朱書きが施された、十八年の人生で唯一手放さなかった書物である。それを今、革帯に紐で縛りつけ、胸甲の内側へ押し込んでいる。
「歩け、令嬢殿。隊列が乱れる」
前を行く徴発兵の男が、振り向きもせずに吐き捨てた。見下した『令嬢殿』の三文字が霧に溶ける。エルナは答えなかった。答える資格があるとも思えなかった。
雪混じりの霧は夜明け前から立ちこめ、行軍の足元から腰までを白く覆っていた。視界は十歩先の馬の尾でようやく途切れる。輜重隊五百を含む帝国軍五千は、北方戦線の補給拠点ヴェンドリッヒへの退路を確保するため、グレーフ川下流の隘路を東へ抜けようとしていた。先頭は重装歩兵、中央に補給車列、後尾にエルナら徴発兵——剣を握ったこともない雑兵が押し込められた、文字通り捨て駒の集団である。
唇の端から白い息が絶え間なく漏れる。指先の感覚はとうに失せていた。エルナは何度も革帯の上から兵書の存在を確かめた。父は生前、この書を膝の上に開きながら、幼い娘によく語ったものだった。「軍を動かすのはな、エルナ。剣でも矢でもない。地と時と、人の心だ」と。父の指は頁を撫でるたびに、紙の繊維を読むように丁寧で、暖炉の橙色の火が朱書きの行間を浮かび上がらせていた。あの晩の薪の爆ぜる音、毛皮の膝掛けの重みまで、いまも掌の記憶に貼りついている。
(……父上。私はいま、地も時も、自分の心さえ見失っております)
噛みしめた歯の奥に、鉄の味が滲んだ。前夜配給された堅パンを、無理に押し込んだ際に切ったらしい。隣を行く少女兵——まだ十四にも満たぬ徴発の娘——が、しきりに咳き込んでいた。咳のたびに痩せた背が大きく上下し、薄い肩甲骨が軍装の下で鳥の翼のように突き出る。ひとつ咳き込むごとに、彼女の口元から白い湯気が短く噴き、すぐ霧に呑まれて消えた。エルナはとっさに自分の外套の襟巻きを外し、少女の口元に巻きつけてやった。布の端には、まだ屋敷の薔薇水の匂いがかすかに残っていた——焼け落ちる前、最後に侍女が振りかけてくれた、あの香り。
「……いいの、令嬢様」 「いい。私の方が、まだ少しは肉が残っている」
それは虚勢だった。父の領地が焼かれてからの二年で、エルナは骨と皮ばかりの娘になっていた。肋の浮いた胸、こけた頬、青白い手の甲。徴発兵に編入された朝、領主代官の使いに「これでは慰みものにもならぬな」と笑われた屈辱の声が、まだ耳の奥で渦巻いている。少女の名すらまだ知らない。聞けば、互いに失うものが増える気がして、唇が動かなかった。代わりにエルナは、襟巻きの結び目をきつく締め直してやった。指先が触れた少女の頬は、紙のように冷たかった。
行軍は遅々として進まなかった。先導の斥候は地形に阻まれて何度も迂回を強いられ、重装歩兵は鎧の足を取られて雪道に膝をついた。指揮官——若い騎士見習いフェリクスと名乗っていた——は神経質に隊列を行き来し、同じ命令を繰り返していた。
「乱れるな。乱れるな。北方街道に出れば、ライエン伯爵の援軍と合流できる」
(……合流など、できぬ)
エルナは胸の内で呟いた。ライエン伯爵領は半月前に敵別働隊によって陥落している。父の蔵書で大陸地図を諳んじていた彼女には、子供にも分かる虚言だった。指揮官自身、おそらく承知のうえで言い聞かせている。希望は、霜に覆われたこの行軍において、唯一の燃料だった。それが嘘の薪であることを誰もが薄々知りながら、それでも誰もくべる手を止めない。止めれば、足が止まるからだ。
最初に異変を捉えたのは、耳ではなく、足の裏だった。
地面が、震えている。
