第2話
第2話
契約から十日で、フェルハーフェンの倉庫街は様変わりした。
グレイス商会が借り受けた第七倉庫には、日ごとに鉄の延べ棒が積み上がり、鞣し皮革の束が壁を埋め、干し肉の樽が通路を塞いだ。潮風に錆と獣脂と塩の匂いが絡み合い、カイルが帳簿をめくるたびに指先が黒ずんだ。革の繊維が紙に移り、数字の上を汚していくのを見るたび、この取引の重さが指の先から身体に染み込んでくるような心地がした。養父エドモンドは船乗り時代の人脈を総動員して調達に走り回り、この十日間でおそらく五年分は老けた。頬の肉が落ち、目の下に濃い隈が刻まれ、朝になるたびに腰を押さえて立ち上がる姿は、海の上を駆けていた頃の面影をすっかり失っていた。
納品の段取りが決まったのは、十一日目の朝だった。
「護送隊を仕立てる。荷馬車二十台、護衛は先方が手配した傭兵が十二名。受け渡し地点はヘルムート街道の中継宿場、ヴァイデンだ」
エドモンドが地図を広げながら言った。羊皮紙の地図は端が擦り切れ、何度も折り直した跡が街道の線を横切っている。カイルの目は即座にヴァイデンの位置を捉えた。フェルハーフェンから東へ馬車で六日。メルシアとの国境まで、さらに二日の距離。
「国境に近すぎませんか」
「向こうの指定だ。文句を言える立場じゃない」
養父の声には諦めと、それを覆い隠すための不機嫌さが混じっていた。前金はすでに借金の返済に充てられている。引き返す道は、とうに塞がれていた。
「俺も行く。お前も来い。商会の荷だ、最後まで見届ける」
カイルに否やはなかった。
護送隊がフェルハーフェンを発ったのは、翌日の夜明け前だった。港町の灯台がまだ薄闇の中で灯をともしており、潮の匂いが背中を押すように追いかけてきた。二十台の荷馬車が縦列を組み、幌の下に積まれた鉄と皮革が車軸を軋ませる。傭兵たちは無言で隊列の前後を固めた。いずれも古参の兵だろう、鎧の手入れに年季が見え、剣の柄を握る手つきに迷いがなかった。
街道は最初の二日、穏やかだった。麦畑が緩やかな丘陵に広がり、街道沿いの宿場では商人や旅芸人が行き交う日常の光景があった。カイルは荷馬車の御者台に揺られながら、すれ違う者たちの会話に耳を澄ませた。穀物の相場、今年の葡萄の出来、隣村の娘の婚礼。戦の気配など微塵もない、土の匂いのする言葉ばかりだった。
変化が現れたのは三日目、リンデン川を渡ってからだ。
最初に目についたのは、街道脇の畑に打ち込まれた杭の列だった。騎兵の突撃を阻む馬防柵——カイルにはそれが何であるか、一目で分かった。杭の先端は粗く削られ、まだ木肌が白い。急ごしらえだ。次に、村の入り口に積まれた土嚢。井戸の周囲に張られた縄と、そこに立つ自警団の腕章をつけた農夫。街道を行く荷馬車を見る村人たちの目には、好奇心ではなく警戒があった。子供を家の中へ引き入れる母親の手つきが、カイルの視界の端をよぎった。
「爺さん、この先の街道は通れるかね」
エドモンドが村の長老らしき男に声をかけた。老人は護送隊の荷馬車をじろりと見回し、幌の下に何が積まれているか察したのだろう、唾を吐くように言った。
「通れる。だが急げ。三日前からヴァルドの斥候が街道筋をうろついとる。あんたらの荷を見たら、どうなるか分かるだろう」
エドモンドは礼を言って馬車を進めたが、その横顔から血の気が引いていた。カイルは黙って街道の先を見つめた。斥候がいるということは、主力が近いということだ。そして斥候が「街道筋を」うろついているなら、ヴァルド軍はまだ進軍経路を確定していない。つまり作戦は開始直前——嵐の前の、最後の凪だ。
四日目、五日目と進むにつれ、街道の風景は戦時の色を濃くした。橋という橋に見張りが立ち、渡河のたびに荷を改められた。契約書を見せれば通されたが、検問の兵の顔には焦燥が刻まれていた。彼らの瞳は荷の中身より街道の先を見ていた。何かが迫っていることを、末端の兵士たちも肌で感じているのだ。街道を逆方向に歩く避難民の列が現れ始め、その数は日を追うごとに膨れ上がった。老人を背負った若者、泣き叫ぶ幼子を抱えた母親、家財を積んだ手押し車を引く男。彼らはみな東から来ていた——カイルたちが向かう方角から。すれ違うとき、避難民の目がカイルたちの荷馬車を見上げた。なぜこちらに来る、と問うような目だった。カイルはその視線に答えることができなかった。
