第2話
第2話
枝道に入ってから、四半刻ほどが経っていた。
霜の溶け残った下草が長靴の裏で潰れ、湿った土の匂いが立ち昇る。リュウは数歩ごとに足を止め、指先を地面に近づけて空気の流れを確かめた。気配詠みが鳴いている方角は、北西。ボロ山脈第二層、薬草群生地より一段高い岩棚——五年前に一度だけ立ち寄った、苔と岩肌しかない不毛な場所だ。
「妙だな」
短剣の柄を握り直す。あの場所に獲物の気配が立つはずがない。岩鼠も飛甲虫も、ろくな餌のない斜面にはつかない。それでも気配詠みは鳴り止まず、頭蓋の奥で細い糸を一本だけ引かれているような感覚が続いていた。糸の先は岩棚を越え、もっと深い場所へ伸びている。耳鳴りに似ているが、音ではない。鼓膜ではなく、もっと奥、後頭部の骨の内側を誰かが小さな爪で引っ掻いているような、そんな種類の震えだった。五年の間、これほど執拗に鳴く詠みを、リュウは一度も経験したことがない。
夜明けが本格的に山肌を撫で始める頃、第一層の入口を抜けた。冒険者ギルドが整備した木製の手すりは半ば朽ちていて、新米の頃に握った位置とまったく同じ場所が、革の脂で黒く光っている。五年ぶりに触れた手すりは、思ったより細かった。あの頃の自分の手は、もっと小さかったのか。
第二層へ降りる斜面で、岩蜥蜴の薄い脱皮殻を一枚拾う。鱗の縁が褪せ、もう薬効はない。それでも腰袋に収めた。手ぶらで戻るわけにはいかない。
群生地の岩棚に出たのは、太陽が真上に届く少し前のことだった。
岩棚は、記憶のままだった。
灰色の崖面に張り付くように、銀緑の薬草が幾筋も垂れている。ヒビの入った岩盤の隙間から染み出す山水が、苔の絨毯を絶えず濡らしていた。リュウは靴底で苔の固さを確かめながら、慎重に縁へ寄る。指先で銀緑の葉を一枚ちぎり、断面を鼻先に近づけた。樟脳に似た、鼻の奥を刺す香り——間違いなく上物の傷薬の素材だ。
腰の麻袋を広げ、刈り取りに取りかかる。三十枚、五十枚、百枚。指の腹が薬草の汁で青く染まり、爪の隙間に苦い匂いが入り込んでいく。日が昇るにつれて岩肌が温まり、背中の汗がじわりと滲み始めた。視界の端で、苔の表面を小さな水滴が転がっていく。崖の向こうで鷹らしき鳥が一度だけ長く鳴き、やがて遠ざかっていった。風は弱い。枝を揺らす音も、下草を抜ける獣の足音もない。山がまるで、息を殺して何かを待っているようだった。リュウはその沈黙に、若い頃なら気づかなかっただろう違和感を覚える。五年の追放生活が、彼の皮膚に余計な感度を刻み付けていた。
採取を再開してから半刻ほど経った頃、気配詠みがまた鳴いた。
今度は弱くない。岩棚の真下、足元の岩盤の向こう側——縦に長く、細く、深い。山の腹を縫うように下へ伸びていく筋。リュウはしゃがみ込み、苔をめくった。
岩盤に、亀裂が走っていた。
幅は人の拳ほど。前回来たときには確かになかった。記憶違いではない、彼は自分の帳面を信じる。指を差し込むと、内側から微かに冷たい風が吹き上げてきた。乾いた石の匂いと、それに混ざって——鉄錆のような、あるいは古い血のような、奇妙な甘さ。舌の付け根に金属の味が滲む。
「……瘴気か」
呟きは亀裂の底に吸い込まれ、返事はなかった。風は絶え間なく上へと流れ続け、亀裂の奥にある空間が、この岩棚よりも遥かに広いことを物語っていた。リュウは反射的に半歩退こうとした。その足が、地面を捉えきれなかった。
判断する間もなく、足元の苔が一気に崩れた。
水を吸いすぎていたのだ。リュウの体重が、薄い苔の層を境に、岩盤と切り離されていた。短剣を岩肌に突き立てる暇もなく、視界が縦に流れる。後頭部が何かに激突し、白い火花が瞼の裏で散った。
落ちる。
