第2話
第2話
転送陣の光量が、足元で一度揺らいで踏みとどまる。
俺の踏み出した意志を読み取ったのか、魔法陣は収束寸前で保留された。靴底から、データ上の石畳の冷たさがふくらはぎまで這い上がってくる。ヘルムの内側で、自分の呼吸音がやけに大きく聞こえた。広場の夜気が、耳の後ろで細い糸のように揺れる。指の関節を一度握り込み、また開く。手袋の内側で、汗の粒が一つ、皮膚の上を滑った気がした。
時刻、十九時五十八分。
『生配信、見てるか? 二十時から、お前の話をする』
ラグナロクのマスター・アルフ。レベル九十四、ギルドメンバー千二百。先月の攻略速報で名前を見ないページがなかった男だ。対人イベントでMVPを四期連続、運営のインタビュー動画は三本。そいつが、辺境で岩を割っていた俺に、わざわざ個別メッセージを飛ばしてくる理由が、一つも浮かばない。
「蓮、まだ固まってんのか」
ザイが背後から追いついてきた。フードの下から俺の視界を覗き込み、指先で自分の端末を二度叩く。空中に投影されたポップアップが、俺の視界の端にも滲んで浮かんだ。
『ラグナロク公式・緊急生配信:マスター・アルフ、重大発表』 『開始まで1分12秒。現在同接:371,482』
「タイトルだけでこれだぞ」
ザイの声は半分呆れ、半分面白がっていた。コートの裾に、広場の街灯の光が斜めに乗る。フードの奥で、ザイの目だけが妙に静かに光って、数字の桁を追っていた。
「……何の話をするんだ」
「知るかよ。たぶんお前の話」
「俺の話って、何を」
「だから、そこが分からねえから配信が伸びてんだろ」
ザイは肩をすくめて、指先で俺のメニュー画面を勝手に叩いた。俺のプロフィール欄、自動アーカイブの項目が開く。半年前の初期設定以来、俺自身は一度も開いていない場所だ。触れた記憶すらない領域を、他人の指が先に掘り起こしていく。軽い違和感が、胸の底で短く跳ねた。
再生リストが縦に並んだ。
一番上が、昨日の夜、俺が〝深淵のフェンリル〟をソロ撃破した二十二分の生データ。視聴回数、八百十九万。その下に切り抜き動画が二十本連なっていて、どれも三百万から六百万の桁で回っている。コメント欄の先頭を、ザイが勝手にタップした。
『蓮さまの指先、三十秒で千回見返してる』 『このフレーム送りで見ると、回避入力が一フレ早い。異常』 『今夜も生きてて良かった』 『信者歴八ヶ月です。本日も眼福でした』
俺は視界の端に目を逃がした。噴水の水音が、やけに遠く聞こえる。文字列の密度が、見ているだけで喉の奥を圧してくる。一つひとつの賛辞が、自分宛のはずなのに、全部、俺を通り抜けて別の誰かの背中に貼りついていく感じがした。
「……何で見てるんだ、こんなの」
「お前がかっこいいからだよ。言わせんな」
ザイは真顔だった。
「お前、自覚ないの真面目にヤバいからな。昨日の切り抜き、アスガルドのハッシュタグで一位取ってる。生身の配信者ごと順位抜いてる。運営がもうフィーチャーしないわけないんだ、この流れ」
俺は黙って、自分の動画のサムネイルを一つだけタップした。再生。
モニターの中で、黒いロングコートを着たヘルメット姿の男が、岩骸の腕を四十二フレーム先読みで回避している。血溜まりを刃で払い、収納欄に獲物を放り込み、何の余韻もなく次の層へ歩き出す。肩の角度も、剣の収め方も、俺の動作のはずだった。なのに画面の中の男は、自分の知らない他人に見えた。歩幅、呼吸、瞬きすら、俺のものであって俺のものじゃない。録画の中に閉じ込められた瞬間、俺は俺の外側に立ってしまっている。
──冷たいな。
素直にそう思った。映像の中の俺には、狩り以外のあらゆるものへの関心が一切写っていない。六万件のコメントが、ここに何かを見出しているらしい事実の方が、俺には不気味だった。ヘルムの下で、奥歯を一度だけ噛み合わせる。音は出ない。
再生を止める。それ以上見る意味を感じなかった。
「……興味ない」
「出たよ、三百万再生に興味ない男」
ザイがため息をつく。その横で、広場の別方向から、また別の声が俺を呼んだ。
「れ、蓮さんっ!」
