第3話
第3話
あと0.1%まで来ていた。
追放から十八日目。溶岩洞窟の最奥で岩石ゴーレムを砕き続け、隠しゲージの金色はもう終端に触れかけている。あと数十体。いや、あと数体かもしれない。拳を振るたびに、骨の芯を這う振動が強くなっている。皮膚の下で何かが組み替わっていくような、筋繊維の一本一本が別の素材に置換されていくような感覚。スキルツリー最深部の光は今や常時明滅していて、心拍に同期するように脈打っていた。
「——次で、届く」
岩石ゴーレムの残骸を踏み越えて、次の獲物を探す。洞窟の最奥は熱と静寂が圧縮された空間で、溶岩の照り返しが壁面を赤く染めている。空気が肺を焼くほど熱く、吸い込むたびに喉の奥が乾く。ここには俺以外のプレイヤーは来ない。ミコトの盗撮カメラも、嘲笑のコメント欄も、神城の説教も届かない。完璧な練武場。
新たなゴーレムが溶岩の中から這い出てくる。Lv268。二週間前なら緊張した相手だが、今は拳三発で沈む。初撃で脆い胸部の鍾乳石装甲を砕き、二撃目で露出したコアを叩き、三撃目で——
画面が、落ちた。
暗転。完全な黒。
ゴーレムの姿も、溶岩の光も、ステータスUIも、一切が消えた。VR空間の暗闘ではない。表示そのものが停止している。視界の隅にシステムメッセージすら出ない。まるでヘッドセットの電源を抜かれたような、生の暗黒。
だが、身体感覚は残っている。
手を握れる。足の裏に地面の圧力がある。肺は動いているし、心臓も鳴っている。VR空間にいるのに、視覚だけが奪われた状態。自分の呼吸音だけが暗闇の中で反響する。
——メンテナンスか?
事前告知は見ていない。だが、チャットも配信通知も切っていた。見落とした可能性はある。とはいえ、EAOが無告知メンテをやった前例はない。数百万の同時接続者を抱えるゲームで、それは致命的な信用毀損になる。
三十秒。一分。暗闇が続く。闇の中で、自分の鼓動だけが秒針の代わりを務めている。
そして——光が戻った。
再起動のシーケンス。だが、普段のログイン画面ではない。白い空間に、黒い文字が一行だけ浮かんでいた。
『Eternal Abyss Online ─ Version 9.99.99』
バージョン番号が異常だ。昨日時点では4.7.2だったはずで、こんな数字の跳び方は通常のアップデートではあり得ない。強制パッチ。それも、規模が尋常じゃない。
白い空間が砕けるように消え、視界が戻る。
始まりの街だった。ログアウト地点の溶岩洞窟ではなく、全プレイヤーの初期地点である《黎明の広場》に強制転送されている。石畳の広場に数百——いや、数千人のプレイヤーがひしめいていた。みな一様に困惑した顔をしている。装備は維持されているが、誰も武器を抜いていない。そんな空気じゃなかった。空がおかしい。普段は青空にギルドの旗がなびいている広場の上空に、巨大な赤黒い渦が回転していて、その中心から光の柱が真下に突き刺さっていた。
メニューを開く。ステータス、インベントリ、スキル——ここまでは正常。
ログアウトボタンを探す。
ない。
設定画面を開く。「ゲーム終了」の項目が消えている。緊急終了コマンドを入力する。無反応。VRヘッドセットの物理ボタン操作——感覚的には頭の横を叩く動作——も反応しない。
空に赤い文字が灼きついた。
『通達』 『本日をもって、Eternal Abyss Online は新フェーズに移行します』 『HP喪失による死亡は、アカウントの永久消去と同義となります』 『以上』
たった三行。説明も猶予もない。
広場が一瞬だけ静まり返った。全員が、赤い文字を見上げて、理解が追いつかない数秒があった。
それから——
「嘘だろ……?」 「ログアウトできない! ログアウトできないぞ!」 「死亡でアカ消去って——冗談だよな?」 「運営! おい運営! GM呼べ! GMどこだ!」
悲鳴が広場を満たした。膝から崩れ落ちる者、喚き散らす者、仲間にしがみつく者。数千人の群衆が、一斉にパニックに落ちた。空気が変わる。さっきまでのゲームの空気が、生存の空気に塗り替えられていく。石畳を打つ誰かの膝の音が、妙に鮮明に聞こえた。
