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Fランク陰陽師と白銀の九尾

第3話 第3話

第3話

第3話

痺れた左腕の指先が、ようやく一本ずつ動き始めた。

血が戻る痛みは、針というより、肘の関節の中で熱い砂が回るような感覚だった。歯を食いしばる。歯ぎしりの音が、自分の頭蓋骨の中で大きく鳴った。奥歯の根元から、鉄錆と土の混じった味が、舌の付け根へ滲み出していく。

円の外側で、瀝青の滴が石を溶かす音が、ぴちゃ、ぴちゃ、と四方から重なっていく。骨が反対側に折れた肢が暗がりの縁を擦るたび、爪先の引っ掻く乾いた音が増えていった。一、二、三——数える声が頭の中で途切れた。四を数える前に、暗闇の奥で湿った穴の裂ける音が、さらに一つ増えた。冷えた汗が、襟足から背骨の窪みを伝って、ベルトの内側まで降りていく。その冷たさだけが、自分がまだ生きている証のように感じられた。

「立て」

白露の声が、また胸骨の裏側で響いた。声というよりは、鐘の余韻に近い震えが、肋骨の一本一本を内側から叩いた。

俺は右肘を石の床に押し付け、上半身を半分起こした。左腕は、まだ自分のものという感じがしない。鞄は遠くへ転がって、どこかに消えていた。学生服の前ボタンが二つ千切れて、シャツの胸の生地が、護符の焼け跡を中心に、円形に穴が開いている。穴の縁の繊維が、まだ細く煙を上げていた。煙の匂いは、線香にも、雷の落ちた直後の空気にも似ていて、嗅ぐと鼻の奥がわずかに痺れた。

頭上の、遠い亀裂から差し込む橙の光が、俺の足元まで細い帯を伸ばしていた。光の帯の縁で、白露の九本の尾の影が、ゆっくりと一度、左から右へ撫でるように動いた。

最初の一体が、円の縁を踏み越えてきた。

踏み越えた、と思った瞬間には、もう胴の真ん中に細い線が引かれていた。線は遅れて滑り、上半身がずるりと斜めに落ちた。瀝青の液が石を打つ音が、いやに澄んでいた。落ちた半身の口が、最後まで何かを食もうとするように二度、三度と開閉して、それから止まった。

「目を逸らすな」

白露が言った。

「お前の眼が、私の照準だ」

意味を、咄嗟には呑み込めなかった。だが、二体目が右奥の柱の影から飛び出してきた瞬間、俺の視線がそれを追った——その軌跡を、白露の尾が一拍遅れてなぞった。尾の通り過ぎたところに、銀色の細い線が一本残り、線の両側で二体目の関節が、それぞれ別の向きへ抜け落ちた。

肩の骨が、内側から軋む。視神経の奥が熱くなり、こめかみの血管が枝分かれする音まで聞こえた気がした。九尾の片方が動くたび、俺の心臓が一拍だけ余分に打ち、その分だけ呼吸が浅くなる。これが契約というものの、代価らしかった。眼球の裏側で、見たくもない景色——たとえば、砕けた骨の断面、剥がれた爪の根元、瞳孔の散りきった獣の顔——が、見たそばから焼き付き、瞬きをしても消えてくれなかった。

三体目が、天井から落ちてきた。

落ちる前に、白露の尾の二本が交差して、空中で十字に線を引いた。十字の中央で、三体目は四つに割れて、瓦礫の上に散った。胸の穴の薄膜が、最後にぴちゃ、と一度だけ鳴って、止んだ。割れた断面から、墨を薄めたような血が、四方へゆっくりと広がっていく。広がりの先で、石畳の溝に沿って黒い筋が走り、円の縁の手前で、見えない壁にぶつかったように止まった。

四体目が、背後から来た。

俺は振り向けなかった。腰から下が、まだ瓦礫に半分埋まっていて、首だけが捻れた。視線だけ、強引に背後へ送る——その瞬間、俺の頬のすぐ横を、白銀の毛並みが擦り抜けた。風はなかった。ただ、頬の産毛が一瞬だけ立ち上がり、すぐに寝た。背後で、何かが二つに分かれて落ちる、湿った音がした。落ちた直後、俺の鼓膜の奥で、ぷつ、と細い糸の切れるような音が鳴った。それが何の音だったのか、自分でも分からなかった。

