第2話
第2話
スコープを覗いたまま、俺は背後の足音だけを聴いていた。
「灰斗。動くな。こっち向くな」
兄と呼んでいた男──八雲の声。組織で一番しなやかに人を殺す男だ。彼の銃口がいま、俺の後頭部、髪の生え際から指三本下のあたりに照準を合わせていることが、聞かなくても分かった。八雲は撃つ前に必ずそこを狙う。延髄を逸らさないために、生え際を基準にする癖がある。三年前、酒に酔ったときに自分で教えてくれた癖だった。
イヤホンの中で、仲間の咳払いがもう一度、湿った音を立てた。安全装置の外れる音は、咳払いの裏で隠す。組織のセオリーだ。教えたのは、誰だったか。
「お前は見すぎた」
八雲は囁くように言った。優しい声だった。子どもを寝かしつけるときの声を、彼は人を殺す直前に出す。
「向こうのことは、組には預けるな。墓に持っていけ」
スコープの中で、青白い炎の眼の穴がふたつ、いまも俺を見ている。八雲の銃口は俺の後ろ。前にも後ろにも、逃げ場はなかった。床のコンクリートに伏せた俺の右肘が、銃床の重さで微かに痺れ始めていた。
俺は、答えなかった。
答える代わりに、伏せたまま、自分の体重を右へずらした。八階の床は薄い。砂粒一つ踏み外す音さえ、八雲には届く。だが俺は彼の癖を、彼が忘れた方の癖まで覚えていた。八雲は撃つ瞬間、必ず半秒だけ息を止める。半秒。俺の身体が一回転がるかどうかの時間だ。
息を止めた音を、俺は背中で聴いた。
転がった。
発射音は、思っていたより小さかった。
弾は俺の右肩の付け根を裂いて、その下のコンクリートを抉った。砕けた破片が頬を刺す。痛みは遅れて来た。痛みより先に、肩が重くなり、次に熱くなり、それから初めて、肌の奥に針を百本まとめて挿し込まれたような感覚が広がった。
「外したな」
八雲の舌打ち。意外そうな声ではなかった。彼は俺が転がることを、たぶん半分は予測していた。半秒の癖を見せたのは、餞別だったのかもしれない。
二発目が来る前に、俺は床を蹴った。
蹴った先は、窓だった。
割れたガラスのまま放置されていた西側の窓枠。さっきまで俺が頬を寄せていた、計算通りの狙撃位置。そこに頭から飛び込んだ。背中が枠にぶつかり、抜けた。鉄錆と古いペンキの匂いが、最後にひとつ、鼻の奥を擦って消えた。
落ちた。
八階。
落ちている、という感覚は、思ったほど強くなかった。視界が回り、夜の歌舞伎町のネオンが下から上へ流れ、黒い夜空がひと巻きに巻き取られる。耳の奥で空気の塊がぶつかる音だけが、ずっと低く鳴り続けていた。痛みは消えていた。たぶん、追いつけていないのだ。
落下中に、俺はひとつだけ思った。
──堂島の脚は、撃たなかった。
仕事を、果たさなかった。
最弱は、保険の保険であることでだけ、この世界に居場所を作ってきた。その保険を、いま俺は自分で破った。落ちながら、俺は奇妙にも安心していた。仕事を果たさなかったことに、ではない。果たさないという選択肢が、自分の指の中にあったことに。
身体が、隣のビルとの隙間に張られていた、放置された看板の鉄骨に当たった。一回。胸のあたり。次に、廃材の山。古いサッシ、断熱材の塊、誰かが捨てた事務机の脚。順番に、俺の身体は緩衝されていった。設計されたわけではない、ただの偶然の階段が、俺の落下を四回に分けて減速した。
最後に、俺はビルの裏手の、瓦礫の山に背中から沈んだ。
息ができなかった。
肺が押し潰された感覚があった。口を開けても、空気が入らない。喉の奥で何かが詰まっている。血だ。鉄の味が、舌の根を覆っていた。
仰向けで、俺は夜空を見ていた。
廃ビルの八階の割れた窓から、青白い炎の光が、こちらをまだ見下ろしていた。あの眼の穴、ふたつ。距離が遠くなったのに、視線の重さは変わらなかった。むしろ近付いてきていた。落ちている間、ずっと、向こうは俺を見ていた。
そして、その視線の脇から、八雲の影が窓枠に手をかけて、覗き込んでいた。
「灰斗」
