第2話
第2話
意識が途切れたのは、たぶん数秒だった。
暗い水の底に沈むような感覚の中で、硬いヒールの音だけが聞こえていた。規則正しく、一定の間隔で。その音が遠ざからないことだけが、俺をかろうじて水面に繋ぎ止めていた。
目を開ける。開けたつもりで、片方しか開かなかった。右目の周りが腫れ上がっている。瞼の裏側に熱い圧迫感があって、こめかみまで鈍痛が脈打っている。左目だけで見上げた視界に、黒い影が広がっていた。路地の壁を覆い、天井のパイプに絡みつき、非常階段の手すりを浸食している。影の中では街灯の光すら届かない。歌舞伎町のネオンが途切れた先に広がる、もうひとつの夜。
黒髪の女は路地の中央に立っていた。俺に背を向けて、入口の方を見ている。
さっき影に呑まれた構成員が地面に倒れたまま動かない。死んでいるのか気を失っているのか、この距離では分からない。ただ胸がかすかに上下しているのが見えた気がして──気がしただけかもしれない。
路地の外から声がした。
「おい、山崎。山崎? ……応答しろ」
戻ってきた。残りの二人。忘れ物を取りに来た仲間が倒れているのを見て、声に緊張が混じる。革靴の足音が止まり、数秒の沈黙のあと、低い指示が飛んだ。
「異能者だ。挟め」
二つの足音が左右に分かれる。訓練された動き。灰燼会の構成員は全員が異能者というわけではないが、異能者との戦闘手順は叩き込まれている。警棒ではなく、拳銃のスライドを引く金属音がした。乾いた、よく手入れされた金属が噛み合う音。対異能者用の特殊弾——神経撹乱剤を仕込んだゴム弾を使う。殺傷力は低いが、異能の集中を乱すには十分だ。
黒髪の女は振り向かなかった。ポケットに手を入れたまま、路地の入口に視線を据えている。
「——三人がかりで子供一人も仕留められない組織が、まだ増援を出すの」
低い声。感情が乗っていない。事実を確認しているだけの口調だった。
最初の銃声は左から。
路地の壁に弾が当たる硬い音がした——はずだった。音がしない。着弾の衝撃も、跳弾の火花もない。弾丸が影の中に消えた。壁を覆っていた黒い影が弾を飲み込んだのだ。水面に石を投げたときのように、影の表面がわずかに波打っただけだった。
二発目は右から。こちらは女の体に向けて放たれた。だが彼女の足元から伸びた影が、弾丸の軌道上に壁のように立ち上がった。影が固体になったわけではない。弾がそこに触れた瞬間、回転を失って力なく地面に落ちた。薬莢が転がるような軽い音が、やけに大きく路地に響いた。
運動エネルギーの消失。俺は息を呑んだ。俺の右手と同じだ——いや、違う。俺は触れなければ吸収できない。この女は、影を介して離れた場所の運動を殺している。次元が違う。
「黒絶」
女が呟いた。名前なのか、技の宣言なのか。その一言と同時に、路地を覆っていた影が動いた。
這うのではなく、奔った。
左側の構成員の足元から影が噴き上がり、脚を伝い、腰を這い、胸まで駆け上がった。男が声を上げようとした。口が開き、喉が震え——そこで止まった。声が出ない。体が動かない。拳銃を握った指が固まり、そのまま膝から崩れ落ちた。倒れた体が地面に当たる音だけが路地に響いた。
右側の男はそれを見て、反射的に背を向けた。逃げようとした。それは正しい判断だ。勝てない相手からは逃げろ。灰燼会で最初に教わることだ。
だが影は足より速かった。
男の背中に黒い線が一本走った。脊椎に沿って、首の付け根から腰まで。糸で縫うように影が通過した瞬間、男の体から力が消えた。走る姿勢のまま前のめりに倒れ、顔面からアスファルトに突っ込んだ。受け身すら取れない。四肢が完全に弛緩している。
三人。十秒もかかっていない。
銃声は二発だけ。悲鳴はゼロ。路地裏に横たわる三つの体は、どれも外傷がない。血も流れていない。ただ動かない。影が神経信号を断ったのだ。筋肉を動かす電気信号そのものを遮断して、肉体を完全に沈黙させる。殴るのでも、斬るのでも、撃つのでもない。存在のスイッチを切る。それがこの女の異能だった。
