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灰燼のレプリカ

第1話 第1話

第1話

第1話

血の味がする。それが、今夜三度目だと気づいたとき、俺はまだ走っていた。

新宿歌舞伎町、ネオンの届かない雑居ビルの裏路地。湿ったアスファルトを蹴る足音が、自分のものだけじゃない。背後に二つ、いや三つ。等間隔で追ってくるそれは、俺をよく知っている連中の足音だ。革底が水溜まりを叩く音がやけに規則正しくて、焦りも苛立ちもない。仕事として追っている。獲物が逃げ切れないと分かっている人間の走り方だった。

右手が熱い。

さっきの回収任務で、対象のバイクに素手で触れた。時速六十キロの運動エネルギーがそのまま右掌に流れ込んで、車体は慣性を失って路上に倒れた。タイヤが空転する甲高い音と、ライダーがアスファルトに投げ出されて転がる鈍い音。簡単な仕事のはずだった。対象を止めて、荷物を回収して、幹部に届ける。それだけ。

だが荷物は空だった。

中身がすり替えられていたのは俺のせいじゃない。そんなこと、誰でも分かる。分かっていて、それでも責任を押し付ける。灰燼会というのは、そういう組織だ。

路地の角を曲がる。右足の脹脛にまだ鈍い痛みが残っている。三日前の任務で受けた傷が塞がりきっていない。治療は消毒と包帯だけ。骨が折れていなければ翌日には現場に出される。十五年間生きてきて、病院というものに行ったのは灰燼会に拾われる前の、もう思い出せないくらい昔のことだ。注射の痛みと、白い天井と、誰かの手の温かさ。それだけが断片的に残っていて、夢だったのかもしれないとすら思う。

霧島レン。それが俺の名前だ。本名かどうかも怪しい。灰燼会の管理台帳に書かれていた文字列を、そのまま名乗っている。

「——おい、ガキ。止まれ」

声が近い。路地の先、薄暗がりの中に人影が立っていた。回り込まれた。革靴の先が街灯の残光を反射する。灰燼会の中堅構成員、名前は知らない。俺たち末端の駒に名前を教えるような人間は、この組織にはいない。顔だけは覚えている。先月の回収で俺が遅れた時、報告もなしに拳を飛ばしてきた男だ。

背後の足音も止まった。三方を塞がれている。

「鶴見さんからの伝言だ」

その名前で、全部分かった。鶴見——灰燼会の中堅幹部。俺に最初の任務を与えた男。右手の異能を見抜いて「使える」と判断し、回収屋として現場に投入し続けた張本人。あの男の前に初めて立たされた日のことは忘れない。俺の右手を掴んで、火のついた煙草を押し付けて、それでも能力が発動しないかを確かめた。痛みでは発動しない——そう報告書に書かれたらしいことを、あとで別の構成員から聞いた。

構成員が携帯端末の画面をこちらに向けた。暗い路地に、青白い光が浮かぶ。

処分対象:霧島レン。即時執行。

文字を読む前に、意味は声で届いた。

「今回の損失、お前持ちな。つっても払えねえだろ。だから——」

男が笑った。歌舞伎町の夜風に乗って、アルコールと煙草の混じった臭いが鼻を突く。ビルの隙間から吹き込む風が路地の湿った空気をかき混ぜて、排水溝の饐えた臭いまで押し上げてくる。

「お前の代わりはいくらでもいる」

聞き飽きた台詞だ。何十回と聞いた。任務に文句を言えば。報酬を求めれば。痛みを訴えれば。いつだってその一言で終わる。お前の代わりはいくらでもいる。だから黙って従え。だから壊れるまで使え。だから——要らなくなったら捨てろ。

俺は右手を握った。さっきの回収で吸い取った運動エネルギーがまだ掌に残っている。微かに震えるその熱を、ぶつける相手がいる。三対一。密閉された路地。不利なんてものじゃない。

だが、逃げなければ死ぬ。

「——っ!」

最初に動いたのは右側の男だった。伸縮式の警棒が空気を切る音。避けきれない。左肩に鈍い衝撃が走り、体が壁に叩きつけられる。背中のコンクリートの冷たさが、肺の中の空気を押し出した。後頭部がビルの外壁を擦って、ざらついた表面が頭皮を削る感触がした。

右手で壁に触れる。衝突の運動エネルギーを吸収——できた。わずかだが、体の痛みが和らぐ代わりに、右手の熱が増す。

二撃目。今度は正面から。腹に拳が沈み込む。胃の中身が逆流しそうになるのを噛み殺す。膝が折れる。地面に手をつく前にもう一発、側頭部に蹴りが入った。視界が回る。アスファルトの砂利が頬に食い込んで、その小さな痛みだけが妙にはっきりしている。

