第3話
第3話
赤いアイコンが灯った瞬間、ヘルムの内側に、アルフの声が直接流し込まれた。
『——よう、アスガルドの諸君。ラグナロクのアルフだ』
声は低く、落ち着いている。威圧より、親密さを演出する側の発声。何度もマイクを握ってきた人間の、喉の使い方だ。広場の数百人が、一斉に上を見上げた。噴水の上空、半透明の大画面が空いっぱいに広がる。アルフの顔。四十前後の整った面立ち。玉座の間の背景が、蝋燭の炎の揺れまで描き込まれている。光量の設定が、俺の辺境の景色と同じエンジンで動いているとは思えないほど、豪奢だった。
『今日は、嬉しい発表と、嬉しくない発表が一つずつある』
隣でザイが、小さく舌打ちした。フードの下で頬が引きつるのが、横目に見えた。
『嬉しい発表。頂点戦役、ラグナロクは全千二百名で予選から参戦する。本戦の優勝を、ここに約束する』
広場の一角から歓声。俺の周囲に集まっていた連中が一瞬だけ歓声の方向へ顔を向けたが、視線は俺から外れなかった。指先で俺の輪郭を撫でるような、粘度のある視線が、ヘルムの縁に幾重にも張りつく。首筋に、冷たい針金を一本巻き付けられたような錯覚が走った。
『で、嬉しくない発表だ』
アルフの口角が、一段深く持ち上がる。
『——蓮、って名前、聞いたことあるやつ』
広場が、静まり返った。噴水の水音が一段大きく聞こえ、誰かの呼吸の音まで拾える距離に、空気の密度が下がる。
『ここ数日、掲示板が騒がしいな。ソロで岩骸を斬った、深淵のフェンリルをソロで落とした、指先が神がかってる——結構結構。俺もアーカイブを全部見させてもらったよ』
アルフは、水晶のカップに口をつける。演出。視聴者の息継ぎを、秒単位で測っている。
『で、結論から言うとな』
カップを置く。乾いた音が、広場のスピーカーから薄く響いた。
『ありゃあ、ソロじゃない』
俺の指先が、ベンチの縁を一度だけ掴んだ。石の角が、掌の外側に硬く食い込む。データ上の石のはずなのに、触覚エンジンはその角の鋭さを、指紋の一本一本に誠実に返してくる。
『考えてもみてくれ。地下八層、レベル八十帯のモブが湧くフロアで、ソロの人間がボスの行動を四十二フレームで回避できると思うか? アスガルドの回避演算は、最低二十フレームの先行入力が必要だ。それを九十八パーセントの精度で、ソロで、三ヶ月連続。誰が信じる? 俺は信じない』
「……おい」ザイが声を潜めた。「これ、ただの挑発じゃねえぞ」
『俺の見立てではな、蓮くんの後ろには、たぶん数人の解析勢がついてる。戦闘中のボス行動予測を、外から音声で入れてる。裏垢の協力者か、あるいは運営の知り合いから情報を貰ってるか。どっちにしろ、一人でやってる顔をしてる偽物だ』
広場の隅から、息を呑む音が波のように広がる。昨夜〝蓮華〟と名乗っていた数人の目つきが、一瞬で変わった。怒りじゃない。守ろうとする側の、覚悟の温度。誰かが拳を握り、プレートが鈍い音を立てた。別の誰かが、腰の鞘に手のひらを置いたまま、喉の奥で小さく唸る。
『俺は、ソロを騙るやつが嫌いだ』
アルフの口調が、一段低くなる。
『本物のソロは、配信でこれ見よがしに魅せ方を作らない。蓮くんのアーカイブは、全部、カメラアングルが計算されてる。誰が動画を編集してる? 誰がサムネを作ってる? 自動アーカイブです、ってか。笑わせるな。今のアスガルドで、三百万再生を「たまたま」叩き出す自動機能があったら、それは自動じゃなくて運営のブースト対象だ』
「……蓮さま」
隣の軽装ローブの女が、震えた声を上げた。俺の肘に、触れるか触れないかの距離で、指先だけが彷徨う。爪先の震えが、空気の膜を通して伝わってくる。
「違いますよね。蓮さまは、本物ですよね」
俺は答えない。画面の中のアルフは、さらに畳みかけた。
『——というわけで、運営への提案だ』
画面に、対戦カードの図が映る。赤い枠の中に、アルフの顔と、俺のプレイヤーアイコンが並んで置かれていた。
『予選第一戦、ラグナロク対蓮くん。これで組んでくれ。この条件、フィーチャー枠の目玉になるぞ。ソロ気取りの偽物が、本物のギルドにどこまで通用するか。みんなも見たいだろ?』
広場の反応は、きれいに二つへ割れた。ラグナロクのマークを胸につけた連中は、露骨な嘲笑。それ以外——俺を取り囲んでいた数百人のほぼ全員が、息を止めて、俺のヘルムを凝視していた。アルフに一言返せと、目だけで言っている。瞬きの回数すら、こちらに合わせてくるようだった。
