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孤高のソロ、気づけば信者数千人

第1話 第1話

第1話

第1話

──ヘルムの内側で、汗の匂いが一瞬で鉄の味に変わった。

『アスガルド・オンライン』辺境マップ〝カレドの墓所〟地下七層。視界の端でHPバーが赤い。残り十二パーセント。目の前の巨人型ボス《岩骸のグレンデル》が、三本目の腕を振りかぶる。

軌道、左肩から胸元へ斜め下。発生から四十二フレームのディレイ。前回までの七十六回で全部覚えた。

しゃがむ。風が頭上を裂く。岩の砕ける音が鼓膜を殴り、足裏の砂利が擦れて踝に冷たい。頬のすぐ横を、拳大の岩片が音速で飛び去っていく。振動で視界の奥が一瞬白く点滅し、耳の奥に高周波の残響が尾を引いた。フルダイブ特有の、痛覚を丸めた鈍い衝撃。本物の痛みの七割が、こうして神経の端でちくりと刺す。

「……ったく、AIアプデで一フレ早くなりやがって」

ぼそりと舌打ちする。同時に右手のロングソード《灰色狼》を逆袈裟に走らせ、巨人の右膝裏、腱の断面に刃を差し込んだ。装甲のない黄色い肉。クリティカル発生。HPバーの最後の十二パーセントが、ガラスの割れる音と共に消える。

DROP表示。レアドロップ判定、二件。

俺はそれを一瞥もせず、剣を肩の高さで一度だけ振って血溜まりを払い、収納欄に放り込んだ。鞘に戻る金属音は乾いていた。岩盤の上で靴底が、しゃり、と鳴る。呼吸を整える。肺に流れ込むデータ上の空気は、地下特有の石灰の匂いを微かに再現していた。運営が凝りすぎだと、いつも思う。

ソロプレイ三百四十三日目。ボスソロ討伐、千二十六体目。

「次」

短く呟いて、墓所の奥へ歩き出す。背後で岩骸が消滅エフェクトに包まれ、青い粒子が天井に吸われていくのが、ヘルメット越しの皮膚にちりちりと触れた。粒子の一つが肩甲骨の辺りで弾け、ほのかな静電気の残滓だけが、ログアウト時の夢の終わりのような感触で消える。

地下八層の階段を降りた瞬間、視界の右上に通知が灯った。フレンド申請、ではない。配信関連だ。

『あなたの配信視聴者数が新記録を更新しました:14,832人』

俺は眉をひそめた。

俺は配信を「したことがない」。

正確に言えば、自動アーカイブをオンにしているだけだ。アスガルドの上位ランカーは観戦モード対応として登録され、本人の意思とは無関係に動画がゲーム内チャンネルへ流れる。レベルランキング三位の俺は、半年前から自動的にその枠に入っている。

実際、視聴数なんて見たことがない。今日たまたま通知が出たのは、何かしらの閾値を超えたからだろう。一万四千。一桁、多い気がする。集計バグかもしれない。そう結論づけて通知を左にスワイプし、視界の端に畳む。運営のUIは、こういう一瞬の判断を迷わせない設計になっている。それが今日は、妙に引っかかった。

「蓮さんっ!」

階段の踊り場、岩の柱の影から声がした。誰だ、こんな辺境に。

振り返ると、軽装のプレートを着た女性プレイヤーが、両手で頬を押さえて立っていた。装備値からしてレベル四十前後。八層に居ていい数字じゃない。ヘルムを外した彼女の頬は、フルダイブの演算が追いつかないほど赤く、耳の先まで朱が広がっていた。指先は小刻みに震えていて、プレートの金具が微かにかちゃかちゃと鳴っている。息を呑む音と、呼吸が追いつかないのか短く息を吐く音が、交互に岩の壁へ吸い込まれていった。

「あ、あの、サインっ……はゲームに無いから、フレンド申請、いえ、握手、いえ、何でもいいですから……っ」

「死ぬぞ、その装備で」

俺は答える。八層の通常モブはレベル八十帯。一掃りで彼女のHPは消し飛ぶ。語調を柔らかくする余裕はなかった。目の前の事実を伝える。それだけで精一杯だ。

「い、生きてるだけで眼福でしたぁああっ」

声だけを残して、彼女は来た道を駆け戻っていった。岩肌に反響した足音が、なかなか消えない。音の粒が層をまたいで跳ね、やがて地下水の滴る音に溶けていく。

……何だったんだ、今の。

俺は首を振って奥へ進む。先週、低層で素振りをしていたら、見知らぬPTが俺の周りに半円で並んで誰も狩らずにこちらを見ていたことを思い出した。あれは何かのレイドクエストの並び順だと思っていたが——誰かがスクリーンショットのシャッターアイコンを出していたことまで、今さら記憶が繋がる。八人。全員が同じ角度で、俺の利き腕側を撮っていた。あの瞬間、誰一人、武器を抜いていなかった。今にして思えば、狩場で八人が手ぶらで並ぶという絵面は、ゲームの文脈では異常だ。

