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素手縛りの無拳 ――数字に映らぬ拳で攻略を踏み潰す

第1話 第1話

第1話

第1話

──素手で殴り続けて、もう三年になる。

《Eternal Abyss Online》、通称EAO。同時接続数百万を誇る世界最大のVRMMO。その第一階層の果て、溶岩が脈動するイグニス渓谷のフィールドボス《灼熱顎のヴォルガノス》が、俺の目の前で膝をついた。

残りHP、12%。

「おらぁッ!」

右の正拳を顎に叩き込む。拳圧で溶岩の飛沫が弾け、熱気が顔面を焼く。痛覚設定は30%に抑えてるが、それでもこの距離は頭がくらっとする。鼻腔の奥に硫黄と焦げた岩の臭いがこびりつく。現実の身体はベッドの上で寝転がってるはずなのに、脳は完全にこの灼熱地獄を本物だと認識している。ヴォルガノスの巨体が仰け反り、怒りの咆哮とともに前脚が振り下ろされた。

見えてる。

三年間、こいつの攻撃パターンは全部身体に染み込ませた。左に半歩。前脚が空を切る。風圧が髪を攫い、頬の横を爪の先端がかすめていく。着地の隙に踏み込み、ボディに三連打。腹部の鱗が砕ける感触が拳に伝わる——いい手応えだ。二撃目で亀裂が入り、三撃目で破片が飛散する。露出した内殻は鈍い赤銅色をしていて、そこに拳を押し込むと、ヴォルガノスの全身がびくりと痙攣した。急所だ。何百回と殴って見つけた、攻略サイトにも載っていない弱点。

HP、5%。

背中の鱗が逆立ち、全身が赤熱する。発狂フェーズ。普通のPTなら、ここでタンクが防御バフを重ねて、ヒーラーが回復を回して、DPSが一斉に削りにかかる。

俺には全部ない。

タンクも、ヒーラーも、武器すらも。

ヴォルガノスが口腔に炎を溜める。ブレス——範囲攻撃で、まともに食らえば即死級。だが溜めモーションは2.4秒。このゲームで俺が唯一自慢できるのは、その2.4秒で何ができるかを知っていることだ。

駆ける。足裏で溶岩の地面を蹴るたびに、じゅっと焦げる音がする。炎が噴射される0.3秒前に死角に入り、後脚を蹴り上げる。ブレスが背後の岩壁を融かし、橙色の光が影を長く伸ばした。体勢を崩したところで跳躍、頭頂部の弱点コアに拳を叩き込む——

《掌打・穿》。素手スキルツリーの上位技。発動と同時に、ボスのHPバーがゼロになった。

『フィールドボス《灼熱顎のヴォルガノス》を討伐しました』 『討伐タイム:14分37秒(ソロ最速記録更新)』

勝利ファンファーレが渓谷に響く。ドロップアイテムが光の粒子になって降り注ぐ中、俺は焼けた拳をぶらぶら振って冷ました。

ソロ最速記録。だが、誰も見ていない。

ランキングを開く。総合戦闘力ランキング、圏外。週間ダメージランキング、圏外。あらゆるランキングで、灰堂レンという名前は存在しない。当然だ。このゲームの戦闘力算出式は武器攻撃力に依存する。素手の基礎攻撃力は全武器中最低——というか、そもそも「武器なし」は想定されていない。

俺のやってることは、システム的には「弱い」。数字がそう言っている。数字しか見ない連中にとって、俺は存在しないのと同じだった。

チャット欄に通知が光る。ギルドチャット——《聖剣騎士団》。

『@灰堂レン ギルドホールに来い。今すぐだ』

送信者、神城ソウマ。ギルドマスター。

嫌な予感がした。というか、予感じゃなくて確信だった。最近、ギルド内で俺への風当たりが強くなっていたのは気づいていた。レイドに誘われなくなり、ギルド倉庫の使用権限が制限され、チャットで名前を出すと微妙な沈黙が流れる。

転送結晶でギルドホールに飛ぶ。白亜の広間に、幹部連中が並んでいた。七人。全員が武器を装備していて、そのどれもが光属性の上位装備だった。見せつけてるのか、それとも無意識にそうなったのか。たぶん両方だ。神城は玉座みたいな椅子にふんぞり返り、腰の聖剣を見せつけるように足を組んでいる。EAOの希少武器《曙光の聖剣》。攻撃力12,000。俺の素手が340。

