Novelis
← 目次

最弱の殺し屋、式神を編む

第1話 第1話

第1話

第1話

指が引鉄にかかったまま、俺は呼吸を止めた。

歌舞伎町二丁目、取り壊し予定の雑居ビル八階。割れた窓の隙間に伏せて、向かいのラブホテルの非常階段を狙っている。距離百十七メートル、風速二メートル、北北西。ボルトアクションの銃身にはタオルを巻いてある。音より熱を隠すためだ。赤外線のスコープは、とうの昔に標的の頬骨を捉えていた。

三日目だった。

標的の男が午前三時半に必ずそこで煙草を吸うことは、張り込み初日の夜に掴んでいた。二本目の半分で咳き込むこと、灰を落とす前に左の袖口を一度見ること、携帯のバイブが来ると右の耳たぶを擦ること──癖はすべて書き出してある。ポケットの中のメモは、俺の鉛筆の字でびっしり埋まっていた。紙の四隅は、湿った床に触れて柔らかくなっている。見なくても暗闇で引けるように、俺は頁の角を親指の腹で三度撫でた。

俺は最弱だ。

組織「黒縄」の同期に、俺より走るのが遅い奴はいない。腕相撲で勝ったこともない。ナイフの扱いも最下位。それでも十六で最年少ヒットマンをやれているのは、この三日三晩の張り込みだけで飯が食えるからだった。身体が駄目なら時間で殺す。執念だけで殺す。そう言われて、俺はそのまま育った。

風が止んだ。今だ、と思った瞬間、非常階段の鉄扉が開いて、男の革靴の音が降りてきた。

予定通りだ。

吐く息を四つに分けて、俺はスコープ越しに男の顔を拾う。堂島昭文、四十七歳、元警視庁組対の情報屋。三年前に組織の金をひとりで持ち逃げし、新宿の地下で名前を四回変えながら生き延びていた男。黒縄が忘れない類の背任だった。

堂島はライターを鳴らした。一回目、着かない。二回目、着かない。三回目で火花が散って、煙草の先端が赤く光る。煙を吐くとき、彼はわずかに顎を上げる。喉仏がネクタイの上で動く。そこが一番、心臓が薄い。

指先に汗が滲んだ。俺は汗を嫌う。引鉄に滑るからだ。左手で太腿のデニムに押し付けて拭う。乾いたコンクリートの埃の匂い、階下のゴミ捨て場から上ってくる生ゴミの酸、どこかで回っているエアコン室外機の油、全部を鼻の奥で順番にラベル付けしていく。においの層を整理しておかないと、妙なにおいが紛れたとき気付けない。

堂島が二本目をくわえた。予定では三分後に路地から仲間の車が来て、車窓から堂島を撃つ。俺の役目は現場全景の監視と、予備発砲。つまり「念のため」だった。

俺の役目はいつもそうだ。最弱は、保険扱いが相場なのだ。

──けれど、そのときだった。

堂島の立つ踊り場の、さらに下の階から、何かが滲み出た。

最初、俺はそれを排気ガスだと思った。青白い、ガスコンロの根元のような、冷たい炎色の靄。だが排気ガスは下へは流れない。靄は吸われるように踊り場の手すりを這い、堂島のふくらはぎにまとわりついた。堂島は気付かない。煙草の煙を二回吐いて、左袖を見た。

見間違いだ。

俺はスコープから目を外して、肉眼で確かめる。見える。青白い炎の塊が、人の輪郭をぼんやり保ったまま、堂島の背後で立ち上がっていた。身長二メートル弱。首のあたりに黒い穴が二つ、眼のように開いている。穴の縁は燃えているのに、煙は立たない。熱で揺らぐはずの夜気も、そこだけ凍りついたように静かだった。ビルの谷間を走る夜風が、その輪郭だけを避けて通り抜けていく。エアコン室外機の油のにおいが、一瞬だけ遠のいて、代わりに鼻の奥に、雪を握ったあとの掌に似た、金気を帯びた冷たさが残った。においではなく、温度がにおいのふりをしている、と思った。俺が三日かけて整理してきたにおいの層の、どこにも属さない異物だった。

心臓が一拍、飛ばした。

スコープに戻す。堂島の頬骨に十字線を合わせ直す。手が震えていた。震えた、という感覚を俺は久しぶりに思い出した。最後にそれを許したのは、たぶん七歳の夏、初めて人に引鉄を引けと言われた夜だ。あのときも、手のひらの内側から指先に向かって、細い電流のような痺れが走った。同じ痺れが、いま戻ってきていた。

