第1話
第1話
朝の通学路で、コンクリートの罅割れに突き刺さった煙草の吸い殻を、靴底で踏んだ感触が妙に生々しかった。
四月十一日、月曜。半年前に世界各地で「ダンジョン」が同時出現してから、街の景色は表向きは何も変わっていない。郵便屋のスーパーカブは相変わらず坂を下っていくし、電柱の古い選挙ポスターも剥がれかけのまま放置されている。違うのは、駅前の電光掲示板に毎朝流れる「本日の都内ダンジョン警戒指数:レベル2」の表示と、JR御茶ノ水駅構内に貼られた国家陰陽庁の求人ポスターくらいだ。
俺、壬生湊は、その電光掲示板の下を俯いて通り過ぎる。
視線を上げると、面倒なことが視界に入る。だから上げない。これは小学四年で両親を国道七号の追突事故で喪ってから、親戚の家を四度移った間に身についた、生存技術の一つだった。視線を低く保ち、相槌を半拍遅らせ、誰かが何かを頼んでくる前にその場から消える。十二歳から十六歳まで、それで擦り傷の数を半分以下にできた。
——その時。
筋違橋の手前、自販機と廃ビルの隙間に差し込んだ路地裏で、空気がぐにゃりと粘度を持った。
俺は足を止めなかった。止めなかったが、視線だけが反射的に吸い寄せられた。煤けた壁の継ぎ目に、人影と呼ぶには輪郭が崩れすぎたものが、一瞬だけ立っていた。骨ばった四肢が反対側に折れ曲がり、首の位置にあるはずのものが胴体の真ん中にめり込んでいる。湿った布巾を絞ったような、粘ついた音が、耳の奥で確かに聞こえた気がした。
そいつは、こちらを覗いていた。
呼吸を止めた。心臓が、一拍だけ強く打った。次の瞬間、出勤途中らしいスーツの男が俺を追い抜いていき、彼の革靴のかかとが舗装石に当たる音で、影は溶けるように消えた。
——気のせいだ。
俺は唇の内側を噛み、足を速めた。鉄錆と、自販機の冷却水と、どこかの家の換気扇から漏れる味噌汁の匂い。それらを必死で意識の前面に押し出して、さっき視たものを後ろへ追いやる。指先が冷たくなっているのを、学生鞄の革に押し当てて誤魔化した。
関係ない。俺には関係ない。
そう自分に言い聞かせながら、学生鞄の肩紐を握り直した。
教室では、いつも通り、誰も俺に話しかけなかった。
私立和泉橋高校二年三組。後ろから三列目、窓側から二番目。この席に座って二週間が経つが、隣の席の女子の名前を、俺はまだ知らない。彼女もたぶん、俺の名前を知らない。出席を取られるとき、担任の発音する「みぶ・みなと」の四音だけが、彼女の鼓膜にも届いているはずだが、それが顔と結びついている保証はなかった。
一限の現代文の途中、教科書の余白に何も書くことがなくて、俺はシャープペンの先で「壬生湊」と自分の名前を彫っていた。彫り終えてから、消しゴムで消した。何度かやっているうちに、その箇所だけ紙が薄く毛羽立っている。書いて消して、書いて消して。誰にも呼ばれない名前を、自分で呼んで、自分で消す。それが俺の朝の儀式のようなものになっていた。
「——なあ、知ってる?昨日の夜、池袋の地下街でC級ダンジョン湧いたって」
「マジ?被害は?」
「ニュースだと能力者三人で十五分で蓋したって。瑞穂の姉ちゃん、現場近くにいたらしくて、爆発みたいな音だけ聞こえたって言ってた」
斜め前の男子グループが、ゲームの新作の話と同じ温度で話している。能力者。Aランク。Sランク。霊脈。彼らの口から零れる単語は、テレビ番組の固有名詞と何ら変わらない。
俺はノートに目を落とす。世界各地に「不可視の階層構造を持つ異界」が出現し、適性を持つ人間が「陰陽師」「祓魔師」「呪術士」として国家の管理下に編入される——半年前、ニュース速報で初めてその文言が画面下に流れた瞬間を、俺はまだ覚えている。だがそれは、あくまで画面の中の出来事だった。
教室の蛍光灯がチカ、と一度瞬いた。誰も気づかなかった。俺だけが、ノートの罫線から目を上げて、白い天井を一瞬だけ見た。
昼休み、俺は屋上に続く非常階段の踊り場で、コンビニの梅おにぎりを齧る。米粒が乾いている。喉に詰まりそうになって、紙パックの麦茶で押し流した。麦茶の冷たさが、胸の奥で朝の路地裏の影と一瞬だけ重なって、ストローを噛む歯に力が入った。