軽装のローブを着たプレイヤーが、息を切らして駆け寄ってくる。地下七層で会った女と、別人だが雰囲気は同じだった。頬が赤く、指先が震え、口元だけが笑っている。その後ろから、同じ速度でもう三人、プレートを着た男女が俺に向かって真っ直ぐ歩いてきていた。足音が石畳の上で、四つ、揃わないリズムで弾む。
その瞬間だった。
広場の中央、噴水の真上に、運営の公式通知ウィンドウが〝画面全体〟で立ち上がった。
『大型対人イベント《頂点戦役》概要発表』 『開催地:戦神の荒野。開催期間:来週より三週間』 『出場条件:ランキング上位百名に招待状を発行』 『公式フィーチャー対象プレイヤー:アルフ(1位)/ゴーラム(2位)/Ren(3位)』
俺の名前が、ゲーム全体の空に投影された。
広場のざわめきが、一度だけ、完全に止まった。
噴水の水音すら消えた錯覚。次の瞬間、ざわめきが三倍の密度で戻ってくる。視線が、俺の立っている地点に一斉に集束するのが分かった。石畳の上で、数百の頭が同じ角度に回る。ヘルムの顎紐の下、首筋に、複数の視線の熱がひとまとまりの布のように掛かった。肌ではなくデータの上で再現された感覚のはずなのに、重さだけは妙にリアルだった。肩甲骨の間が、見えない手で軽く押されているような圧を受け止めている。
「……あの、蓮様、握手、一度だけ」 「俺、蓮華の旗、作ってきたんですけど」 「頂点戦役、ソロ参加ですよね? だとしたら俺、命かけて援護します」
声が、重なって被さる。蓮華、という聞き覚えのない単語が、群衆の中から二度、聞こえた。旗、という単語が、自分の知らない場所ですでに縫われている事実の方が、名前より重く胸に残る。ザイが横で舌打ちをして、俺の前に一歩割り込み、軽く手を広げる。
「落ち着けって、人の呼吸、圧縮すんな」
人垣の外縁で、ポップアップがさらに一枚、追加で立ち上がっている。
『運営公式チャンネル:特別番組《頂点戦役・直前考察》本日二十時から』 『ゲスト:最大ギルドマスター・アルフ様』
俺はそれを見て、初めて理解した。アルフが二十時に俺の話をする、というのは、個人の生配信じゃない。運営の公式番組、ゲーム全体に強制的に流れる枠の話だ。つまり、逃げ場はない。見ない、という選択は、少なくとも俺以外のほぼ全員の行動選択肢には入っていない。見られる側は、見るかどうかを選べないほうに、いつの間にか座らされている。
視界の右上、残り時間が刻まれる。
『開始まで、残り24秒』
俺は黙って、メニューを操作した。視聴ウィンドウを一つだけ開く。配信サムネイル、中央にアルフの顔。口角が上がっている。背景は、ラグナロク本拠地の玉座の間。そこに、俺のプレイヤー名が副題として添えられていた。赤い字で、画面の下三分の一を占めて横たわっている。
『ソロ気取りの偽物に、一つ言っておきたい』
サムネの、一行目。
その一文を、視界に入れた瞬間、胸の奥で温度が一段下がる感覚があった。怒りではない。ただ、位置を決められた、と思った。俺がまだ一歩も動いていないうちに、相手は俺の立ち位置を〝偽物〟という四文字で、ゲーム全体の空に釘打った。
俺は視界の端で、残り時間をもう一度確かめた。
十九秒。
「……二十時ぴったりに、な」
ぼそりと呟いて、俺はベンチの端に腰を下ろす。石のベンチの冷たさが、腿の裏を短く刺した。広場の人垣が、俺の動作を追うように半円を描いて後退し、また一歩近づいてくる。数百の視線が、俺の指先の動き一つで揺れる水面のように同調する。ザイが俺の隣に腰を落として、小声で笑った。
「おい、これ、歴史的瞬間かもよ」
俺は答えない。ヘルムの下、頬を一度だけ拭う仕草をする。汗はない。データ上の皮膚を、指の腹が滑って乾いた音を立てた。それでも、拭わずにはいられなかった。自分の知らないところで形を持ち始めた〝蓮〟という人物を、この指先で一度だけ、自分の輪郭へ押し戻したかったのかもしれない。
視聴ウィンドウのカウントダウンが、残り3に入る。
二、一。
アルフのアイコンが、生配信の赤いマークを灯した。広場の数百人と、ゲームの外にいる数百万人と、ヘルムの内側にいる俺が、同じ瞬間に、同じ一枚の画面を開いた。