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黒縁の図鑑使い、追放されてS級へ

第1話 第1話

第1話

第1話

討伐報酬の明細書は、握り締めた拳の中で皺だらけになっていた。

 リュウは酒場の奥まった席で、ゆっくりと紙片を広げる。獣脂のランタンが淡い光を落とし、黒いインクの数字列をぼんやり浮かび上がらせた。百二十三枚の金貨——五年の血と汗の総計だったはずの額から、太い横線が一本引かれている。分配欄の下端、彼の名前の横には「脱退に伴う違約調整」と小さな文字で書かれ、残額は金貨二枚と銅貨三枚だった。

 索敵料は違約で帳消しか、と声に出さず呟く。隣の卓では酔った行商人が下品な笑い声を上げ、暖炉の薪が爆ぜた。肉の焼ける匂いに、鉄錆のような血の匂いが混ざっている。昼間の討伐で腰帯に染みついた獣の臭気だ。鼻先にまとわりつくその臭いは、洗っても三日は消えない種類のものだった。革の表面に染み込んだ脂が、ランタンの熱を吸って、じんわりと酸い匂いを立ち昇らせている。

「蒼穹の剣」は今朝、この街の広場で祝勝挙兵を行った。リュウを除いた四人で。貴族出身の魔術師カイゼルが新たに加わり、リュウの代わりに前線へ出ることになった。

「泥臭い索敵役はもう不要だよ、リュウさん。うちの家の解析魔法があれば、罠も気配も数値で見える。貴方の指差し確認はもう古い」

 二十歳そこそこの青年が、ギルドの応接室でそう言ったのはつい三時間前のこと。剣士ガイルも、盾役のノーマンも、治癒師エリスも、誰一人言葉を挟まなかった。五年前、三層すら越えられずに泣き言を吐いていた連中の顔を、リュウはただじっと眺めていた。エリスの目線は足元の絨毯の縫い目を追い、ノーマンは窓の外の鳩を見ていた。ガイルだけが鼻で笑い、腕組みのまま壁に背を預けていた。

 酒場の床はべたついている。昼にこぼれた麦酒が乾ききらないうちに、今夜の酔客が次の滴を落としていく。革ブーツがわずかに床板に吸い付き、椅子を引く音だけがやけに鈍く響いた。

 リュウは二十八歳。この街「ガラ湖畔」で冒険者として名を上げ、S級の階梯に手が届いたのがちょうど去年のことだ。索敵スキル『気配詠み』は、幼少期に森番の祖父から叩き込まれた山野の感覚と、冒険者学校で磨いた魔導技術の合成だった。罠の向き、魔物の呼吸間隔、床石の微細な沈み方——そのすべてを五年間、仲間に無償で提供してきた。

 あいつらが踏み抜かなかった落とし穴は、何個だったかな。数えるのをやめる。数えたところで、帰ってこない歳月の名簿にしかならない。

「もう一杯だ」

 呼びかけても、配膳女は聞こえないふりをした。その視線が一度だけこちらを掠めて、慌てて別の卓の注文を取りに駆けていく。噂はもう回ったらしい。足元には装備袋が転がり、中身が少し零れ出している。使い古しの短剣、端の擦り切れた羊皮地図、折れた矢。ほとんど価値のない残骸ばかりだ。上等な魔導弓も革鎧も、ギルドから支給された共有装備としてパーティに巻き上げられた。

「あの弓、貴公子様の杖の足しにするらしいぜ」

 隣の席で誰かが呟いたのは、幻聴だったかもしれない。リュウは短剣の柄を指でなぞる。刃こぼれ三箇所、鞘の留め金が一つ欠けていた。この一本と、懐の小銭。二十八歳の男が積み上げた資産は、それだけだった。指の腹に伝わる柄巻きの革は、手汗で黒く変色し、端がほつれている。祖父が死ぬ前に手渡してくれた小刀だった。

 カウンターの奥で、店主のドルガが太い腕を組んで眺めている。三年前、ドルガの娘を地下水路の魔鼠から助けた礼として、この席だけは年中無料という暗黙の取り決めがあった。ドルガは何も言わない。言葉にすれば、この男の矜恃が崩れることを知っているからだ。白髪混じりの髭の奥で、唇が一度だけ動きかけ、そして止まった。

 リュウは明細書を四つに畳み、懐に押し込んだ。破り捨てなかったのは、怒りのためではない。忘れないためだった。

 卓上の木皿に、黒麦パンの欠片が二つ残っている。手に取り、口の中で噛み砕いた。塩気だけが舌の奥を刺し、粉が喉に絡んで咳が出そうになる。水を飲むことを忘れていた。パンは粗く、顎の筋肉を強張らせた。乾いた粉が歯の隙間に詰まり、舌で押し出そうとするたびに、口の中の水分だけが奪われていく。

