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灰燼のレプリカ

第3話 第3話

第3話

第3話

目を覚ましたとき、最初に感じたのは消毒液の臭いだった。

ツンと鼻腔を刺す、安っぽいアルコールの匂い。病院のそれとは違う。もっと濃くて、雑で、必要最低限を満たすためだけに撒かれた臭い。灰燼会のそれと似ていたが、決定的に違うのは——天井が白くないことだった。

コンクリートの打ちっぱなし。配管が剥き出しで走り、LED照明が等間隔に並んでいる。地下だ。窓がない。空気の流れから、かなり深い階にいると分かった。

俺は簡易ベッドに横たわっていた。シーツは清潔で、体には包帯が巻かれている。右目の腫れが引いて、両目で見えることに少し驚いた。肋骨の痛みもある——あるが、昨夜の比ではない。呼吸のたびに軋む程度で、動けないほどじゃない。

誰かが手当てした。それも、灰燼会の消毒と包帯だけの処置とは段違いの丁寧さで。

体を起こそうとした瞬間、左腕に鋭い痛みが走った。見ると、点滴の針が刺さっている。透明な液体がゆっくりとチューブを流れていた。灰燼会にいた五年間で、点滴を打たれたことは一度もない。

「——起きたか」

声は横からだった。パイプ椅子に座った男が、タブレット端末から目を上げずに言った。三十代前半、短髪、白衣の袖をまくっている。左耳にピアスが三つ。医者には見えない。だが手つきは確かだった。点滴のバッグを確認し、俺の右目の腫れを指先で触れて、包帯の具合を見る。手際がいい。

「肋骨四本のひびは二本まで減ってる。自己修復か。聞いてた通りだな」

独り言のように呟いて、男はタブレットに何かを打ち込んだ。俺の返事を待つ気配はない。

「ここ、どこ」

「黒燐の医務室。お前は氷室さんの拾い物だ。それ以上は俺の管轄じゃない」

拾い物。道端のゴミと同じ扱いだ。灰燼会では個体。黒燐では拾い物。呼び方が変わっただけで、扱いは似たようなものかもしれない。

医務室のドアが開いた。入ってきたのは二人。二十代の男女で、どちらも黒い詰襟の制服を着ている。襟元に燐光の紋章。黒燐の構成員だ。

女の方が俺を一瞥して、露骨に眉をひそめた。

「これが灰燼会の使い捨て? ガキじゃん。何に使うの」

男の方は壁に寄りかかって腕を組んだ。

「氷室さんの気まぐれだろ。前にも猫拾ってきてたし」

「猫と異能者は違うでしょ。灰燼会の犬をアジトに入れるとか、副長が知ったら——」

「副長はもう知ってる。止めなかったってことは、氷室さんが何か言ったんだろ」

二人の会話は俺を透過していた。俺がここにいることを認識した上で、俺を無視している。灰燼会と同じだ。末端の駒に意見はない。いるだけ。息をしているだけ。壁と同じ。ベッドに横たわる血まみれの荷物に、話しかける理由がない。

それでも灰燼会とは違う点が一つあった。殴られない。見下す目線はあるが、拳は飛んでこない。蹴りもない。煙草の火もない。それだけで、俺の体は少し緩んでいた。自分でも気づかないうちに、肩から力が抜けていた。

足音がした。硬いヒールが廊下を打つ、あの規則正しい音。

構成員の二人が同時に姿勢を正した。壁に寄りかかっていた男が背筋を伸ばし、眉をひそめていた女の表情から感情が消えた。さっきまでの軽口が嘘のように、二人は直立していた。

氷室カナデが医務室に入った。

黒いコートは脱いでいて、同じ黒の詰襟に身を包んでいる。ただし構成員のものとは仕立てが違う。肩のラインが鋭く、襟が高い。階級を示すものだと直感で分かった。

「下がって」

一言。視線すら向けない。二人は無言で部屋を出た。反論もなければ、敬礼もない。ただ氷室の一声で、空気ごと入れ替わった。さっきまで俺を透過していた空気が、今度は氷室だけを中心に回っている。力関係が音もなく示されて、俺は寒気に似た感覚を覚えた。これが第三席の重さだ。

