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素手縛りの無拳 ――数字に映らぬ拳で攻略を踏み潰す

第2話 第2話

第2話

第2話

追放から二週間が経った。

何も変わっていない。朝ログインして、フィールドに出て、拳を振る。日が暮れたら街に戻り、消耗品だけ補充して、また出る。ギルドに所属していた頃と違うのは、チャット欄が静かになったことくらいだ。

むしろ快適だった。

イグニス渓谷の奥、溶岩洞窟の最深部。Lv260帯のモンスターが密集する狩場を、俺は一人で回していた。空気そのものが熱を持っている。吸い込むたびに肺の奥が焼けるような感覚があり、視界の端では常に赤い光が脈打っている。足元の岩盤からも熱が這い上がってきて、薄い布靴の底を通して足裏が痛む。それでも慣れた。三年もいれば、この灼熱すら体温の一部になる。《溶岩蜥蜴》の群れが三体同時に飛びかかってくる。左の個体の突進を半身でかわし、右の個体の尾撃を踏みつけて跳躍、真上から中央の個体の頭蓋に踵を落とす。硬い鱗が砕ける振動が足裏から脛まで駆け上がる。着地と同時に左へ回し蹴り。連撃が噛み合うと、素手でも範囲殲滅ができる。

三体が同時に砕け散った。経験値のログが流れる。

「……よし」

素手スキルの経験値バーを確認する。上位技《掌打・穿》の熟練度はとっくにカンストしている。問題はその先——スキルツリー最深部の、あの暗闘だ。二週間前に一瞬だけ脈動して以来、沈黙を保ったまま。だが経験値は確実に溜まっている。解放条件がわからない以上、殴り続けるしかない。

次の群れを探して洞窟を進む。足元の溶岩流が不気味に光り、壁面に自分の影が揺れる。天井から垂れた鍾乳石の隙間を熱風が吹き抜け、低い笛のような音が鳴り続けている。ここまで潜ると他のプレイヤーには滅多に会わない。効率で言えばもっと適正レベルの狩場があるし、そもそも素手でここに来る人間がいない。

だから気づかなかった。

見られていたことに。

——

異変に気づいたのは、街に戻った時だった。

NPCの露店で回復アイテムを買い込んでいると、すれ違ったプレイヤーが二人、こちらを見て笑った。小声だったが、VRの聴覚補正で拾えた。

「あれじゃね? 素手の人」

「マジだ。ほんとに布服じゃん」

視線が刺さる。一人や二人じゃない。街を歩くだけで、ちらちらと横目が飛んでくる。二週間前までこんなことはなかった。俺は誰にも認識されていなかったはずだ。

メニューを開き、ゲーム内ブラウザを立ち上げた。EAOの配信プラットフォーム《Abyssal Live》のトレンドを確認する。

一位に、俺の顔があった。

『【EAO】素手縛り3年の廃人、ギルド追放されてもまだ素手www【切り抜き】』

配信者名、ミコト。フォロワー数82万。EAOの人気実況者で、プレイヤー間の話題をエンタメに変換するのが得意な——要するに、他人を飯の種にする類の配信者だ。

サムネイルは俺が溶岩洞窟で蜥蜴を殴っている場面。いつ撮られた。透明化スキルか、あるいは遠距離からの望遠か。どちらにせよ、盗撮だ。

再生した。

ミコトの声が軽快に響く。赤みがかった髪をサイドに流した女性アバター。表情がやたら豊かで、視聴者の感情を誘導するのが上手い。

『はい来ました、伝説の素手芸人こと灰堂レンさんです! 元《聖剣騎士団》所属、追放理由は——なんと貢献度ゼロ! いやね、見てくださいこの装備欄。武器なし、防具は初期の布服。レベル287でこれ。逆にすごくない?』

画面が切り替わり、俺の戦闘シーンが流れる。ヴォルガノスをソロ撃破した映像だ。いつの間に——あの時、誰かが近くにいたのか。

『確かに動きはヤバいんですよ。回避も判断もトップ層。でもね、ダメージ見てください。はい、340。さんびゃくよんじゅう。ランカーの一撃が万超える世界で、340。これを何百発も当てて倒してるんです。効率とは? って話ですよね』