俺は広場の端、噴水の縁石に座ったまま動かなかった。
冷静——というより、処理に時間をかけていた。感情を凍結して、事実だけを並べる。
一。ログアウト不可。VRヘッドセットの物理操作も封じられている。これはゲーム側だけでなく、ハードウェア層にまで介入している可能性がある。
二。死亡=永久アカウント消去。額面通りなら、HP がゼロになった瞬間にこの世界から完全に排除される。現実の肉体がどうなるかは不明。最悪のケースを想定しておくべきだ。
三。バージョン9.99.99。通常のアップデートではない。運営の意思なのか、外部からの侵入なのか、あるいはゲームシステム自体の暴走なのか。判断材料が足りない。
広場の喧騒の中で、いくつかの集団が形成され始めていた。大手ギルドの幹部が声を張り上げ、メンバーを集めている。《聖剣騎士団》の旗も見えた。神城の姿を探す気はないが、視界の端に白銀の鎧が映る。すでに部下を整列させ、何か指示を飛ばしている。あの男は、こういう時に動くのが早い。
「もう何人か死ぬな」
口の中で呟いた。パニック状態のプレイヤーが何千人もいる。状況を理解できない者、自暴自棄になる者、混乱に乗じてPKを仕掛ける者。初日の死者は確実に出る。
だが、それは俺の問題じゃない。
メニューを開き直した。
スキルツリー。
さっき暗転する直前、あと0.1%まで迫っていた隠しゲージ。強制アップデートで数値がリセットされた可能性もある。確認しなければ——
素手スキルの分岐図が展開される。
上位技群は変わりない。《掌打・穿》、《連打・砕》、熟練度カンスト済みの技が並ぶ。問題はその奥。最深部の——
目を疑った。
暗闇が消えていた。
三年間、ずっと黒い靄に覆われていた最深部が、完全に露出している。アイコンがある。ロック状態ではない。だが「取得済み」でもない。今まで見たことのない第三の状態——「解放可能」のマーカーが金色に灯り、その下に見たことのないスキル名が浮かんでいた。
《無拳》
文字を見つめた。二文字。拳がないと書いて、無拳。素手スキルの最深部にあるスキルが「拳を持たない」という名を冠しているのは、矛盾なのか、それとも——
スキルの説明文は存在しなかった。通常のスキルなら効果、消費MP、クールタイムが表示されるはずの領域が、すべて「???」で埋まっている。ただ一行だけ、注釈のような文が添えられていた。
『解放条件:素手による累計戦闘時間 10,000時間以上 ──達成済み』
一万時間。三年間、ほぼ毎日十時間以上殴り続けた蓄積。数値化されたそれを見た瞬間、腹の底から熱い塊がせり上がってきた。喉の奥が締まり、視界の端がわずかに滲む。スキルシステムが最初から仕込んでいたのか、それとも強制アップデートが解放のトリガーになったのか。どちらでもいい。ここにある。確かにここにある。
俺の三年間が、たった二文字に結晶している。
広場では怒号と悲鳴が続いている。誰かが泣いている。誰かが叫んでいる。世界が変わったことに、全員が怯えている。
俺はスキルツリーの《無拳》に指先を伸ばした。
取得ボタンに触れる直前で——止めた。
ここじゃない。この混乱の中で、正体不明のスキルを解放するのは愚策だ。どんな挙動をするかわからない。発動エフェクトが目立てば注目を集める。デスゲーム化直後のこの状況で、異常なスキルを持つプレイヤーが目撃されれば、味方にも敵にもなりかねない関心を引く。
先に、このスキルが何をするのかを理解する必要がある。
メニューを閉じ、広場の喧騒に背を向けた。街の裏路地に入り、人目のない場所を探す。石壁に囲まれた行き止まりの路地で、訓練用ダミーを召喚できる場所があったはずだ。
足を速めながら、拳を握った。指の関節が鳴る。いつもの感触だが、今は何かが違う。拳の奥に、まだ解き放っていない力の気配がある。眠っている獣の体温みたいなものが、骨の隙間ににじんでいる。
背後で、また誰かの悲鳴が上がった。振り返らない。
《無拳》。
その名前が意味するものを、これから確かめる。