ポケットの中で、固いものが指先に触れた。
朱色の組紐に通された、桜の花弁を象った小さな護符。俺がまだ三つだった頃に死んだ、京都の母方の祖母が、母に持たせ、母が俺に持たせたものらしい。「いざという時、この子を守るから」と祖母は言ったそうだが、いざという時など、俺の人生に来たためしがなかった。両親が死んだ夜にも、親戚に厄介者扱いされた朝にも、こいつは何も光らなかった。
護符の縁を親指でなぞる。木の繊維がささくれ、わずかに引っかかる。
俺はそれを、いつも通りポケットの奥に押し戻した。
放課後、神田川沿いを歩いて秋葉原の方へ向かう途中で、空が急に暗くなった。
雷の予報は出ていなかったはずだ。スマホを取り出そうとした手が、止まる。
万世橋の手前、いつも通る道の途中で、車道と歩道の境目あたりの空気が——歪んでいた。
朝、見たのと同じだ。だが今度はもっと大きい。直径二メートルほどの楕円形の領域が、油膜のように虹色に揺らぎ、その向こう側の景色が、まったく別の場所の景色に置き換わっている。湿った石の階段。松明の灯り。底の見えない深さ。歪みの縁からは、夏の蜉蝣のような小さな光の粒が、ちりちりと音を立てて散っていた。
「うわ、なんだあれ」
「動画動画」
通行人が立ち止まり、スマホを構え始める。誰かが「ダンジョンじゃね?」と笑いながら言った。誰も逃げない。彼らにとって、これは画面の向こうの出来事だ。
——逃げろ。
頭の中で、誰かの声がした。祖母の声か、母の声か、あるいは自分自身の声か、判別がつかない。だがその声は、耳ではなく胸骨の裏側から響いていて、聞いた瞬間、足の裏が勝手に冷たくなった。歯の根が噛み合わなくなり、奥歯の隙間で唾液が金属の味に変わった。膝の関節が、知らないうちに半歩分だけ後ろへ引いていた。
俺は反射的に踵を返した。だが遅かった。
歪んだ領域から、見えない手のようなものが伸びてきて、俺の足首を掴んだ。掴んだ、と思った瞬間にはもう、視界が縦にひっくり返っていた。指の関節がひとつひとつ独立した意思を持っているような、ねっとりとした冷たさが、靴下越しに皮膚に喰い込んでくる。爪とも牙とも区別のつかない先端が、踝の骨をぐっと押し込み、その圧の下で血管が脈打つたびに、自分の脈拍が他人のもののように遠く感じられた。
「えっ」
通行人の誰かが声を上げた。だがその声はすぐに、水中で聞くように遠くなる。
引きずられる。ふくらはぎを、太腿を、腰を。アスファルトの粒子が剥がされていく感覚。鉄の味が口の中に広がる。爪が掌に食い込んで、護符の組紐が、肋骨のあたりで強く擦れた。耳の奥で、自分の血が走る音だけが、やけに大きく聞こえていた。指先が必死にコンクリートの目地を探したが、そこにあるはずの摩擦は、まるで濡れたガラスのように滑り落ちていった。
「——だれ、か」
声が出なかった。喉の奥に空気の塊が詰まったまま、舌だけが乾いた天井を擦った。
最後に視界に映ったのは、スマホを構えたまま間抜けに口を開けたサラリーマンの顔と、その向こうで急速に閉じていく、街の光だった。
落ちた。
どこまで、と問う暇もないほど長く、落ちた。風はなく、ただ重力だけがあった。胃の中身が浮き上がり、耳の鼓膜が外側から押されるように軋む。一秒が一分にも、一時間にも引き延ばされて、俺は自分が今どちらの方向に落ちているのかさえ分からなくなった。瞼を閉じても、開けても、視界の質は変わらなかった。ただ、瞼の裏に残った街の光の残像だけが、徐々に粒度を失い、暗い赤から、もっと深い無色へと沈んでいった。
頬に当たるのは、湿った石の冷たさ。鼻腔に流れ込むのは、苔と、何か焦げたものと、薄く広がる獣の匂い。
仰向けに転がった俺の視界の上方、はるか高い天井のような場所で、さっき俺を呑み込んだ穴がゆっくりと閉じていくのが見えた。完全に閉じ切ったその瞬間、辺りを照らしていた最後の光が消える。
胸ポケットの中で、桜の護符が、わずかに——熱を持った気がした。
闇の奥で、何かが、ゆっくりと、こちらに歩いてきていた。