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亡国の王子は剣を置かせる

第1話 第1話

第1話

第1話

潮の匂いに混じって、火薬の噂が届く季節だった。

交易都市フェルハーフェンの港は、夜明け前から喧騒に満ちている。南からの香辛料船が波止場に横付けされ、肉桂と丁子の甘い香りが朝靄に溶けて漂う。東からの鉄鉱石を積んだ荷馬車が石畳を軋ませ、車輪が跳ねるたびに赤錆びた粉塵が宙に舞った。その雑踏の片隅で、カイルは木箱に腰かけたまま、荷揚げ人夫たちの怒声に紛れる会話の断片を拾い集めていた。

「——ヴァルドの第三軍団が東部国境に集結しているらしい」 「馬鹿を言え、あれは秋季演習だ」 「演習に攻城兵器を持ち出す国があるか」

二人の船乗りは声を潜めたつもりだろうが、波止場の風がその言葉を運んでくる。カイルは帳簿に視線を落としたまま、脳裏の地図に新たな駒を置いた。ヴァルド第三軍団。東部国境。攻城兵器。三日前にメルシア商人が漏らした「穀物の先物が異常な値をつけている」という情報と重ね合わせれば、像は一つしか結ばない。

侵攻の準備だ。

十七歳の青年は、その結論を誰に告げることもなく、帳簿の数字を追う作業に戻った。養父の商会——グレイス商会の棚卸しは今日中に終わらせなければならない。それが、カイルという名の商人の養子に与えられた仕事であり、それ以上の何者でもない自分の日常だった。

王族の血など、とうに枯れた井戸のようなものだ。覗き込んでも、暗い底が見えるだけで何も汲めはしない。

レグニカが滅んだのは十年前。西の果ての小王国は、三大国の連合軍にわずか四十日で蹂躙された。王族は一人残らず処刑台に送られた——はずだった。当時七歳の第三王子だけが、老侍従の命懸けの手引きで城を脱し、大陸の反対側にあるこの港町まで流れ着いた。

その記憶を、カイルは封じてきた。夢に見ることさえ自分に許さなかった。王宮の白い回廊も、母の歌声も、城壁を越えて立ち昇る黒煙も。すべては前の世の出来事であり、今の自分とは何の関わりもない。そう言い聞かせるたびに、胸の底で何かが小さく軋む音がしたが、カイルはその音にも蓋をした。

「カイル、まだそこにいたのか」

背後から声がかかった。振り返ると、養父エドモンドが日に焼けた顔に穏やかな笑みを浮かべて立っていた。五十を過ぎた大柄な男で、船乗りあがりの太い腕には古い刺青が残っている。潮風で荒れた掌は分厚く、握手すると砂利のような感触がした。この男がカイルを引き取り、読み書きと算術を教え、商いの何たるかを叩き込んだ。血の繋がらぬ父は、本当の父より多くのものをくれた。

「棚卸しが残っています」

「真面目すぎるのがお前の欠点だ」エドモンドは木箱の隣に腰を下ろし、煙管に火をつけた。甘い葉煙草の匂いが潮風に混じる。カイルにとってはこの香りこそが「父」の匂いだった。「それはそうと、今夜は商会に客が来る。大口の取引の話だ。お前も同席しろ」

「どのような取引ですか」

「鉄と皮革、それに干し肉。まとまった量だ」

カイルの手が止まった。鉄、皮革、干し肉。その三つが同時に、しかも大量に必要とされる用途は限られている。軍需物資だ。

「相手は」

「名は明かせんと言われている。だが前金の額を聞いて驚くなよ。商会の年商の三割だ」

養父の声には隠しきれない高揚があった。グレイス商会は中堅の交易商だ。年商の三割という前金は、この商会にとって断れる額ではない。カイルにはそれが分かる。分かるからこそ、胸の奥で小さな警鐘が鳴った。

「——受けるのですか」

「考えている最中だ。だから、お前の耳が要る」

エドモンドは煙を吐き出しながら、港を見渡した。彼はカイルの本当の素性を知らない。ただ、この養子が異様なほど諸国の事情に通じていること、人の嘘を見抜く目を持っていることには、とうに気づいている。だから要所では必ずカイルの意見を求めた。