「遅いぞ、灰堂」

「フィールドボス殴ってた」

「ソロで? また素手で?」

「他にやり方知らないんでね」

神城がため息をついた。芝居がかった、聞かせるためのため息。周囲の幹部が目を逸らす。台本通りってわけだ。空気がぴんと張り詰めていて、広間の天井に刻まれたギルド紋章が妙に白々しく輝いている。

「単刀直入に言う。お前にギルドを抜けてもらう」

「理由は」

「数字だよ、数字」

神城がステータス画面を共有表示した。ギルドメンバーの週間貢献度ランキング。俺の名前は最下位——というか、貢献度がゼロになっていた。

「レイドに参加しない。ギルドクエストもやらない。お前が何をやってるかは知ってる。素手縛りとかいう自己満足だろ。勝手にやる分には構わないが、ギルドの席を占有されるのは困る」

「ソロ討伐記録は貢献度に入らないのか」

「入らない。PTレイドじゃないからな」

知ってた。このゲームのギルド貢献度はPT活動が前提だ。ソロプレイヤーは構造的に貢献度が積めない。それでも聞いたのは、こいつの口から言わせたかったからだ。

幹部の一人——確かサブマスターの白峰という女が、気まずそうに口を開いた。

「灰堂くん、別にあなたが弱いと思ってるわけじゃ——」

「白峰」

神城が名前を呼ぶだけで、白峰は口をつぐんだ。それが全てを物語っている。ここは神城の王国で、反論は許可制だ。

「灰堂」 神城が立ち上がる。聖剣の鞘が椅子に当たって硬い音を立てた。「お前は強いよ。認めてる。でもな、強さってのは数字で証明するもんだ。数字が出せないビルドは——ゴミなんだよ」

広間が静まった。幹部の何人かが気まずそうに視線を落とす。だが、誰も反論しない。白峰も、さっき言いかけた言葉を飲み込んだまま、床の紋様を見つめていた。

「わかった」

俺は追放通知にサインした。画面に『ギルド《聖剣騎士団》を脱退しました』と表示される。3年間の所属が、ワンタップで消えた。

神城が何か言おうとしたが、俺はもう背を向けていた。聞く義理はない。

ギルドホールを出る。白亜の扉が閉まる音を背中に聞きながら、街の雑踏に紛れた。周囲のプレイヤーが笑い合い、露店が並び、BGMが流れる。いつもと変わらないEAOの日常。

俺だけが、少し軽くなっていた。

荷物が減ったみたいだ。ギルドの肩書も、居場所を守る義理も、数字を気にする必要も——全部なくなった。残ったのは拳だけ。

街外れのベンチに腰を下ろして、自分のステータスを眺めた。レベル287。HP、MP、全ステータスが中の上。だが装備欄は空白だらけだ。武器:なし。防具:初期装備の布服。アクセサリー:なし。普通のプレイヤーが見たら、初心者がレベリングだけ進めた放置キャラだと思うだろう。ステータス画面の右下に表示される総合戦闘力は4,120。ランカーの十分の一以下。

でも、この手はフィールドボスを14分で沈める。数字には映らない。数字には映らないが、この拳の中に積み上がったものは確かにある。

「……上等だ」

スキルツリーを開く。素手スキルの分岐図が目の前に広がる。上位技は九割方取得済み。だが、最深部——ツリーの一番奥に、ロックされたままの分岐がある。アイコンすら表示されない、完全な暗闘。公式wikiにもデータがない。存在を知っているのは、おそらく俺だけだ。

三年間、この分岐のために拳を振ってきた。

解放条件は不明。だが、確実に近づいている。経験値バーの端に、かすかな光の粒が見える。あと少し。あと少しで——

スキルツリーを閉じようとした、その瞬間。

最深部の暗闇が、一瞬だけ脈動した。

錯覚かと思った。だが違う。暗闇の中に、一瞬だけアイコンの輪郭が浮かんだ。文字は読めなかった。形も判然としない。ただ、そこに「何かがある」ことだけが、網膜に焼きついた。

心臓が跳ねる。これはゲーム内の演出じゃない。三年間、一度も反応しなかったあの領域が、今——

指先が震えていた。興奮じゃない。怖いんじゃない。ようやくだ、という安堵に似た何かが胸の底から込み上げてくる。三年分の孤独な殴打が、たった一瞬の脈動で報われようとしている。

俺は拳を握った。

まだ誰にも見えていないものが、そこにある。

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