蓄えたエネルギーを拳に乗せて殴り返せば、一人くらいは倒せるかもしれない。だが残り二人が待っている。仮に三人全員を倒したとしても、灰燼会の追手はまた来る。十人でも二十人でも。組織とはそういうものだ。替えの利かない人間なんていない——少なくとも、俺の側には。

三人目の靴底が背中を踏みつけた。肋骨が軋む。呼吸ができない。口を開けても空気が入ってこない。喉の奥でひゅうひゅうと笛のような音がして、それが自分の呼吸音だと理解するのに数秒かかった。右手の熱が急速に冷めていく。吸収したエネルギーが、体の損傷を補填するように勝手に消費されていく。その感覚を初めて自覚した。砕けかけた肋骨の隙間を、温かい何かが繋ぎ止めている。俺の力が、俺を生かすために勝手に動いている。

——ああ、そうか。俺の力は、壊されるために使われてきたのか。

奪ったエネルギーで攻撃するのではなく、受けた暴力を修復するためだけに費やされてきた。十五年間ずっと。回収の現場で消耗し、帰還後に殴られ、そのたびに力が傷を塞いで、翌日にはまた現場に出る。壊して、直して、また壊す。それが俺の存在意義だった。

血溜まりが広がる。自分の血だ。温かいのは最初だけで、すぐにアスファルトの冷たさに負けて、ぬるく、そして冷たくなる。

頬の下で水たまりが揺れた。歌舞伎町のネオンを遠く映して、赤と青がぐちゃぐちゃに混ざっている。きれいだな、と場違いなことを思った。こんなところで死ぬのに、最後に見るものがきれいだと思えることに、少しだけ救われたような気がした。

構成員の一人が携帯で通話を始めた。「ああ、鶴見さん。終わりました。……いえ、まだ息はありますけど。放置で? 了解っす」

放置。それが俺の処分方法。わざわざ止めを刺す手間すら惜しまれている。

足音が遠ざかる。三人とも去った。路地裏に残されたのは、血と、ゴミ袋の臭いと、動けない俺だけだ。

指先が冷たい。視界の端が暗くなっていく。雑居ビルの非常階段の錆びた手すりが、最後に見えるものになるのだろうか。十五年の人生で、俺が自分の意志で選んだことは何一つなかった。ここで死ぬことすら、誰かの都合だ。

——嫌だ。

声にならない。喉から漏れたのは空気だけで、言葉にならなかった。けれど、確かに思った。

死にたくない。

理由なんかない。この人生に未練があるわけでもない。灰燼会の外に俺を待っている場所も人もない。それでも、体の奥底から湧き上がるその衝動だけは本物だった。右手がぴくりと動く。もう熱は残っていない。空っぽの掌が、それでも何かを掴もうとしている。

そのとき、路地の奥から足音がした。さっきの連中とは違う。硬いヒールの音。一定の間隔。迷いのない歩調。

血で滲んだ視界に、黒い革靴が映った。その足元から、影が——影が、伸びている。街灯の向きとは無関係に。生き物のように。路地の壁を這い、天井を覆い、空気ごと塗り潰すように。影が通った場所の温度が下がるのが分かった。頬に張りついた血が、さらに冷たくなる。

異能者。それも、俺が知っているどの構成員とも次元の違う。

影の主が、俺を見下ろしていた。長い黒髪。端正だが温度のない顔。灰燼会の人間じゃない。見たことのないコートの襟元に、燐光を模した紋章が光っている。

——黒燐。

灰燼会と歌舞伎町の裏社会を二分する、敵対組織の名前だ。

その人物は俺を一瞥しただけで視線を外し、路地の入口に目を向けた。戻ってきた灰燼会の構成員が一人、忘れ物でも取りに来たのか——足を踏み入れた瞬間、影に呑まれた。悲鳴すら上がらなかった。糸が切れた人形のように崩れ落ちる。影が男の足元から胸元まで駆け上がり、一瞬で全身を覆ったかと思うと、男の体から力という力が抜けた。地面に崩れたその姿は、眠っているようにも、死んでいるようにも見えた。

それを見ても、俺は恐怖より先に一つの感情を覚えていた。

——この人は、強い。

強い、と思った。純粋にそう思った。灰燼会で見てきたどの異能とも違う。暴力で相手をねじ伏せるのではなく、存在そのもので空間を支配している。こういう力の使い方があるのかと、血まみれの路地裏で、半分死にかけながら、俺は見惚れていた。

黒髪の人物が、再び俺を見下ろした。感情の読めない瞳。数秒の沈黙。それから、低い声がひとつだけ降ってきた。

「死にたくなければついてこい」

意識が途切れる寸前、俺は——その手を、掴もうとした。

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