雪を踏みしめる行軍の足音とは別の、低く重い、地の底から這い上がってくるような振動。エルナは思わず立ち止まった。隣の少女の咳が止まる。革靴の薄い底を通して、振動はまず踵に届き、次いで脛、膝、腰へと這い上がってきた。それは父の書斎で、遠雷を予感したときの感覚に似ていた——音より先に、骨が鳴る。ほどなくして輜重隊の先頭の馬が嘶きを上げ、続いて二頭、三頭と、車列の駄馬たちが前足を浮かせて狼狽え始めた。
「敵襲——ッ!」
霧の彼方から、斥候の掠れた絶叫が走る。一拍遅れて、地鳴りはついに耳に届いた。蹄の音だった。一騎や二騎ではない。何百、何千。重装騎兵が雪原を駆ける、底冷えのする叩き音。フェリクスが顔色を失って馬上で振り返る。馬具の革が、軋む音を立てた。
「うろたえるな! 隊伍を組み直——」
その声に被さって、霧の壁の北東から低い角笛が三度、続いて聞き慣れぬ言葉の軍歌の唱和が響き渡った。だが旋律は知っている。エルナの背筋が凍りついた。
「……ノルダルント七連隊」
誰にともなく口を突いた。父の書斎の壁に貼られた敵軍編成図を、彼女は今でも脳裏に展開できる。ノルダルント七連隊——敵将ジークムント・フォン・オーデンタール直轄、精鋭重装騎兵一万。額に鉄兜を被り、戦場では獲物を一兵も逃さぬと謳われる、あの『北の屠殺者』の旗下である。父はかつて、その編成図の隅に細い字で「最も恐るべきは、勝ち方ではなく、見逃さぬ意思」と書き添えていた。
霧が、わずかに薄れた。視界が開けた瞬間、エルナの呼吸は胸の内で凍った。
行軍の前方——本来この時間に通過しているはずだった隘路の出口——を、黒い騎影の波が完全に塞いでいた。山肌から谷底まで、雪原を黒く塗り潰すほどの騎兵である。槍の穂先に朝の鈍い光が反射し、無数の小さな星が霧の中で揺れているように見えた。退路の西方を振り返ったフェリクスが、馬上で短く呻いた。後方の獣道にも、別働隊と思しき影が回り込みつつあった。
(……包囲)
エルナの指が、革帯の上で兵書を握りしめる。父の朱書きが、頁の向こう側で囁くようだった。「囲師は必ず闕け」——包囲する側は必ず一方を空けておけ、退路を断たれた敵は死力を尽くす、と。
裏を返せば、退路を断たれたこちらに残されたのは、ただ死力のみ、ということになる。
フェリクスが叫んだ。「散開! 輜重車を盾に——」
その声を、地響きが噛み消した。
エルナの視線は、隊列の左翼——南東方向、霧の谷底へ向かって緩やかに下る斜面の先に注がれていた。あそこに、グレーフ川の細い支流が流れている。父の古い地誌に、確かに書かれていた。冬季は表面が凍結する、しかし水量は意外に深く、川底の泥は脛まで沈む、と。地誌の頁番号まで、いま不思議なほど鮮明に思い出せた——百三十七頁、右下の欄外、父の朱書きで「ここで馬を失えば、騎兵は歩兵に劣る」。
そして、いま耳に届く重装騎兵の蹄音。一騎当たりの馬装と人装、合わせて優に七十貫を超える重量。
風は、北西から、谷底へ向かって吹いている。頬を撫でる風向は、確かだった。霧が南東へ薄く流れていく速度が、それを裏付けている。
(——薄氷)
エルナは、革帯の兵書を強く握りしめた。胸甲の内側で、紙の角が肋に食い込む。痛みが、逆に意識を冴え渡らせた。心臓の鼓動が、地鳴りと同じ拍に揃いはじめている。恐怖が、奇妙なことに、思考の輪郭をくっきりと浮き上がらせていた。
少女兵が、すがるように袖を引いた。「令嬢様、私たち、死ぬんですか」
エルナは答えなかった。代わりに、半狂乱で号令を繰り返すフェリクスの背へ、雪を蹴って一歩、踏み出した。