女がゆっくりと振り返った。影が元の位置に戻る。路地を覆っていた闇が潮のように引いて、薄汚れた壁と非常階段と配管がむき出しになった。何事もなかったかのように。ネオンの残光が路地の奥まで届くようになって、俺は初めて女の顔をまともに見た。
二十代半ばに見える。左目の下に小さな黒子がある。無表情だが、冷酷というのとは違う。何かを値踏みしている目。俺の体を、俺の傷を、俺の右手を——見ている。
「運動エネルギーの吸収。灰燼会が回収屋に使っていた個体ね」
個体。人間ではなく、個体。その呼び方は灰燼会と同じだ。だが声の温度が違った。灰燼会の人間が俺を「個体」と呼ぶとき、そこにあるのは道具への無関心だ。この女の声には、観察者の正確さがあった。
「……あんた、黒燐の」
声が出た。掠れて、途切れて、ほとんど息だけの声だったが、出た。
「氷室カナデ。黒燐の第三席」
名乗るとは思わなかった。灰燼会の人間は、末端に名前を教えない。名前を知られることは弱みになるからだ。この女は名乗った。それが何を意味するのか、今の俺には考える余力がなかった。
氷室カナデは俺の隣にしゃがんだ。コートの裾がアスファルトに触れて、微かに布擦れの音がした。手袋をした右手が俺の左手首に触れ、脈を測っているのが分かった。手袋越しでも指先は冷たい。数秒の沈黙。それから手を離し、立ち上がった。
「肋骨四本にひび。左肩脱臼寸前。右目周辺の裂傷。出血量は——まだ致命圏じゃない」
医者みたいなことを言う。いや、医者より淡々としている。
「歩ける?」
「……分かんない」
「試して」
命令だった。俺は歯を食いしばって左腕で体を押し上げた。肋骨が軋み、視界に火花が散る。膝が震える。立てない。壁に爪を立てたが指先に力が入らず、そのまま滑り落ちた。地面に手をついたまま、無様にうずくまることしかできなかった。口の中に溜まった血の味が、鉄錆びのように舌の奥に張りついている。
氷室は何も言わなかった。ため息もない。代わりに俺の右腕を自分の肩に回し、片手で腰を支えて引き上げた。百七十を超える長身の女に、百六十にも届かない俺の体はほとんど吊り上げられた格好だった。
「灰燼会はすぐに増員を送る。十分以内にこの区画を出る」
「なんで」
俺は聞いた。聞かなければならなかった。
「なんで俺を助ける。黒燐と灰燼会は敵だろ。俺は灰燼会の——」
「処分された駒でしょう。もう灰燼会の所有物じゃない」
遮るように、事実だけが返ってきた。
「捨てられた駒を拾うのは戦術の基本よ。お前の異能には使い道がある」
使い道。灰燼会と同じだ。結局のところ、俺の価値は右手の異能にしかない。それは分かっている。分かっていて、それでも——この手を放す理由がなかった。
歌舞伎町の路地を抜け、雑居ビルの非常階段を降り、地下駐車場に止められた黒い車の後部座席に押し込まれた。車内は暖房が効いていて、血まみれの体に温かい空気が触れた瞬間、全身が震えた。寒かったのだと、今さら気づいた。革のシートが頬に触れる。柔らかい。殴られ慣れた頬には、その柔らかさがかえって痛かった。
氷室が運転席に乗り込む。エンジンがかかる。車が動き出す。行き先は聞かなかった。聞いたところで、俺に選択肢はない。
ただ一つだけ、灰燼会と違うことがあった。
後部座席のドアにはチャイルドロックがかかっていなかった。内側から開けられる。逃げようと思えば、逃げられる。
——それが意図的なのかどうか、俺にはまだ分からなかった。
バックミラー越しに氷室の目が一瞬だけこちらを見た。何も言わない。視線はすぐにフロントガラスの向こうに戻った。首都高の灯りが車内を流れ、俺の血に汚れた手の上を、オレンジと白の光が交互に滑っていく。
意識が薄れていく。今度は恐くなかった。死ぬときの暗さとは違う。体が勝手に眠りを選んでいる。
最後に見えたのは、バックミラーの中の氷室の横顔だった。首都高の照明が顔の半分を照らし、もう半分は影に沈んでいる。その境界線が、あまりにもくっきりしていた。