円の外の気配が、すべて消えた。

代わりに、頭上の亀裂から、さらりと、細かい砂利が落ちてきた。砂利が俺の鼻先で弾け、白露の尾の一本が、その軌道を払った。

「——お前を一人にはせぬ」

白露は、二度、同じことを言った。一度目より、二度目の方が、声の芯がずっと低かった。誓いというよりは、自分自身に対して言い聞かせる響きに近かった。

「心臓が止まるまでだ。覚えておけ。お前が立てぬ夜は、私が立つ。お前が眠る夜は、私が眼を開けている」

鼻先が、俺の額にもう一度触れた。さっきより、わずかに温度が上がっている気がした。獣の体温というより、長く焚かれた炭の、内側に残る熱に似ていた。

「契約とは、そういうものだ」

俺は何か答えようとして、口の中の血の味で言葉を失った。代わりに、瓦礫から押し出した右手で、白露の前肢の毛並みを、おそるおそる触った。指の腹に、絹より細く、しかし鋼線のような芯のある感触が伝わってきた。撫でる、というには敬意が足りない気がして、俺はただ、指を毛並みの上に置いた。指先から、自分の脈が毛並みの奥へ伝わり、伝わった分だけ、毛並みの奥から、別の脈が、ゆっくりと俺の指の腹へ返ってきた。

白露は、振り払わなかった。

頭上の亀裂が、急に広がった。

岩盤の砕ける音が連続して、橙の光の帯が太くなり、俺の全身を上から照らした。光の中で、二つの人影が、空気を踏むようにゆっくりと降りてきた。

本当に、空気を踏んでいた。

一人は背の高い、五十年配の男だった。藍鼠色の作務衣の上に、肩から斜めに白い布——何かの呪符の連なりを掛けている。腰には黒い鞘の短刀。革靴ではなく、白い足袋に黒い草履を履いていて、その足の裏が、空中の見えない段差を、確かに一段ずつ踏んでいた。一段ごとに、見えない床板の軋む微かな音が、亀裂の縁の埃を震わせていた。

もう一人は、まだ若い。二十代前半に見える女性で、紺のスーツの上から男と似た白い布を巻いている。耳には小型の通信機。手にしたタブレットの画面が、暗がりで青白く光っていた。画面の上を、判読できない速さで赤い警告の文字列が、何重にも積み重なって流れているのが、俺の場所からも見えた。

二人は、円の外、五メートルほどの距離で着地した。着地の瞬間、靴底からほこりが舞い、橙の光の中で粒子が金色に光った。

「——壬生湊君だな。国家陰陽庁、第四特別救援課の」

男が、口を開きかけた。

口を開きかけて、止まった。

男の視線が、俺ではなく、俺の足元に座る白露に固定されていた。一秒、二秒、三秒。男の咽喉仏が、上下に一度だけ動いた。瞬きを忘れた目の縁から、何かを必死で押し戻そうとしている力みが、こめかみの筋肉に浮いている。腰の短刀の柄に伸びかけた右手が、途中で止まり、宙で小さく震えてから、ゆっくりと太腿の脇へ戻った。抜くべきか、跪くべきか——その二つの間で、男の手は、行き先を見失っていた。

若い女性の方は、もっと露骨だった。タブレットを持ったまま、両手を口に当てた。指の関節が、白くなっていた。耳の通信機から、上司らしき声が「報告は」と何度も呼びかけているのが、漏れて聞こえる。彼女は応えなかった。応えられなかった。瞳の中で、画面の青白い光と、頭上の橙の光が、二つの色のまま混ざらずに揺れていた。

「……それは、」

男の声が、掠れた。

「九尾、か」

白露は、答えなかった。ただ、青みがかった金色の瞳で、男を一度、女を一度、ゆっくりと見比べた。瞳の奥で、銀の粉のような光が、ほんの一度だけ瞬いて、消えた。

「九尾は、千年前に……」

男が、自分の口を、自分の手で塞いだ。

塞いだ手の隙間から、男は、絞り出すように続けた。

「霊脈ごと封じられた。記録は、国の地下に、最高機密として残っているだけのはずだ。顕現した記録は——一つも、ない」

若い女性が、ようやくタブレットを取り落としかけて、慌てて持ち直した。画面の青白い光に、彼女の唇の血の気の引いた色が、はっきりと照らされていた。持ち直した拍子に、通信機のイヤピースが耳から半分外れ、上司の怒鳴り声が、はっきりと、洞窟の壁に跳ね返った。彼女はそれを、押し戻そうともしなかった。

俺は、何も分からなかった。ただ、自分の隣に座る獣が、この国の大人を二人、声も出せなくする何かであることだけが、急に重く、肺の底に沈んでいった。

白露の尾の一本が、ふわりと持ち上がり、俺の肩の上に置かれた。重さはなかった。しかしその下で、俺の鎖骨が、確かに、震えていた。

「壬生湊君」

男が、ようやく俺の名を呼んだ。喉の奥が、まだ乾いている声だった。

「君を、地上へ連れて帰る。——だが、その前に。我々は一つだけ、君に確認しなければならないことがある」

亀裂の上の橙の光が、ふっ、と一度、揺らいだ。

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