第2話
第2話
頬に当たる石の温度が、人体のそれより五度ほど低い気がした。
仰向けに倒れた俺の鼻先で、苔と焦げたものの臭気がゆっくりと混ざりあい、その奥で——湿った布巾を絞るような、あの音が、確かに鳴っていた。
朝、筋違橋の路地裏で聞いた、あの音だ。
身体を起こそうとして、左肩にざらりとした重みが食い込んでいることに気づいた。視線を下げると、二の腕の上に、人の頭より一回り大きい瓦礫が乗っている。落下の衝撃でずれた天井の一部らしい。指を動かすことはできるが、肘から上は石の重さに縫い止められて、自分の腕という気がしない。
鉄の味が舌の根に滲んでいる。さっき強く噛んだのか、口の中の薄い皮膚が裂けて、血が下顎の方へ垂れていくのが分かった。
頭上を見上げる。
俺を呑み込んだ穴は、もう完全に塞がっていた。代わりにそこには、剥き出しの岩盤と、燻んだ橙色の光を放つ松明らしきものが、規則的な間隔で天井に埋め込まれている。電気でも蝋でもない。火は揺れているのに、煙が一筋も立たない。
人が作ったものではない、と本能が告げてきた。
——歩いてくる。
二本足の音ではなかった。三本か、四本か。爪のようなものが石を擦る、乾いた、しかしどこかが粘ついている音。足首を縛るような恐怖が、太腿のあたりまで這い上がってきた。
そいつが、松明の光の輪の中に、姿を現した。
朝、路地裏で見た輪郭の倍はあった。骨格と呼べる構造はある。だが、関節がすべて反対側に折れている。首にあたる位置に頭はなく、胸郭の真ん中に、人間の眼球を三つ縦に並べたような穴が穿たれている。穴の奥で、湿ったものがちろちろと動いた。舌のようでもあり、内臓のようでもあった。穴の縁には、人間の睫毛のような細い毛が密生していて、それが内側からの呼気でわずかに震えるたび、湿った薄膜の張り直す音が、ぴちゃ、ぴちゃ、と鼓膜の奥に直接届いた。
俺は息を止めた。止めなければ、こちらの位置を音で悟られる気がした。
そいつの腰のあたりが、こちらへ向き直る。
知られた。
呼吸を再開した瞬間に、心臓が胸郭を内側から殴った。汗がこめかみから耳の後ろへ流れる軌道を、皮膚がいちいち感じ取っている。瓦礫の下の左腕は、もう感覚が遠い。右手で必死に床を擦るが、爪の先が剥がれるだけで、体は半センチも動かない。指先の皮の裂ける音が、自分の頭蓋の中で、やけに大きく反響した。逃げたい、と思った瞬間に、逃げ場がどこにもないという事実だけが、冷たい水のように背骨を流れ落ちていった。
「あ、」
声を出そうとした喉が、空気を引っ掻いた音だけを返してきた。
そいつの胸の、三つ目の穴が、ぐっ、と縦に裂けた。中から、黒い瀝青のような液が垂れて、床に落ちる。落ちたところから、湯気と一緒に石が溶ける匂いがした。鼻の粘膜の奥が、つん、と痛む。アンモニアと焦げた髪の毛と、腐った貝殻を煮詰めたような、嗅いではいけない種類の匂いだった。
走馬灯、というやつは、たぶん、これから始まるんだろうと思った。
国道七号の、追突事故の現場検証の写真。母方の祖母の桐箪笥の引き出しの匂い。和泉橋高校の、消しゴムで毛羽立った教科書の余白。隣の席の女子の名前。最後まで、思い出せなかった。
——湊。
頭の中の、胸骨の裏側の、いつかの声が、もう一度した。
胸ポケットの桜の護符が、突然、皮膚を焼いた。
「っ、つッ」
肋骨の上で、組紐が爛れたように熱を持っている。布越しに、皮膚が赤く染まっていく感覚が分かる。三歳のとき祖母が母に持たせ、母が俺に持たせた、ただの木の細工。十二年間、両親が死んだ夜にも、親戚に厄介者扱いされた朝にも、何も光らなかったはずのそれが、心臓の鼓動に同期するように、脈打って熱くなっていく。熱は焼けるというより、内側から押し開かれる種類の痛みで、肋骨の一本一本に細い熱線が走り、その線が背骨の中央で結ばれて、後頭部の付け根まで突き抜けた。
そいつが、跳んだ。
跳躍と呼ぶには低く、しかし俺の上に覆いかぶさるには十分な距離を、四本の関節が反対に折れた肢が一息で詰めてきた。胸の穴が、こちらの顔の真上で最大に開く。瀝青の滴が、額に落ちる前に蒸発した気がした。眉間に直接、熱湯を吹きかけられたような圧。瞼を閉じる暇すらなかった。閉じてしまえば、最後に映るものを自分で選んだことになる気がして、俺はただ、開いた目で、その穴の奥の、湿った何かが俺の顔を映し返す瞬間を見つめていた。
