第3話
第3話
指先の熱が、腕の内側を伝って肘まで駆け上がった。
リュウは奥歯を噛み、革の表面から指を引き剥がそうとした。離れない。関節を後ろに引いても、肩を捻っても、指先と書物の間に隙間が生まれない。吸い付いているのではない。指先と革が、ひとつの物体として融け始めている。
視界の右端に浮かんだ半透明の頁が、脈打つ速度を上げた。縁の植物模様がほどけ、中央の空欄が黒く沈む。黒の底から、細い線が這い上がってきた。文字だ。リュウが一度も見たことのない文字が、空欄を縫うように走り、また別の文字が追いかけて、重なり、解け、新しい形を結んでいく。
「……何だ、これは」
呟いた瞬間、黒曜石の壁に刻まれた文様が一斉に脈動した。青白い光が天井まで駆け上り、空間そのものを一つの心臓のように鼓動させる。祭壇の表面で古い血痕が蒸発するように揺らぎ、薄い霧が革表紙の縁から立ち上った。リュウは息を詰めた。瘴気の金属臭に、焦げた薬草めいた甘さが混ざる。舌先が痺れ、膝の裏がかすかに震える。逃げたい、と皮膚が叫ぶ。しかし足の裏は砂に縫い付けられたように動かない。
頁の中央に、最初の行が結晶した。
読めるはずのない符牒だった。それなのに、眼球の奥から意味が染み出してくる。文字の形を認識するより先に、脳にその内容が直接刻まれていく。登録。視認。記載。借用。四つの言葉が繋がり、切れ、繋がり直す。
そしてようやく、指先が革から外れた。
反動で後ろへ倒れそうになるのを、踵で堪える。掌を見下ろすと、指先の腹に小さな痣のようなものが残っていた。円と、目と、三本の鉤爪。書物の表紙と同じ紋章が、皮膚の下で青白く沈殿している。
祭壇から一歩退く。頁は消えない。リュウの視線の移動に合わせて、宙に貼り付いたまま動いてくる。二歩、三歩と下がっても、頁は必ず視界の右端に居座っていた。
「……ついてきやがる」
声に出してみて、喉の奥の乾きに気付いた。腰の水袋を取ろうとして、右手がまだ痺れていることを思い出す。左手で栓を抜き、一口だけ飲んだ。冷たい水が食道を降りていく感覚で、かろうじて現実に繋ぎ止められた。水袋の革紐を結び直すとき、指が微かに震えているのを、自分でも認めざるを得なかった。
頁の左上に、新しい行が生まれている。
《モンスター図鑑》
題字だと、直感が告げた。その下に、やや小さな文字で補足が続く。視認した生き物の情報を頁に記載する。登録された生き物からスキルを一つ借用する。借用は切り替え可能。制限事項——。
制限の項は、墨が乾かないように震え続けている。まだ定まっていないのか、あるいは読み手に応じて条文が書き換わるのか。リュウは目を細めた。冒険者学校で魔導具を齧った程度の知識しかないが、これが尋常な遺物でないことだけは骨身に沁みた。国家宝物庫の奥でも、こんな物は見たことがない。
視認した生き物の情報。
その一文を、もう一度読み返す。
試しに、祭壇の脇に落ちていた骨片を見た。頁の下半分が揺らぎ、新たな行が結晶する。
《種別、小型齧歯獣の残骸》 《状態、死亡後、百年を超える風化》 《特記、本階層に生息していた過去なし。外部から持ち込まれたもの》
背筋に冷たいものが走った。リュウは骨片を拾い上げ、頁の記述と交互に見比べる。外部から持ち込まれた——誰かが、あるいは何かが、この空間に獣の骸を運び込んだ。それを図鑑は、ただ一瞥で見抜いた。骨片の関節の継ぎ目には、指先で擦っても落ちない赤黒い粉が詰まっている。血の名残か、それとも別の何か。嗅いでみても、もはや匂いは残っていなかった。百年の風化とは、そういうことなのだろう。
次に、壁の黒曜石に視線を投げた。
《対象、構造体》 《記載不可、『所有者』の領域》
短い拒絶の二行だけが浮かび、すぐに霧散した。リュウは唇を結ぶ。祭壇も、壁の文様も、この図鑑の主の持ち物ということか。ならば自分は今、誰の領地に落ちてきたのか。背中を汗がひとすじ流れ、腰帯の内側に染みて消えた。
頁の隅で、小さな光点が瞬いた。借用、の項が脈打っている。リュウは指先の痣にそっと触れた。皮膚の下で、円と目と鉤爪が応えるように熱を持つ。脈の一打ごとに、紋章が青白く明滅しているのがわかる。自分の心臓と、この痣とが、すでに同じ拍を刻み始めていた。
試せ、と何かが囁いた。
山の浅い階層で、岩蜥蜴には何十度も出会った。十七の頃、単独で初めて仕留めた相手でもある。鱗の重なりも、舌の伸びる速さも、瞼の薄さまで覚えている。リュウは瞼を閉じ、その姿を脳裏に描いた。日の当たる岩棚で甲羅干しをするあの尾の揺れ、近付く足音を察知した瞬間に岩そのものへ溶けていく皮膚の艶まで、一枚の絵として呼び起こす。
