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亡国の王子は剣を置かせる

第3話 第3話

第3話

第3話

砲声は夜になっても止まなかった。

ヴァイデンの宿場町に滑り込んだ護送隊は、町外れの空き地に荷馬車を寄せ、身を潜めるしかなかった。伝令の封鎖命令は絶対だったが、街道上に留まれば軍の行軍に轢き潰される。傭兵隊長の判断で町に入ったものの、宿場はすでに避難民と敗残兵で溢れていた。赤い屋根の軒先に負傷兵が横たわり、呻き声と消毒用の焼酎の匂いが夜風に混じった。血と泥と焼けた火薬の臭気が幾重にも重なり、息を浅くしなければ吐き気が込み上げた。東の丘の向こうでは断続的に光が瞬き、数拍遅れて地を揺らす轟音が追いかけてくる。砲撃の間隔が徐々に狭まっていることに、カイルは気づいていた。

戦線が、こちらに近づいている。

「荷を置いて逃げるべきだ」

傭兵隊長が養父に告げた。火を焚くことも許されぬ暗がりの中、男の声だけが低く響いた。

「契約は戦時条項で無効になる。俺たちの仕事は護送であって、戦場で死ぬことじゃない」

エドモンドは答えなかった。闇の中で煙管を探る手つきだけが、かすかに衣擦れの音を立てた。火はつけられない。指先が煙管の軸を撫でるだけの、意味のない動作を繰り返している。カイルにはそれが、養父が己の判断の重さに押し潰されかけている証に見えた。あと一日、その一言がここまで全員を連れてきた。

「——朝になったら発つ。来た道を戻る」

養父の声は掠れていた。

だが、朝を待つ猶予は与えられなかった。

未明、蹄の音が町に殺到した。ヴァルド軍の後方警備隊だった。数十騎の騎兵が宿場に雪崩れ込み、物資の徴発を始めた。軍の兵站が前線の急進に追いつかず、現地調達に切り替えたのだ。避難民の荷車が裂かれ、宿屋の食糧庫が蹴破られ、抗議する宿場の主人が剣の腹で殴り倒された。統制の取れた略奪だった。兵は命令通りに動き、悲鳴には一切の関心を示さない。

グレイス商会の荷馬車二十台は、彼らにとって宝の山だった。

「止めろ! これはヴァルド軍への正規納品だ、契約書がある!」

エドモンドが荷馬車の前に立ちはだかった。手には契約書の筒を掲げている。騎兵の指揮官が馬上から見下ろし、松明の火が養父の顔を赤く照らした。

「契約書だと。前線が崩れかけているときに悠長な話だ。徴発権は軍にある。退け」

「退かん。この荷はグレイス商会の財産だ。正規の手続きを——」

指揮官が顎をしゃくった。兵が二人、馬を降りてエドモンドに近づいた。カイルが駆け出そうとしたとき、養父が振り返った。その目は、カイルではなくカイルの背後にいる従者たちを見ていた。

「手を出すな」

養父の声だった。カイルに向けた言葉ではない。従者たちに向けた言葉だった。抵抗すれば全員が斬られる。エドモンドにはそれが分かっていた。だから自分一人で前に立った。

兵がエドモンドの腕を掴み、引き倒そうとした。養父は踏み止まった。船乗り上がりの体躯は伊達ではなく、若い兵の腕を振り解いて再び荷馬車の前に立った。

二度目は、剣の柄が来た。

鈍い音がした。養父の額から血が流れ、膝が折れた。それでもエドモンドは倒れなかった。片膝をついたまま、荷馬車の車輪に手をかけて立ち上がろうとした。その背中が、従者たちの盾になっていた。カイルの足が凍りついた。動けなかった。十年前のあの夜と同じだった。城壁の向こうで炎が上がり、老侍従に手を引かれて暗い抜け道を走ったあの夜。あのときも、誰かが背中で自分を守り、自分は何もできなかった。喉の奥が灼けるように熱く、それなのに指先は氷のように冷たかった。

三度目の打擲は、剣の峰ではなかった。

兵が苛立ちに任せて突き出した槍の石突きが、養父の脇腹を抉った。鎧の下の肉を穿つ鈍い衝撃音が、カイルの鼓膜に貼りついた。それでも致命傷ではなかったはずだ。だがエドモンドは前のめりに倒れ、荷馬車の下に崩れ落ちた。カイルが駆け寄ったとき、養父の手はまだ契約書の筒を握っていた。

