第3話
第3話
紙は、止まった糸の先で、もう一度、細かく震えた。
俺は、瓦礫の隙間から、その紙を見ていた。首を動かすと、右の肩口から背中へ、鉄の棒を差し込まれるような痛みが抜けて、視界が一瞬、白く跳んだ。それでも俺は、紙から目を離さなかった。離したら、二度とこの世の縁を掴めない気がした。
血で滲んだメモの上で、鉛筆の文字がひとつずつ消えていった。「二本目で咳き込む」「袖口を見る」「右耳たぶを擦る」──三日三晩、俺がコンクリートの床に伏せて、呼吸を四つに分けて書き留めた、堂島という他人の生活の破片。その文字たちが、紙の繊維の底へ、水が砂に吸われるように沈んでいく。消えるのではなかった。潜っていくのだ。俺の字が、俺の字ではないものに変わりながら。
指先の糸が、脈打つたびに、紙の四隅が折れた。
折り線のない場所に、折り線が生まれた。一度目の折りで、紙は細長い短冊になった。二度目の折りで、真ん中に軸が通った。三度目で、左右に小さな突起が出た。腕のようだった。続いて、下側が二つに裂けた。切れ目ではない。紙が自分で、自分を二股に開いた。脚のようだった。折り目の一本一本が、俺の身体の芯で鳴る低い音と、歩調を合わせて刻まれていった。紙が折れる乾いた気配が、俺の鎖骨の下で、もう一度、反響していた。
人型だ、と俺はぼんやり思った。
紙が、人の形を、拙く、借りようとしている。
「灰斗、息してるか」
八階から、八雲の声が降ってきた。声の距離で、彼がいま窓枠の外側に身を乗り出しているのが分かった。もう一度転がれば、彼はもう一度撃つ。延髄を逸らさない、あの癖の角度で。
俺の手のひらの上で、紙の人型が、立ち上がった。
身長は、俺の指の節三つ分。肩の幅は、親指の爪ほど。形は、子どもが工作の時間に作ったような、ひどく不器用な人の形だった。輪郭は紙のままで、顔もない。ただ、胸のあたりに、鉛筆の文字の欠片がひとつだけ、沈みきらずに残っていた。「左袖口」──堂島の、あの癖の三文字。
紙の人型が、その三文字のある胸を、一度、自分の手で押さえた。
それは、堂島の仕草だった。
三日間、俺がスコープ越しに何百回と見た、堂島昭文という男の癖。煙草の灰を落とす前に、左の袖口を確かめる動作。指先を袖の内側へ滑り込ませ、布の縫い目を撫でてから、やっと灰皿を見る、あのぎこちない順序。俺が観察してきた他人の生活が、紙の三センチの身体で、いま、再生されていた。再生、という言葉が、瓦礫の暗がりの中でひどく奇妙に響いた。再生されるほど立派な生活ではなかった。煙草二本と、袖口と、耳たぶ。それだけの、他人の小さな生活。その小ささが、紙の人型の身体の小ささと、ぴったり釣り合っていた。
喉の奥で、血の味がまた濃くなった。
俺の身体の中を通っている冷たい糸が、その瞬間、ひときわ強く脈打った。糸は背骨から鎖骨へ、鎖骨から右腕へ、右腕から指先へ、そこで紙の人型の足元に繋がっていた。見える糸ではなかった。ただ、俺の身体の熱が、一定の太さで、抜かれていく感覚だった。冷たいのに、熱が抜けていく。肺の奥に残っていた最後の酸素が、糸を伝って、紙の人型の胸の三文字へ、一滴ずつ、運ばれていく。一滴、また一滴。俺の肋骨の内側で、水位が下がっていく音が、はっきりと聞こえた。
編んでいる、と、俺は思った。
指三本の、意味の分からない形。血で滲んだメモ。三日間の観察。壊れた肋骨の下で押し潰されかけた肺。それらを、糸が、一本の束に編み込んでいく。俺の中の「ずっと保険の保険だった男」が、保険ではない側の仕事を、生まれて初めてしている。
頭上で、金属が擦れる音がした。
八雲が、窓枠の向こうで、銃を構え直した音だ。彼は俺の呼吸の気配を、八階の高さから拾える男だった。俺が息をした。それだけで、彼は俺の生存を確認する。
二発目が、来る。
「悪いな、灰斗」
声は、優しかった。寝かしつけるときの、あの声のままで。その優しさが、俺の耳の奥に、薄い氷を張った。怒鳴られるより、詫びられるほうが、ずっと遠くへ押しやられる感じがした。