 明日、何を喰うか。

 考えなければならなかった。街の宿屋は一泊銅貨八枚。食費に銅貨三枚。手持ちでは五日ももつかどうか。しかも五日過ごせば、借金取りのような視線で街中を歩くことになる。S級の看板を剥がされた男に、甘い斡旋は来ない。ギルドの掲示板は毎朝、蒼穹の剣の名前で埋まるだろう。自分の席がどこにもないことを、街の石畳が一歩ごとに教えてくる。

 選択肢は、一つしかなかった。

 潜る。魔物を狩り、素材を売り、金に換える。それだけが、この男に残された生業だ。

 ボロ山脈——ガラ湖畔から徒歩半日、冒険者が最初に通う使い古しのダンジョン群。浅層三層までは新米の庭、四層から先はB級以上の領分とされる。リュウが十七の頃、初めて単独で岩蜥蜴を仕留めた場所でもあった。

 装備の貧弱な今の彼にとって、慣れ親しんだ山は唯一の勝算だった。罠の位置も、水場も、退避ルートも、目を閉じて描ける。五年間、他の連中は派手な中央山脈ばかり追いかけたが、リュウは休養と称してボロ山脈に通い続けた。あの山に眠る薬草の群生地を、彼は自分だけの帳面に記している。頁の端は指脂で黒ずみ、雨に濡れた跡が何箇所もある。その一冊だけは、装備袋の底の防水布に包んで、誰にも触らせたことがなかった。

「——行くのか」

 ドルガが初めて声を発した。リュウは席を立ち、装備袋の紐を結び直していた。

「明朝、三時に出る。戻りは明後日の夕刻予定。戻らなけりゃ、ギルドへの届け出は頼む」

「無茶はするな」

「無茶しなきゃ喰っていけねえんだよ、爺さん」

 ドルガの無骨な手が、木皿に干し肉の塊を一つ、無言で乗せた。塩で白く吹いた豚肉の切れ端だ。リュウは礼を言わず、ただそれを油紙に包んで懐に仕舞う。言葉にすれば、この店主の情けが軽くなる。油紙越しにも、肉の塩と脂の重みが胸元にじんと伝わってくる。喉の奥で、何かが一度だけ小さく鳴った。

 外は凍えるような春の夜だった。石畳は湿り、馬糞と麦酒の匂いがまだ残っている。宿屋ではなく、ギルド裏の共同倉庫で仮眠を取ることにした。銅貨が惜しかった。倉庫番の老婆は顔馴染みで、隅の藁束に潜り込むことを黙認してくれる。

 藁の上で横になると、天井の梁に蜘蛛の巣が揺れていた。乾いた木の匂い、少し湿った藁の匂い、遠くで響く酔客の喚き声。リュウは右腕を持ち上げ、手の甲をじっと見た。爪の間に魔獣の血が黒く残っている。洗う時間がなかった。親指の付け根の古傷は、六層の石戸に挟まれた夜に出来たものだ。あの時、詠唱を終えたエリスの治癒がなければ、腕ごと失っていた。その借りは、もう返す必要はない。

 索敵役はもう不要、か。

 カイゼルの気取った声が、耳の奥で反響する。貴族の解析魔法は確かに強力だ。だが魔法には詠唱時間がある。気配詠みのような即応性はない。四層、五層、六層と深度が増すほど、零コンマ一秒の遅延が命取りになる——それをあいつらに教えたのは、いったい誰だったか。

 教えた相手に、追い出された。

 リュウは目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、倒した魔物の顔ではなく、笑いながら背中を向けていったガイルの後ろ姿だった。あの赤い外套の裾が、応接室の扉の向こうへ消えていく瞬間、誰も振り返らなかった。五年の絆とやらは、木戸一枚分の厚みもなかったらしい。

 覚えておけ、と小さく呟いた。誰にも聞こえない声だった。

「追い出されたのは俺じゃねえ。お前らが手放したんだ」

 夜明け前、街の門はまだ閉ざされている。リュウは裏手の裂け目をくぐり、石畳を外れて土の道へ踏み出した。

 霜の降りた草を踏む感触。肺に流れ込む、湿った土と松脂の匂い。ボロ山脈の稜線は、夜の藍と朝の橙が溶け合う空の下で黒く沈んでいた。吐いた息は白く、夜明け前の青い空気に溶けて散る。指先は悴み、短剣の柄を握るだけで関節が軋んだ。それでも、五年ぶりに一人で踏み出す朝の匂いは、驚くほど澄んでいた。

 彼は短剣の柄を握り直し、歩みを早める。目指すは第二層、薬草群生地——のはずだった。ふと、足が止まる。いつもの尾根道ではなく、北側の枝道へ曲がりたくなった。なぜかはわからない。ただ、指先がそう示した。

 気配詠みが、かすかに鳴っている。

 彼にしか聞こえない、山の底から這い上がってくる低い音が、一度だけ。

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