「——逃げろ」

血と土に塗れた唇が動いた。目はもうカイルを見ていなかった。暗い空の、どこか遠くを見ていた。

「皆を……連れて……」

その手から力が抜けたのを、カイルは感じた。握られていた指が一本ずつ開いていく、その途方もなく緩慢な感触を、カイルは生涯忘れないだろうと思った。契約書の筒が石畳に転がり、乾いた音を立てた。

騎兵隊は荷を奪い終えると、嵐のように去った。幌は裂かれ、荷台は空になり、車軸の折れた馬車が道に取り残された。松明の明かりが遠ざかり、蹄の音が丘の向こうに消えると、残されたのは静寂だった。静寂と、石畳に広がる黒い染みだけだった。

カイルは養父の体を抱き起こした。まだ温かかった。だが胸は動いていない。脇腹の傷は外から見るより深く、内臓を損じていた。出血は止まらぬまま、意識は戻らぬまま、エドモンドは去った。嵐の海で笑っていた男は、荷馬車の下で、契約書を握ったまま死んだ。

泣きたかった。叫びたかった。だがカイルの目からは一滴の涙も出なかった。十年前にあの夜の記憶を封じたとき、涙腺も一緒に枯らしてしまったのかもしれない。あるいは、ここで崩れたら全員が死ぬと、身体の方が先に理解したのかもしれない。

従者たちがカイルの周りに集まっていた。十六人。御者、荷役人夫、帳簿係。誰もが放心し、次の一手を持たない顔をしている。傭兵たちはとうに姿を消していた。契約が無効になった瞬間に、闇に溶けるように散ったのだ。残されたのは武器も持たない民間人だけだった。

カイルは養父の体を荷馬車の幌で包んだ。ここに埋葬する時間はない。だがせめて、獣に荒らされぬように。手が血で汚れた。拭う布を探す余裕もなく、そのまま立ち上がった。

「全員、聞いてくれ」

自分の声がどこか遠くから聞こえた。震えてはいなかった。

「ここに留まれば、次の徴発隊が来る。今度は荷だけでは済まない。男は徴兵、抵抗すれば——」

言葉を切った。言わなくても全員が分かっている。

「フェルハーフェンに戻る。今すぐ発つ」

「街道は封鎖されています」帳簿係の若い男が言った。声が裏返っていた。「来た道はヴァルド軍の進軍路です。戻れば正面からぶつかる」

「南に迂回する。丘陵地帯を抜けて、リンデン川の上流から西岸に渡る」

カイルの脳裏には、養父が広げていた地図が焼き付いていた。あの擦り切れた羊皮紙の一本一本の線を、今こそ使うときだった。南の丘陵地帯は街道から外れた荒れ地だが、軍が大部隊を展開する地形ではない。小回りの利く少人数なら通れる。

だが地図を思い描くほどに、一つの事実が喉に刺さった。南の丘陵を抜けた先は、ヴァルド軍の側面とメルシア軍の防衛線の間に広がる無人地帯だ。両軍の斥候が入り乱れる場所。どちらに見つかっても、身分を証明する術はない。ヴァルドに捕まれば脱走した徴用民として処断され、メルシアに捕まれば敵国の間者として吊るされる。

カイルはその事実を飲み込んだ。選択肢が二つある場合、人はまだ迷える。だが選択肢が一つしかないとき、それは決断と呼ぶ。

「二時間後に出る。歩ける支度をしろ。持てない荷は捨てろ」

従者たちが散り、支度を始めた。カイルは一人、養父を包んだ幌の前に膝をついた。

血に汚れた手で、石畳に転がったままの契約書の筒を拾い上げた。封を切り、中の紙を引き出した。取引の品目、数量、金額、署名。養父の商人としての人生が、この一枚に圧し潰された。カイルは契約書を二つに裂き、四つに裂き、掌の中で握り潰した。紙片が指の間からこぼれ、夜風に攫われていった。

帳簿は灰になった。商人の日常も、傍観者の仮面も。残ったのは、十六の命を背負った十七歳の足だけだ。

東の空が白み始めていた。砲声はいつの間にか止んでいたが、それは平穏の兆しではない。夜戦が終わり、両軍が態勢を立て直しているだけだ。日が昇れば、再び地が震える。

カイルは南の丘陵に目を向けた。闇に沈んだ稜線の向こうに、道はない。道がないからこそ、そこを行く。

二つの軍勢の顎の間を、歯に触れずに抜ける。それが唯一の活路だった。

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