頁が、応えた。
《岩蜥蜴、登録済》 《記載、体色変化による岩肌擬態。周囲の光と温度に皮膚色素が同調する》 《借用可能スキル、擬態》
リュウは息を整えた。
祭壇から離れ、円形空間の端まで歩く。黒曜石の壁に背を預け、右の掌を岩肌に押し当てた。岩は指先より冷たく、微細な凹凸が皮膚に食い込んでくる。心拍が一度、喉元で跳ねた。
「借用、擬態」
口にした瞬間、頁が閃いた。
右腕の肘から先が、かっと熱を持った。痛みではない。体温が一瞬だけ沸騰し、次の瞬間には失われていく感覚。血管を流れる液体が、一度だけ別の温度に入れ替わり、また元へ戻る——そんな錯覚。リュウは視線を下ろし、自分の前腕を見た。
見えなかった。
いや、正確に言えば——腕の輪郭はあるのに、表面が消えていた。皮膚の色が黒曜石の艶に溶け、指の関節の溝が壁の凹凸と同じ模様を描き、爪の縁が岩の鉱脈を写し取っている。壁に押し当てた掌が、もはや掌であることをやめていた。そこにあるのは、岩の一部として振る舞う、リュウだったものだ。
「……嘘だろ」
声が乾いた。
試しに、指を一本だけ曲げた。岩肌の模様がわずかに歪み、凹凸が指の屈曲に合わせて動いた。壁から腕を離すと、表皮の色は徐々に本来の肌色へ戻っていく。岩が剥がれ、人間が戻ってきた。戻る速度は、湯気が薄れていくのに似ていた。
震えが、肘から肩へ駆け上がった。恐怖ではない。もっと熱い、得体の知れない何か。五年前、最初の魔物を仕留めた夜、焚火の前で短剣の刃を舐めるように眺めたときと同じ種類の熱だった。あの頃、自分はまだ十七歳で、世界の底が分厚い岩盤でできていると信じていた。いま、その岩盤に亀裂が走った。亀裂の向こう側に何があるのか、まだ覗き込む度胸はない。それでも足指は、覗き込みたい方向へ僅かに力んでいた。
もう一度、試した。
今度は壁から離れた場所で、左手を握り、こぶしを砂の上に置く。脳裏に岩蜥蜴の姿を描き、心の中で唱える。擬態。
左のこぶしが、砂の色と質感に変わった。表面に小さな石粒の光沢まで浮き、手首から先だけが風景に吸い込まれて消える。リュウは砂を指で掬おうとした。指先が砂を掬ったのか、砂が指先を掬ったのか、瞬時には判別できなかった。境界という概念が、薄紙のように剥がれていく感覚。
借用は切り替え可能、と頁は書いていた。
では、解除は。
心の中で、擬態、と唱えるのをやめる。それだけで、左手は本来の姿を取り戻した。爪の間の血の黒い汚れも、親指の古傷も、すべて元通りだった。リュウは両手を持ち上げ、長い息を吐いた。掌の皮膚の下で、紋章の痣が微かに脈を打っている。心拍と一致していた。
一つ、理解した。
この図鑑は、魔物の姿を写し取るのではない。魔物が生きるために磨いた「技」を、借りてくる。岩蜥蜴は敵から身を隠すために擬態を進化させた。その進化の果実だけを、リュウは今、自分の腕に載せている。何百万年分の生存の知恵を、一言の呟きで剥ぎ取って纏う——そう考えた瞬間、背筋にまた別種の震えが走った。畏れに近い何かだった。
頁の下端で、制限の項が一つ、結晶した。
《同時に借用できるスキルは一つ。切り替え時には短い空白が生じる》
ぼんやりと、その一行を眺める。空白。その言葉が、冒険者の命を奪う長さなのか、まばたき程度の短さなのか、今はまだわからない。戦闘のさなかで試す訳にはいかない類の未知だ、とだけ自分に言い聞かせた。
リュウは祭壇の書物にもう一度近づき、今度は指先ではなく、視線だけで対峙した。
黒革の紋章が、呼応するように微かに明滅する。頁はまだ彼の視界の端に貼り付いたままだ。閉じる方法はわからない。だが、瞼を強く閉じれば像が薄れることに気付いた。封じることはできないが、隠すことはできる——人の前で、この光を見せずに済む程度には。
短剣の柄を握り直す。
この遺物を誰かに知られてはならない、と直感が告げていた。蒼穹の剣。カイゼル。ギルドの高官。国家の監察官。知れば欲する者は後を絶たない。五年前の自分なら、仲間と分かち合う物だと信じたかもしれない。今は違う。谷の底まで突き落とされた身体が、まだその裏切りの冷たさを覚えている。
祭壇の奥、空間の端に、新たな気配があった。気配詠みが、再び鳴り始めている。今度は上ではなく、横——未踏の通路が、黒曜石の壁の影に口を開けていた。
帰り道を探すのが先だ、と頭のどこかが言った。だが足は、通路の闇へ向かって半歩、踏み出していた。指先の紋章が、熱を増す。