声は届かない。だが口の動きで、俺の名前を呼んだのが分かった。彼は窓から身を乗り出して、下の俺を確かめている。仕留めたかどうか、確認している。
俺は、瓦礫の下で、動けなかった。
右肩の弾傷、肋骨の何本かの折れ、背中のどこかから滲み出ている熱い液体。それらの全部が、俺の身体を地面に縫い止めていた。呼吸ができない。指先まで血が回らない。視界の周辺が、もう暗い。
──ここで死ぬのか。
最弱は、最弱らしく、保険の保険として、誰にも見送られずに、瓦礫の下で死ぬ。
そのときだった。
身体の真ん中に、冷たいものが、すっと一本、通った。
頭頂から尾骶骨まで、背骨をなぞるように、細い糸のような感触。針金より細く、髪より太く、触れた場所だけがほんの少し痺れる。痺れは熱でも痛みでもなく、たとえて言うなら、雪の中に長く手を入れていた後、その手を温かい湯に浸けた瞬間の、あの戸惑った感覚に似ていた。冷たいのか温かいのか、自分でも判じがつかない。
息が、ひと息、入った。
押し潰されていた肺の奥に、空気の通り道が、糸の太さだけ開いた気がした。
俺は、その感覚を追った。追う、というより、追わずにはいられなかった。糸は、背骨から左の鎖骨へ、鎖骨から肩を回り、上腕の内側を撫で、肘を曲がり、前腕を撫でて、五本の指の付け根まで降りてきた。指先で、糸は止まった。止まった先で、何か、押し出してほしいものを抱えていた。
なんだ、これは。
俺の身体の中に、こんな道はない。血管でも神経でもない。三日前まで、確かに無かった。三日前まで俺は、自分の身体の図面を、誰よりも正確に把握していたはずだった。心拍、呼吸、筋肉の起始停止、関節の可動域、視野の死角、指の腹の汗の出方。最弱として生き延びるために、俺は俺の身体を、教科書一冊分は読み込んでいた。
その教科書のどこにも、こんな冷たい糸の項目はなかった。
糸は、生きていた。
ゆっくりと脈打っていた。心臓ではない、別の場所で打たれている脈。もしかしたら、青白い炎の眼の穴のどちらかで打たれているのかもしれない、と俺はぼんやり思った。あれと同じ温度がしていた。
指が、勝手に動いた。
右手の親指と、人差し指、中指。三本だけが、俺の意思を待たずに、ある形を作った。親指の腹を、人差し指の第二関節に当てて、中指を軽く折る。後で思えば、それは何かの印に似ていた。だがそのときの俺は、印という言葉を知らなかった。
指の腹に、何か紙の感触があった。
胸ポケットだ。三日間の張り込みで、堂島の癖を書き留めたメモ。俺の鉛筆で頁の端まで埋めたあの紙。落下のときに、ポケットから半分だけ滑り出していた。
紙の上に、俺の血が滴っていた。
肩から、首筋から、口の端から、流れ出た血が、メモを濡らしていた。鉛筆の文字が、血で滲んで、堂島の癖の文字列が、縁から内側へとぼやけていく。それを見ていた俺の目の前で──
紙が、震えた。
風ではない。
風は、無かった。瓦礫の谷間で、夜の歌舞伎町の空気は、いま俺の鼻先で完全に止まっていた。エアコン室外機の油の匂いも、ゴミ捨て場の酸も、止まっていた。動いているのは、俺の血で濡れた、紙切れの一枚だけだった。
紙は、俺の指の三本が作ったその形に呼応するように、四隅をかすかに持ち上げて、もう一度、震えた。
──応えている。
何が、何に応えているのかは分からない。だが、紙は、俺の身体の真ん中を通っている冷たい糸の脈と、同じ拍で揺れていた。一拍、半拍、一拍。糸が脈打つたびに、紙の縁が、震えながら、内側へ折れようとしていた。
折ろうとしている。
紙が、自分で、自分を折ろうとしていた。
鉛筆で書かれた堂島の癖の文字が、滲みながら、紙の繊維の奥へ吸い込まれていく。文字が、消えるのではない。紙の中に、潜っていく。三日三晩、俺が観察した男の癖が、紙の繊維の一本ずつに、移っていく。
頭上で、八雲の声がもう一度、降ってきた。
「灰斗、息してるか」
声は、紙の震える音にかき消されて、俺の耳の中で、ずっと遠くなった。
冷たい糸が、もう一度、俺の指先まで降りてきて、血で濡れた紙の上で、止まった。