俺は逃げられない。瓦礫の下で、右肩は潰れ、肋骨は折れ、指はもう動かない。動かないはずだった。動かないのに──俺の右手の三本の指が、紙の人型の足元を、すっと、押し上げた。
紙の人型は、跳ねた。
跳ねる、というより、糸に引かれて、俺の胸の上に、ふわりと立った。小指の先ほどの身体が、瓦礫の暗がりの中で、白く浮いた。
発射音。
二発目は、俺のこめかみを狙っていた。八雲は外さない。外さないはずだった。
紙の人型が、俺のこめかみの前に、身体ごと差し込まれた。
音は、聞こえなかった。
弾は、紙の人型の胸の「左袖口」の三文字に、当たった。当たった瞬間、紙は燃えずに、砕けずに、ただ、ほどけた。三日間、俺が観察した堂島の癖の束が、一本ずつ、夜の空気の中に解けていった。袖口を撫でる指の記憶、煙草の灰を落とす前の半秒、耳たぶを擦る癖、咳き込みの拍──俺の鉛筆の字で書き留めた他人の生活が、弾の熱で、ほどけて、散った。
ほどけ終わった糸が、俺のこめかみの前で、最後に一度だけ、紙の縁の形を宙に残した。
そして、消えた。
俺のこめかみには、何も、届かなかった。
冷たい糸の脈が、ひとつ、飛んだ。
背骨の真ん中で、何かが、折れたわけではなく、使い切られた。三日間の張り込みの記憶、堂島の癖のノート、指三本の意味の分からない形、そして、俺の身体の奥に一本だけ通っていた、生まれて初めての冷たい道。そのすべてが、紙一枚ぶんの命と引き換えに、ここで、空になった。
瓦礫の下で、俺は笑ったような気がした。
最弱が、最弱のやり方で、いま、最弱の誰かを守った。守ったのが他人ではなく、紙一枚だったことが、俺にはひどく正しく思えた。俺は他人を守ったことがない。守り方を、誰にも教わらなかった。だから、紙一枚を先に守らせてもらう。順番としては、そのくらいが、身の丈に合っている。
頭上で、八雲が何か言った。言葉は、もう、俺の耳まで届かなかった。
視界の周辺から、夜の歌舞伎町のネオンが、一枚ずつ剥がれていった。ラブホテルの赤、パチンコ屋の黄、ドラッグストアの緑。色の層が、薄くなっていく。最後に残った青白い炎の眼の穴が、八階の窓枠で、俺をじっと見下ろしていた。あの眼だけが、色を失わなかった。
息が、浅くなった。
瓦礫の匂いが、遠くなった。鉄筋の錆、コンクリートの粉、俺自身の血の鉄の味、その全部が、膜を一枚隔てた向こうに行った。耳の奥の脈の音も、遠くから砂をかける程度の響きに細っていった。
──そうか、俺は、ここで。
意識が、縁から欠けはじめた。
欠けはじめた縁の、向こうから、足音が聞こえた。
革靴でも、運動靴でも、ヒールでもなかった。乾いた砂利を踏む、硬い、低い音。草履だ、と、欠けかけの意識のどこかが、妙に冷静に判別した。歌舞伎町の裏手の瓦礫の山に、草履の足音は、合わない。合わないはずなのに、その音だけが、夜のどの音よりも、はっきりと、俺の鼓膜の底に届いた。
足音は、瓦礫の山の縁で、一度、止まった。
誰かが、屈んだ。
俺の視界の隅に、白い裾が入った。雪の色、というより、湯上がりの和紙の色だった。袷の、長い着物。裾の内側が、ほんの一瞬だけ、濃い朱色を覗かせた。屈んだ拍子に、袂が瓦礫のコンクリート片の上を擦って、音が立たなかった。擦れたのに、鳴らなかった。鳴らないことが、八雲の歩き方と同じで、けれど、八雲のそれとは違う種類の静けさだった。殺すための静けさではなく、何かを掬い上げるための静けさだった。
白い手が、瓦礫の欠片を、ひとつ、退けた。
欠片は、女の手に、重さを持っていないみたいに吸い寄せられた。二つ目、三つ目。瓦礫の山が、俺の胸の上から、音もなく、層になって剥がれていく。剥がれるたびに、俺の肺に、夜の冷たい空気が、薄く、ひと筋ずつ戻ってきた。
女の顔が、俺の上に落ちてきた影になった。
俺はもう、目を開けていられなかった。瞼の裏で、彼女の輪郭だけを、最後に一度、受け止めた。
細い声が、ひとつ、俺の名前ではない名前で、俺を呼んだ。
「──編み手」
草履の持ち主は、俺の指三本に、自分の指先を、そっと、重ねた。