——うけたまわった。
俺の口が、勝手に動いた。
舌が、知らない音節を組み立てている。喉の奥が、自分のものではない振動で震える。歯と歯の間を、見たこともない言葉が、いくつも抜けていく。古文のような、外国語のような、それでいて——確かに、京都の祖母の声のリズムを持っている。子守唄でも経でもない、しかし耳の奥のどこかが「知っている」と頷いている、その感触だけが妙に鮮明だった。
口の動きと同時に、胸の護符が割れた。
木が裂ける乾いた音と、同時に、視界が白くなった。
裂けた木片の散る軌跡が、空中で勝手に円を描いた。俺の頭から肩、胸、瓦礫の腕、そして床までを、半径二メートルほどの円が囲んでいる。円の縁に、光の細い線が、次々と書き込まれていく。漢字でも梵字でもない。だが、見たことはある気がする。京都の祖母の家の、仏間の襖の縁に、似た模様が彫られていた。幼い俺が指でなぞろうとするたび、祖母が無言で手首を掴んで、ゆっくりと膝の上へ戻させた——あの、線。
そいつの肢が、円の縁に触れた瞬間、火花のような光が爆ぜて、肢ごと弾き飛ばされた。
そして円の中央——俺の腹のすぐ上の空間に、一本、二本、三本——銀色の尾が、立ち上がるように伸びていった。
尾は四本目で、五本目で増え続け、九本目が立ち上がった瞬間、円の中心に、輪郭そのものが現れた。
四つ足の獣だった。狐、と呼ぶのが一番近い。だが、犬や狐の倍はある。毛は白銀で、松明の橙の光を反射していない。自ら、淡く光っていた。
そいつが、振り向いた。
切れ長の双眸は青みがかった金色で、瞳孔が縦に細い。視線が、瓦礫の下の俺と、合った。
「——遅参を詫びる」
声は、雄とも雌ともつかなかった。低く、しかし鼓膜の奥ではなく、胸骨の内側に直接届いた。
肢の折れた獣が、円の外で吠えた。声というより、内臓を震わせる重低音。胸の三つ目の穴が、最大限に開いて、瀝青の液が一気に噴出した。
白銀の九尾は、その方向を一瞥もしなかった。
ただ、尾の一本が——たった一本が、ふわりと持ち上がっただけだ。
その尾が、空気を撫でた。
撫でた、と俺には見えた。実際には、何が起きたのか分からなかった。
肢の折れた獣の上半身と下半身の間に、一本の白い線が引かれていた。線は、コンマ数秒の遅れで、ずれて、滑り落ちた。瀝青の液と、内臓と、骨の破片が、円の外側に派手な音を立てて散った。
獣は、二度と起き上がらなかった。
九尾はゆっくりと俺に向き直り、四肢を折って、瓦礫の上に乗りかかるように顔を寄せてきた。鼻先が、俺の額に触れた。冷たくはなかった。むしろ、人肌のすぐ下にある体温に近かった。
「契約を望むか、湊」
名前を呼ばれた。
誰にも呼ばれなかった、俺の名前を。
口の中の血の味は、まだ消えていない。瓦礫の下の左腕は、まだ感覚がない。胸の皮膚は焼けたままで、桜の組紐は、もう跡形もない。
俺は、瞼の裏で、母の顔を一瞬だけ見た気がした。両親が死んだ夜、葬儀屋に渡される前の白い顔。それが、ゆっくりと頷いた気がした。
「——のぞ、む」
掠れた声が、自分の喉から出た。
九尾の瞳孔が、わずかに開いた。
瞬間、瓦礫が浮いた。俺の左腕の上の、頭一個分の岩塊が、見えない手に持ち上げられるように静かに横へ滑り、地面に置き直された。腕に血が戻ってくる痺れに、俺は呻いた。
「我が名は白露」
九尾——白露が、俺の頬に鼻先を寄せたまま、言った。
「お前の心臓が止まるまで、お前を一人にはせぬ」
天井のどこかで、岩盤が砕ける音がした。
白露の耳が、ぴくりと動いた。
円の外、俺と白露を取り囲む暗がりの奥から、さっき倒したものと同じ——いや、もっと複雑に骨を折った気配が、二つ、三つ、四つ、と滲み出してくる。胸の穴が裂ける湿った音が、四方から重なった。
「呼ばれてきたな」
白露が、低く、喉の奥で笑った気がした。
「初仕事だ、湊。立てるか」
俺は、痺れた左腕に、まだ動かない指で、力を入れようとした。指先が、わずかに、ひくりと動いた。
頭上のずっと遠くで、岩盤に新しい亀裂が走り、橙の光が一筋、上から差し込んでくるのが見えた。
その光に、人の影が、二つ、立っていた。