医者——医者らしき男も立ち上がったが、氷室が手で制した。

「藤堂、状態は」

「肋骨のひび四本中二本が自己修復済み。吸収エネルギーを回復に転換してますね。覚醒度は低いですが、異能の自律性が高い。面白い個体ですよ」

「個体じゃなくて名前で呼んで。霧島レン」

藤堂が一瞬だけ目を丸くして、それから肩をすくめた。「了解。霧島くん、経過は良好。二日で動けるようになる」

氷室がパイプ椅子に腰を下ろした。脚を組み、ポケットから煙草のケースを出して——出しかけて、点滴のチューブを見てケースを戻した。

「灰燼会に何年いた」

「……五年」

「能力の発現は」

「灰燼会に拾われた時にはもう。たぶん、もっと前から」

「誰かに訓練を受けた?」

「受けてない。触れたものの運動エネルギーを吸い取る。それだけ」

氷室の目が細くなった。観察者の目。俺の言葉ではなく、俺の右手を見ている。

「それだけ、ね」

沈黙が落ちた。空調の低い唸りだけが聞こえる。氷室は何かを考えている。数秒か、十秒か。俺にはその沈黙が長く感じられたが、急かす度胸はなかった。

「灰燼会がお前を処分した理由。任務の失敗だと思ってる?」

「……違うのか」

「あの程度の損失で処分はしない。回収屋の駒は消耗品だけど、補充にもコストがかかる。使い潰す方が効率的。お前を処分したのは、損失の補填じゃない」

氷室が立ち上がり、壁に貼られたモニターを操作した。画面に映ったのは、波形のグラフだった。縦軸にエネルギー量、横軸に時間。赤い折れ線が右肩上がりに伸びている。

「黒燐の情報部が灰燼会の内部データベースに侵入して抜いた、お前の異能の計測記録よ。過去五年分」

グラフの意味が俺には分からなかった。だが一つだけ分かることがあった。折れ線は最初緩やかに上がっていたが、ここ半年で急激に角度を変えている。何かが加速している。

「お前の能力には第二段階がある」

氷室の声が、空調の音を切り裂いた。

「運動エネルギーの吸収。それがお前の能力の第一段階。灰燼会はお前をその段階で固定して使い続けるつもりだった。触れたものの運動を奪う便利な道具として。だけどこの数値の推移を見れば分かる——お前の吸収容量は半年前から爆発的に拡大している。閾値を超えれば、第二段階に移行する」

「第二段階って、何が」

「吸収したエネルギーを任意に放出できるようになる。触れずに。お前の体そのものがエネルギーの砲台になる」

意味を咀嚼するのに時間がかかった。今の俺は、触れたものの運動エネルギーを右手で吸い取ることしかできない。それを殴る力に乗せて返すことはできても、あくまで接触が前提だ。それが——触れずに放てるようになる。

「灰燼会はそれを恐れた」

氷室がモニターを消した。画面が暗くなり、コンクリートの壁にLEDの白い光だけが残った。

「コントロールできない兵器は処分するしかない。お前が第二段階に覚醒すれば、灰燼会の末端構成員では制御できなくなる。かといって幹部が直接管理するほどの価値をお前に認めていない。だから閾値を超える前に潰す。それが鶴見の判断」

鶴見。あの男の名前が出た瞬間、右手が勝手に握り込まれた。拳の中に、あの夜路地裏で言われた言葉が蘇る。お前の代わりはいくらでもいる。あの言葉の裏にあったのは、単なる見下しじゃなかった。恐怖だ。俺が強くなることへの、あの男の恐怖だったのだ。

「……あんたは、なんで俺を拾った」

氷室は答えなかった。代わりに、ドアに向かって歩き出した。

「明後日には動ける。動けるようになったら訓練を始める」

「質問に答えてない」

足が止まった。振り返らない。横顔だけが見える。LED照明が顔の左半分を照らし、右半分は影に沈んでいる。車の中で見たのと同じ、あの境界線。

「——捨てられた兵器を、正しく起動させたいだけよ」

ドアが閉まった。ヒールの音が遠ざかっていく。

俺は天井を見上げた。コンクリートの染み一つない表面に、自分の呼吸が反射して戻ってくる気がした。

第二段階。灰燼会が恐れ、処分しようとした力。それを氷室カナデは「正しく起動させる」と言った。正しく。その言葉の意味を、俺はまだ知らない。

ただ一つだけ確かなことがあった。

右手が、熱い。さっきまで空っぽだったはずの掌の奥で、何かが脈打っている。それは灰燼会の任務で吸い取った運動エネルギーとは違う、もっと内側から湧き上がるもの。壊されるために使われてきた力が、初めて——別の方向を向こうとしている。

点滴のチューブの中を、透明な液体がゆっくりと落ちていく。一滴、また一滴。その規則正しいリズムを聞きながら、俺は右手を開いて、閉じて、また開いた。掌の中心が、微かに赤く光っていた。

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