「夜までに、この取引がどこから来ているか探れるか」

「やってみます」

カイルは帳簿を閉じ、港の雑踏へ足を踏み出した。

午後の大半を費やして、カイルは港の酒場と商館を巡った。船乗り、仲買人、両替商。誰もが断片しか持っていないが、断片を繋ぎ合わせれば絵は浮かぶ。酒場の薄暗い奥では鋲打ち革の大量注文が入ったという噂を聞き、両替商の窓口ではヴァルド銀貨の流通量がこの一月で倍に跳ね上がっているという数字を得た。仲買人の一人は、カイルが杯を傾けるふりをして問いを挟むと、声をひそめてこう言った。「東の街道筋で、夜ごと荷馬車の列が動いている。積み荷は幌で隠してあるが、轍の深さを見りゃ分かる。鉄だよ、あれは」。その男の目には、商機を嗅ぎつけた興奮と、それと同じだけの怯えがあった。日が傾く頃には、ほぼ確信に至っていた。

取引の出所は、ヴァルドだ。

正確には、ヴァルド軍の兵站を担う軍需商社が、正規の調達路とは別に物資をかき集めている。正規の補給だけでは足りない規模の作戦が動いているということだ。港町の耳で拾った今朝の情報と符合する。ヴァルドは本気でメルシアに攻め込むつもりだ。

商会の帳場に戻ると、夕闇の中で養父が待っていた。卓の上には冷めた茶が二つ。一つはカイルのために用意されたものだろう。カイルは調べた内容を手短に伝えた。軍需である可能性が高いこと。ヴァルドの動きが背景にあること。この取引を受ければ、商会は戦争の歯車に組み込まれること。

エドモンドは長い沈黙のあと、煙管を置いた。

「分かっている。分かった上で、聞いてくれ」

養父の目に、カイルが見たことのない疲労の色があった。普段は陽気で豪放な男だ。嵐の海でも笑っていたと古参の船員が語るほどの。その男が今、背中を丸めて帳場の椅子に沈み込んでいる。

「商会の台所は火の車だ。去年の嵐で船を二隻失った。借金の期限が秋に来る。この取引を断てば、年を越せん」

「しかし——」

「戦が起きるかどうかは、わしらが決めることじゃない。だが従業員の飯を食わせるのは、わしの仕事だ」

カイルは言葉を呑んだ。養父の論理に反論する術を、少なくともこの場では持たなかった。商人として生きるとはそういうことだ。正しさで帳簿は埋まらない。十年前に国を失ったあの夜も、正しさは何一つ守ってくれなかった——その記憶が不意に喉元をかすめ、カイルは奥歯を噛んだ。

「——承知しました。同席します」

その夜、グレイス商会の奥座敷に現れた客は、フードを目深にかぶった痩身の男だった。名を問われても答えず、要件だけを淡々と述べた。鉄三百トン、鞣し皮革五千枚、干し肉は一万人分。納期は二ヶ月。代金は前払いの金貨に加え、「戦時における商会の安全保障」。

エドモンドが契約書に署名する間、カイルは客の所作を観察していた。軍人ではない。だが軍の論理で動く人間だ。指先の墨染みは文官か書記官のもの。左手首に巻かれた細い革紐は、ヴァルド東部地方の護符だ。男が茶碗を持ち上げる仕草にも無駄がなく、訓練された組織人特有の精密さがあった。

取引は成立した。

署名の乾く間もなく客は席を立ち、振り返ることなく夜の路地に消えた。残されたのは卓上の契約書と、男が座っていた椅子にかすかに染みついた軍馬脂の匂いだけだった。エドモンドは安堵したように大きく息を吐いたが、カイルの喉の奥には苦い渇きが張り付いたままだった。

客が去ったあと、カイルは一人、帳場の窓から夜の港を眺めた。月明かりに照らされた波止場で、荷役人夫たちの影が動いている。潮騒の合間に、繋留された船の索具がきしむ音が聞こえた。明日からこの港に、戦のための鉄が集まり始める。

十年間、カイルは傍観者でいた。滅んだ祖国のことは考えず、王族の記憶は封じ、商人の養子として息を潜めて生きてきた。それで良かった。それが正しかった。

だが今夜、養父の署名した契約書が、その均衡に罅を入れた。

戦は来る。もはや噂ではなく、この商会の帳簿に刻まれた事実として。そしてカイルは、その帳簿を管理する側の人間になってしまった。

窓の外、東の水平線に薄い雲がかかっていた。その向こうに、軍靴の響きが近づいている。まだ聞こえない。だが、港町の耳を持つ少年には、確かに感じ取れた。

大陸が、軋み始めている。

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