考えても仕方がない。狩りに戻る。

二時間後、俺は一度街へ戻った。ドロップ整理がいる。

中央都市《ガレリア》の噴水広場。ベンチに座ってメニューを開いた瞬間、目の前を歩いていた二人組がぴたりと足を止めた。

「えっ、嘘、本物?」 「録画、録画」

俺はメニューを閉じる。気にしない。気にしたら負けだ。

噴水の水音、屋台の客引き、広場の隅で踊っているNPCの楽団——いつもより少しだけ、ざわめきの密度が濃い。視線の数が、空気中の湿度みたいにまとわりつく。首筋のあたりに、何本もの細い糸が軽く絡みついて離れないような、そんな感覚。視界の端の通行人が、歩幅を不自然に緩めてはこちらを盗み見て、また慌てたように歩き出す。その反復が、広場の石畳の上で小さな波紋になって広がっていくのが分かった。ヘルムの顎紐を軽く引いて、俺は視界を水面に固定した。水面には自分の姿が映らない設計だ。誰かの配慮か、それとも偶然か。

ふと、視界の隅に運営お知らせが点滅していた。

『来週開催:大型イベント「頂点戦役」概要発表。ランキング上位プレイヤー全員に招待状をお送りします』

頂点戦役。半年に一度の対人イベント。前回までは興味がなかった。ソロでやる意味がない。

立ち上がろうとした瞬間——

「蓮、お前さあ」

横から声をかけられた。知り合いはいない、はずだった。

ロングコートにアサシン系の装備。掲示板でたまに名前を見る、レベルランキング九位の〝ザイ〟。フードの下から覗く目は、呆れと、ほんの少しの同情が混ざった色をしていた。

「九位の方が、何か用か」

「……お前、本気で気づいてないの?」

「何が」

ザイは無言で、端末から動画を一本飛ばしてきた。受信。再生。

俺の戦闘動画。先週の、墓所五層の俺。十秒もない切り抜き。

再生回数:三百八十二万。 コメント:六万二千件。 高評価:四十九万。

「……桁、間違ってないか」

「合ってる。これ〝切り抜き〟だぞ。本アーカイブはこの十倍は固い」

俺は黙った。喉の奥が、なぜか少し乾いている。視界の数字を何度か見直す。桁区切りのカンマの位置が変わらないことを、三度確かめた。表示が揺らぐことはない。フルダイブのUIは、嘘をつかない。

「掲示板の〝蓮さま考察スレ〟、今、第三百四十二スレ目だ。〝信者〟を自称してるアカウントが千を超えてる。今朝、お前が辺境で岩骸を切った瞬間、関連タグが世界トレンド入りした」

ザイは肩をすくめた。コートの裾がひらりと揺れ、噴水の飛沫を一粒だけ弾く。弾かれた雫は石畳に小さな染みを作り、すぐにシステムの環境エフェクトに吸われて消えた。

「で、来週の頂点戦役。お前が出るとなれば、たぶん運営は——」

「興味ない」

俺はそれだけ言って、転送陣に向かって歩き出した。背中越しに、ザイの呆れた声が刺さってくる。

「気づかない方が罪だぞ、お前は」

その一言は、ヘルムの内側で妙に長く残響した。罪、という単語の選び方が引っかかる。軽口にしては、重さの配分が間違っている。

転送陣の光に包まれる直前、視界に運営通知がもう一つ立ち上がる。

『大型イベント「頂点戦役」公式参加プレイヤー:Ren 様 を仮登録しました。本登録は七日以内にお願いいたします』

仮登録した覚えはない。

そして、その下にもう一行。

『最大ギルド《ラグナロク》マスター・アルフ様より、あなた宛にメッセージが届いています』

俺は転送を一瞬止めた。足裏の魔法陣が、未送信の意志を検知してわずかに光量を落とす。

メッセージを開く。たった一行だった。

『生配信、見てるか? 二十時から、お前の話をする』

時刻、十九時五十八分。

転送陣の光が、ぐらりと揺れた。

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