俺は、立ち上がらなかった。立ち上がれば、即座に返答と解釈される。ベンチに残った尻の下で、データ上の石の冷たさだけが、腿の裏をじわりと這い上がってきた。喉の奥が、渇く。吸った息が、ヘルムの内側の換気フィルタを一度だけ鳴らした。
一晩が明けた。
ログインした瞬間、通知欄が赤い数字で埋まった。フレンド申請、三千四百二十件。メッセージ、一万八千件。視界の端で、外部掲示板のアラートが未読のまま積み上がっている。アルフの配信アーカイブは、同接ピーク百二十万。切り抜き動画が、一晩で四百本を超えていた。
『【速報】アルフ、蓮を名指しで「偽物」発言』 『【炎上】蓮擁護派 vs ラグナロク派、掲示板大戦争』 『蓮さまの沈黙、かっこよすぎ説』 『頂点戦役、運営フィーチャー確定か?』
ザイのメッセージが一番上に浮いていた。
『起きたか。運営、動いたぞ』
添付されたリンクを開く。運営公式の、緊急発表だった。
『大型対人イベント《頂点戦役》予選組み合わせについて』 『多数のご要望を頂いた事案につきまして、運営にて慎重に検討いたしました。予選第一シード《ラグナロク》と、第三シード《Ren》様の対戦を、公式フィーチャー枠として確定いたしました』
ヘルムの内側で、俺は長く一度だけ息を吐いた。データ上の空気が喉を冷たく撫でて、肺の底で重く沈んでいく。耳の奥で、自分の鼓動が二拍遅れて追いかけてくるのが、妙にはっきりと聞こえた。
——逃げられないように、枠を組まれた。
運営はアルフの挑発に乗ったわけじゃない。配信同接百二十万、切り抜き総再生三千万、関連タグが世界トレンド一位を維持している事実の方に、乗ったんだ。逃げれば、俺は「アルフの言う通りの偽物」として永久に語られる。受ければ、千二百人の先鋒数百人を、俺一人で相手にすることになる。どちらの皿も、同じ重さで傾いていない。秤はもう、片側に倒れたあとだった。
中央都市の広場は、昨夜の数倍の人口密度になっていた。俺の姿を認めた瞬間、人垣が半円を描いて後退し、真ん中に俺だけの通路が空く。誰も喋らない。数百人の視線が、同じ角度で俺を追う。その光景は、賞賛というより、もはや儀式に近かった。足音が、石畳の目地を一つずつ数えるように、やけに鮮明に跳ね返ってくる。
噴水の縁に腰掛けていたザイが、俺に気づいて片手を上げる。フードの下で、口角だけが薄く歪んでいた。
「おはよう、偽物の大将」
「やめろ」
「冗談だ。——で、どうすんだ」
俺は答えずに、ベンチの隅へ目を走らせた。昨夜のローブの女が、今朝もそこに座っている。膝の上に、手書きの旗を広げていた。粗い麻布の中央に、墨で一文字。
〝蓮〟
その上に、小さく——〝華〟と添えてある。墨の跡は、まだ乾ききっていない。一晩かけて縫い、広場が開く時刻に合わせて仕上げたのだと、針目の粗さが物語っていた。指先に刺繍針を刺した跡なのか、布の端に、ごく小さな赤い染みが一つ、にじんでいる。
「……蓮華」俺はぼそりと呟いた。「何だ、その名前」
「昨日、掲示板で決まったんです」女は顔を上げずに答えた。「蓮さまを支える人の、名前です。もう、五千人を超えました」
俺は、旗の布地に触れなかった。触れれば、受け入れたことになる。触れなければ、拒んだことになる。その二択しか残らない場所に、俺はもう立たされていた。
噴水の水音が、やけに遠い。広場の空には、まだ運営のフィーチャー発表のポップアップが残響のように滲んでいる。俺はメニューを開いた。『頂点戦役・本登録』のボタン。指先で一度だけ、つつく。灰色の仮登録マークが、緑の本登録マークに切り替わる。切り替わる瞬間、視界の縁に、ごく短い確定音が鳴った。短いのに、耳の奥にいつまでも残る種類の音だった。その一挙動を、広場の数百人が、固唾を呑んで凝視していた。
「……受ける」
俺の声が、ヘルムの内側で、少しだけ震えたのが自分で分かった。
その瞬間、視界の右上に、運営通知が差し込まれた。
『ラグナロクより、宣戦布告が正式に承認されました』 『開戦まで、残り六日二十三時間』
続けて、もう一行。
『アルフ様よりメッセージ——「逃げなかったな、偽物」』
俺はベンチから、立ち上がった。石畳の上で、靴底が、しゃり、と鳴る。広場の数百人が、同じ音に合わせて、一歩だけ、俺に近づいた。