肩、腰、膝の順で、岩の角が体を打った。装備袋の紐が肩から外れ、麻袋の薬草が宙に散る。銀緑の葉が螺旋を描きながら暗闇に吸い込まれ、一瞬だけ、リュウの視界で星のように光って消えた。気配詠みの細い糸が、落下に合わせて伸び切り、ぷつりと切れた。代わりに耳の奥で、自分の心拍だけが響いた。五年前、最前線で壁に叩きつけられたときと同じ音だ。死ぬな、とどこかで誰かの声がした。仲間だったか、自分だったか、それすらもう思い出せない。
どれほど落ちたかわからない。三秒か、五秒か。
体が止まったのは、湿った砂の上だった。
肺の空気を全部吐き出して、しばらく動けなかった。
仰向けのまま天井を見上げると、自分が落ちてきた裂け目が、頭上はるか彼方で細い線になっていた。陽光は届いていない。代わりに、空間そのものがぼんやりと青白く光っている。リュウは息を整え、ゆっくりと体を起こした。肋骨に鈍い痛み、左の手のひらに切り傷。砂が傷口に張り付き、ひりひりとした熱を持つ。立てる。歩ける。骨は折れていない。
短剣はまだ腰の鞘に残っていた。それだけが、唯一の救いだった。
身を起こして周囲を見渡し——息を呑んだ。
ここは、ダンジョンではなかった。少なくとも、ギルドが地図に記した「ボロ山脈」のどの階層でもない。空間は円形に近く、直径は二十歩ほど。壁は黒い玄武岩のような質感で、表面に細かな文様が刻まれている。文様は青白く発光し、その光が空気そのものを照らしていた。床は乾いた砂と、ところどころに散らばる白い小石——よく見ると、それは小石ではなく、何か小動物の骨片のようだった。指先で拾い上げた一片は、思ったよりも軽く、表面がつるりと磨かれていた。風化ではない。誰かが、あるいは何かが、長い時間をかけて意図的に擦り減らしたような滑らかさだった。リュウは静かにそれを砂へ戻した。
そして、空間の中央に、それは在った。
石造りの祭壇。高さはリュウの腰ほど。表面には古い血の跡を思わせる赤黒い染みが幾重にも重なり、長い年月を経ていることが一目でわかる。祭壇の上には、革張りの分厚い書物が一冊、置かれていた。
リュウは短剣を抜き、慎重に近づいた。床を踏むたび、砂が乾いた音を立てた。耳の奥で自分の唾を飲む音まで聞こえる。それほど、この空間は静かだった。呼吸を浅くしても、吐いた息が壁の文様に触れるたび、青白い光がほんの僅かに脈打つように見えた。気のせいだと自分に言い聞かせたが、二歩進むごとにその脈動ははっきりと視認できるようになっていく。この空間は、生きているのではないか——そんな馬鹿げた直感が、背骨を這い上がってきた。
書物の革は黒く、表紙に紋章が一つ。円の中に、目を模した意匠と、その下に三本の鉤爪。冒険者学校で習ったどの国家紋章とも、どの神殿の印とも違う。装飾の一つもない、ただ機能だけを刻んだ印。だが、見ているだけで眼球の奥が痺れるような感覚があった。
瘴気の濃度はここで最も濃い。鼻を覆っても、舌の根に金属の味が広がる。長居すべきではない。直感がそう告げた。だが、足が動かなかった。
彼の目は、書物の紋章から離れない。
「……お前、何だ」
問いかけても、返答があるはずもなかった。リュウは短剣を逆手に持ち替え、もう片方の手をゆっくりと書物に伸ばす。指先がまだ革に触れていないのに、掌の皮膚がじりじりと熱を持ち始めた。
止めろ、と頭の中で誰かが言った。それが自分の声か、書物の声か、判別がつかなかった。
指先が、革の表面に触れた。
衝撃はなかった。
ただ、視界の右端に、半透明の頁が一枚、ふわりと浮かび上がった。
紙ではない。光だ。光で出来た頁が、彼の眼前にだけ展開している。文字は読めない。古い符牒のような、植物の蔓のような、そういう模様が頁の縁を縫っていた。中央には空欄が一つ。下部には、何かを待つように脈打つ細い線が走っている。
リュウは指を引っ込めようとした。動かなかった。革に触れた指先が、磁石のように吸い付いて離れない。
頁の縁が、ゆっくりと光を強め始めた。
ボロ山脈の地図にも、誰の冒険記にも記されていない祭壇の上で、二十八歳の追放冒険者は、自分の意思とは無関係に、何かと契約を結ばされようとしていた。