俺は「見間違い」と三回口の中で唱えた。ターゲットだけを見ろ、ターゲットだけを殺せ。俺に教え込まれてきたのはそれだけだった。

そのとき、イヤホンに仲間の声が割り込んだ。

「灰斗、車来た。堂島を路地に落とせ」

俺は一拍遅れて「了解」とだけ返す。計画では俺が堂島の脚を軽く撃ち抜き、堂島が階段を踏み外して路地へ転がる。そこを車から仕留める段取りだった。俺は最後まで引鉄の出番がない可能性すらあった。保険の保険だ。

だが、その前に──青白い炎が、堂島に触れた。

次の瞬間、堂島の背中から、堂島自身の影の形に似た何かがもう一つ立ち上がった。炎が人の形を借りて、堂島の肉に重なっていた。堂島の煙草が手から落ちて、鉄の格子の上で跳ねた。彼は自分の胸に両手を当て、それから奇妙な角度で首を曲げて、笑ったように見えた。笑ったのではなかった。顎が外れかけていた。喉の奥から、空気が潰れるような、短い呻きが漏れた。犬が水を飲み損ねたときの音に似ていた。

「灰斗、何やってる。撃て」

撃てばいい。脚を狙えばいい。俺は引鉄に指をかけた。

撃った。

反動、発射音、湿った空気が一瞬だけ薄くなる感覚。弾道は外腿へ。外れていない。スコープの中で、俺の弾は堂島の大腿四頭筋の中央で青白い炎の輪郭を通過し、壁の向こうのコンクリートに火花を散らせた。

通過した。

堂島の身体は、撃たれなかった。

いや、弾は届かなかったのではない。届いたが、そこに「撃たれるべき肉」が無かった。青白い炎が、堂島を薄い幕のように覆い、その幕の内側で肉の座標がずれている。そう俺の目には見えた。俺は無意識に口の中で距離と風速をもう一度唱え直していた。百十七メートル、二メートル、北北西。数字は正しい。弾道も正しい。正しいのに、正しさの受け皿が、向こう側から一歩ずれて立っている。そのずれは、俺の計算機では割り切れない小数点だった。

指が勝手に動いていた。二発目、三発目。青白い炎の輪郭を、俺の弾は何度も通り抜け、向こう側のタイル壁を粉にした。堂島は立っている。笑ったような顎のまま、立っている。足裏が踊り場の鉄網を踏みしめる音だけが、ひどく乾いて聞こえた。

「灰斗!?」

イヤホンに仲間の怒鳴り声。

銃弾は通らない。

この三文字の事実が、俺の中に、雪のように静かに積もった。

俺は殺し屋だ。組織の教本も、先輩から盗んだ技術も、張り込みの三日三晩も、全部、弾が肉に入るという一点の上に立っていた。筋肉は裂け、骨は折れ、血管は破ける。その絶対の物理の上に、俺の最弱は何とかしがみついていた。張り込みの長さも、癖の観察も、呼吸の制御も、最後の一発が肉に吸い込まれることを前提にして初めて意味を持つ。その前提が、いま、音もなく抜け落ちた。

だがこの炎には、俺の物理が効かない。

指先が震えたまま止まらない。汗が目に入って染みる。瞬きで拭う暇がない。歯の根が噛み合わず、奥歯同士がかすかに鳴っていた。俺は自分の身体の音が、いつの間にか外側の夜より大きくなっていることに気付いて、喉の奥で息を押し殺した。呼吸の四分割が、途中で崩れた。崩れたのは、たぶん七歳の夏以来だった。

冷たかった。

これは、殺しの理屈の外側だ。

青白い炎が、スコープの中で、ゆっくりとこちらを向いた。堂島越しに、俺のいる八階の窓を、眼の穴二つが正確に捉えた。こんな距離で、こんな夜に、こんな薄闇で。俺の隠れ方は、完璧だったはずだった。風向きも死角も、入射角も、全部計算して伏せていた。それでも、あの眼は迷わず俺を拾った。見られる、ではなく、最初から知られていた、という感触だった。

喉の奥が、鉄の味になった。

そのときだった。

背後の鉄扉が、きしむ音も立てずに開いた。

階段は全部、俺が糸で飾り付けてある。踏めば鳴る。鳴らずに上ってこられる人間を、俺は一人しか知らない。

革靴の底が、砂を一粒踏んだ音。

「灰斗」

低い声。兄と呼んでいた男の声。

「動くな。こっち向くな」

スコープから目は離せない。中の青白い炎は、相変わらず俺を見ている。背後には、俺の後頭部に銃口を向けて近づく、俺より強い殺し屋がいる。前にも後ろにも、俺の知っている物理の外にいる何かと、俺の知りすぎている物理の内側にいる何かが、同時に立っていた。逃げ場は、ない。

イヤホンに、仲間のくぐもった咳払いと、安全装置の外れる硬い音が重なって聞こえた。

組織は、俺を口封じする気だ。

見てはいけないものを、俺は三分前に、見てしまっていた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