コメント欄が凄まじい速度で流れていた。

『修行僧で草』 『三年間何してたんだマジで』 『普通に武器持てよ定期』 『縛りプレイが目的になってる典型例』 『追放は妥当すぎるww』 『才能の無駄遣いってレベルじゃない』 『こういう奴がPT入ってきたら即キックだわ』

一つ一つが小さな棘だ。どれも的外れじゃない。客観的に見れば、俺のやっていることは非効率の極みで、三年間の蓄積は数字に一切反映されていない。嘲笑されて当然のプレイスタイル。わかってる。わかった上で選んでる。

だが——これだけの視聴者の前で「芸人」とラベルを貼られると、胸の内側に鈍い熱が灯るのは止められなかった。怒りじゃない。もっと静かなもの。踏み固められた土の底から、地熱みたいにじわりと滲む何か。俺の三年間は見世物じゃない。その一言が喉元まで上がってきて、音にならずに溶けた。

動画はまだ続いていた。ミコトが追放シーンまで入手していることに驚く。ギルドホール内の映像。神城の「数字が出せないビルドはゴミ」という台詞がテロップ付きで流され、コメント欄が沸いた。

『神城正論すぎる』 『いや言い方ひどくね?』 『事実だから正論だろ』 『素手芸人の明日はどっちだ!』

ブラウザを閉じた。指先に力が入りすぎて、メニュー画面が僅かに震えた。

——

溶岩洞窟に戻った。街にいると視線がうるさい。ここには誰もいない。モンスターと、溶岩と、俺の拳だけだ。

チャット欄を非表示にした。配信通知もオフ。フレンドリストは元々空に近かったが、念のため全てのオンライン表示を切る。世界から切り離された感覚が、むしろ心地いい。

殴る。殴る。殴る。

蜥蜴を三体。蝙蝠を五体。岩石ゴーレムを二体。素手で殴り、素手で砕き、素手で経験値に変える。一撃ごとに拳の感触が洗練されていく。無駄な力が削ぎ落とされ、最短距離で最大の衝撃を伝える軌道だけが残る。誰に見せるためでもない。ただ、この拳が到達できる場所を知りたい。それだけだ。

ミコトの切り抜きでコメント欄が笑っている間も、俺の経験値バーは動き続けている。彼らが消費しているのは俺の映像で、俺が積み上げているのは拳の密度だ。時間の使い方が違う。どちらが正しいかは、まだ誰にもわからない。

四時間が経った。

岩石ゴーレムの最後の一体を砕き、ふと足を止める。感覚的なものだが、さっきから拳の通りが良い。ダメージ数値は相変わらず三桁なのに、手応えが変わった。まるで拳と対象の間にあった薄い膜が、一枚ずつ剥がれていくような——

ステータスを開いた。

素手スキルの熟練度ゲージ。上限のさらに先、通常なら表示されない領域に、極細のバーが伸びている。これは前からあった。三年間の蓄積で、スキルシステムの想定上限を超えた経験値がオーバーフローしている証拠。公式には存在しない隠しパラメータ。

だが今日、そのバーの色が変わっていた。

灰色だったゲージの先端が、淡い金色に染まっている。そして——バーの終端に、数字が浮かんでいた。

『??? 解放まで:残り 0.3%』

息が止まった。

三年間、解放条件すら不明だったあの最深部に、初めて具体的な数値が現れた。0.3%。今日の四時間で、少なくとも数%は削ったはずだ。つまり——あと数日。いや、集中すれば明日にでも届く距離。

スキルツリーを開く。最深部の暗闇は、もう完全な闇ではなかった。輪郭がある。アイコンの形状が朧げに見える。二週間前に一瞬だけ脈動した、あの何か。それが今、薄い金色の光を帯びて、ゆっくりと呼吸するように明滅している。光が拍動するたび、拳の芯に微かな痺れが走った。骨の髄まで染み込むような、冷たくも熱くもない不思議な振動。三年かけて鍛え続けた拳が、画面の向こうの何かと共鳴している。そんな錯覚すら覚える。

笑いが込み上げた。声にはならない、腹の底から湧く静かな震えだった。

配信のコメント欄で「三年間何してたんだ」と笑った連中に、教えてやりたい衝動を飲み込む。まだ早い。ここで騒げば、またミコトのネタにされるだけだ。

黙って拳を握る。指の関節が鳴った。

あと、0.3%。

誰にも見えない場所で、俺の拳はもう、未知の領域に指先をかけている。

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