「引き返しましょう」
五日目の夜営で、カイルは養父に進言した。焚き火の明かりが二人の顔を照らしている。炎の赤が養父の深い皺を際立たせ、十日で老けたはずの顔がさらに十年分の影を纏っていた。傭兵たちは交代で見張りに立ち、荷馬車の周囲を巡回していた。
「荷はどうする」
「捨てるんです。違約金を払ってでも」
エドモンドは焚き火を見つめたまま、長い沈黙を置いた。炎が爆ぜる音だけが夜気を震わせた。薪が崩れ、火の粉が舞い上がり、二人の間を通って夜空に消えた。
「違約金で商会が潰れる。従業員の行き場がなくなる」
「命あっての——」
「分かっている」養父は低い声で遮った。その声は怒りではなかった。自分自身に言い聞かせるような、祈りにも似た響きだった。「だが、あと一日だ。ヴァイデンまであと一日で着く。荷を渡して、身軽になって帰る。それが一番早い」
一日。その一日が致命的な差になることを、カイルの耳は告げていた。だが養父の判断を覆すだけの確証はなかった。避難民の流れ、斥候の動き、検問の兵の焦り——すべては兆候であって、確定した事実ではない。戦が始まるのは明日かもしれないし、一月後かもしれない。商人は兆候で荷を捨てたりはしない。
カイルは黙って頷いた。その判断を、後に何度悔いることになるか、このときはまだ知らなかった。
六日目の昼過ぎ、ヴァイデンの宿場町が見えてきた。赤い屋根の連なりが丘の斜面に張り付き、街道が緩やかに町の中心へ下っていく。だが、町の手前で護送隊は止まった。
街道を塞ぐように、軍馬に乗った伝令兵が立っていた。鎧の紋章はヴァルドのもの。馬は泡を吹き、伝令の顔は土埃と汗で黒く汚れている。数十里を休みなく走ってきた顔だ。
「街道は封鎖だ。民間の通行は許可できない」
傭兵隊長が前に出て交渉を始めたが、伝令は首を横に振るばかりだった。その背後から、もう一騎が丘を越えて駆け下りてきた。こちらはさらに疲弊しており、馬から転がり落ちるように降りると、伝令に何事かを早口で告げた。
伝令の顔色が変わった。
カイルは御者台から身を乗り出し、その唇の動きを読んだ。長年の癖だった。港で、酒場で、人が声を潜めるとき、唇が真実を語る。
——開戦。今朝未明。メルシア国境を突破。
伝令が振り返り、護送隊に向かって怒鳴った。
「全員ここから動くな! ヴァルド軍がメルシアへの侵攻を開始した。この街道は軍の管制下に入る。いかなる民間車両も前進も後退も許可しない!」
荷馬車の列に動揺が走った。御者たちが顔を見合わせ、傭兵たちの手が剣の柄にかかった。エドモンドが立ち上がり、何か言おうとして——その声は、東の空から響いてきた低い地鳴りにかき消された。
軍靴の響きではなかった。砲声だ。まだ遠い。だが確実に、この街道の延長線上で、大地が砕かれている。
カイルは東の空を見た。晴れ渡った青空の端に、黒い煙の柱が一本、細く立ち昇っていた。
戦は来た。噂でも帳簿の上の数字でもなく、地を這う振動と煙の匂いを伴って。護送隊は前にも後ろにも進めぬまま、二つの軍勢が噛み合う顎の間に取り残された。
カイルは養父の顔を見た。エドモンドは砲声の方角を見つめたまま、煙管を握る手が微かに震えていた。十年前の夜——あの夜もこうだった。空が赤く染まり、地が揺れ、逃げる場所がどこにもなかった。あのときカイルを抱えて走ったのは老侍従だった。今、この場で誰かを守れる人間は。
カイルは荷馬車を降り、従者たちの顔を一人ずつ見回した。御者が八名、荷役人夫が六名、帳簿係が二名。養父を含めて十七名。恐怖に強張った顔、呆然と立ち尽くす顔、逃げ出す算段を始めている目——十七通りの不安がそこにあった。この全員を、生きて連れ帰らなければならない。
東の空で、二本目の煙が昇った。