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献身の盾と最弱剣士

第2話 第2話

第2話

第2話

洞窟の空気が変わった。

さっきまで岩壁に反響していた足音が、急に吸い込まれるように消える。代わりに湿った静寂が肌に張りつき、紫の光だけが律動を刻んでいた。呼吸に合わせるように、明滅が速くなる。鼓膜の奥で自分の脈拍が聞こえるほどの沈黙。指先が冷たい。握った木剣の柄だけが、かろうじて体温を保っていた。

通路が開けた。

巨大な空洞。天井は闇に溶けて見えない。床は磨かれた黒曜石のように滑らかで、中央に魔法陣とも回路ともつかない紋様が淡く浮かんでいる。紋様の線は一本一本が微かに蠢き、見つめていると眩暈に似た感覚が視界の端から這い上がってくる。足元から低い振動が伝わってくる。紋様そのものが脈打っているのだと気づくのに、数秒かかった。そしてその奥──紋様の中心に、それは座っていた。

体高4メートルはある獣。骨格が半透明で、内側に紫色の炎が燃えている。頭蓋の輪郭から鋭い角が2本伸び、眼窩には瞳の代わりに光の渦が回転していた。炎は呼吸のたびに膨張と収縮を繰り返し、肋骨の隙間から漏れる光が床の紋様と共鳴するように瞬いている。焦げた骨と硫黄を混ぜたような匂いが鼻腔の奥を刺す。VRが再現する嗅覚がここまで鮮烈なのは初めてだった。

ネームプレートが浮かぶ。

《終焉の番犬 レヴナント・ハウンド Lv.72》

レベル72。私の倍近い。HPバーは画面上部に専用の表示──レイドボス仕様だ。十数人のフルパーティで挑む想定の相手。

「──は、」

笑いが漏れた。笑うしかない。木剣のレベル38が、レイドボスの個室に一人で立っている。冗談みたいな光景だ。

レヴナント・ハウンドの眼窩がこちらを向いた。光の渦が収縮し、品定めするように細くなる。一拍の静寂。それから、空洞全体を揺らす咆哮が叩きつけられた。

音というより圧力。身体が後ろに押され、足が滑る。骨の内側まで震わせるような振動に、一瞬だけ視界がノイズに覆われた。口の中に鉄の味がした──VRが再現する、衝撃の疑似味覚。舌の根が痺れる。

「──来る」

木剣を正眼に構えた。握りの感触が掌に馴染む。998回。999回。数えてきた回数が、身体の芯に染みている。勝てないことなんか最初からわかっている。わかった上で、逃げないと決めたのは999回前だ。

レヴナント・ハウンドが跳んだ。

速い。灰狼とは次元が違う。予備動作の認識が追いつかない──いや、見えてはいる。後脚の筋肉が収縮した0.2秒後に跳躍。軌道は直線。だが速度が、速度だけが、私の反応の外にある。

左に跳んだ。半身ずらした。灰狼なら避けられるタイミング。

避けられなかった。

前脚の一撃が胴を薙いだ。衝撃がVRの触覚リミッターを越えて、内臓まで揺さぶられる感覚。身体が吹き飛び、黒曜石の床を転がった。HPバーが一瞬で8割消し飛ぶ。背中が床を擦る硬い感触のあと、世界が二回転した。天井の闇と紋様の紫が交互に視界を横切る。

「──っ」

起き上がる。膝が震えている。VRの身体が震えるのは恐怖じゃなく、ダメージ後の硬直演出だ。でも──正直、怖かった。レベル差による暴力。パターンを読んでも、技術で補っても、どうにもならない壁。歯を食いしばった。奥歯がぎしりと鳴る音が、頭蓋の内側で反響する。

2撃目。尻尾の薙ぎ払い。これは灰狼にもあるモーション──尻尾が持ち上がった瞬間に伏せれば。

伏せた。風が頭上を切り裂いた。かわした。髪の先を掠めた気流が首筋をなぞり、一瞬遅れて黒曜石の壁面が砕ける音が背後で弾けた。

「──いける」

返す刀で前脚に木剣を叩き込む。手応えは、あった。硬い骨を殴った振動が手首から肘まで走り抜ける。

ダメージ表示、1。

1。

12ですらない。レベル差による防御補正で、木剣の攻撃力が限りなくゼロに丸められている。レヴナント・ハウンドのHPバーは、ピクセル単位ですら動かなかった。

3撃目は見えなかった。

咆哮と同時に放たれた全方位の衝撃波。回避不可。残りのHPが蒸発し、視界が白く弾けた。

《死亡回数:1000》

──ああ。1000回目は、やっぱりこうなるよね。

白い空間に浮かびながら、妙に穏やかな気持ちだった。格上に挑んで、負けて、それだけ。いつもと同じだ。ただ、最後にかわした一撃──あの尻尾薙ぎだけは嬉しかった。レイドボスの攻撃を、木剣のレベル38が一つだけ避けた。

リスポーンボタンに指を伸ばした。

その瞬間、画面が変わった。

白いリスポーン画面の上に、見たことのないウィンドウが重なる。通常のシステムメッセージは青い枠だ。これは違う。枠が紫に脈動している──洞窟の光と同じリズムで。

《──条件達成》 《累計敗北回数:1000》 《隠しスキル【献身の盾】を獲得しました》

「……は?」

声が出た。2年間で初めて、システムメッセージに声を上げた気がする。

隠しスキル。聞いたことがない。『エターナル・フロンティア』は3000万人のプレイヤーが解析し尽くしたゲームだ。スキルツリーもステータスも、攻略Wikiに載っていない情報なんてほぼ存在しない。それなのに──隠しスキル?

紫のウィンドウが展開され、スキルの詳細が表示される。

《【献身の盾】》 《分類:固有スキル(取得条件非公開)》 《効果:パーティメンバーが受けるダメージを100%肩代わりする。肩代わり時、自身のHPは1で固定される(0にならない)》 《発動条件:パーティに所属していること》 《制限:自発的な攻撃力が現在値の50%に低下する》

三回読んだ。

パーティメンバーのダメージを、100%肩代わり。自分はHP1で耐える。

──完全なタンクスキルだ。しかもHP1で死なないという、常識外れの性能。これがあれば、どんな攻撃を受けてもパーティメンバーには傷一つつかない。

でも。

「……パーティに所属していること」

私のフレンドリストはゼロだ。2年間ソロで、PT募集を出したことも、誰かに組もうと言ったこともない。

「ソロプレイヤーに、PT専用スキルって」

笑えない冗談だ。1000回負けた報酬が、一人では使えないスキル。まるで「お前、いい加減に誰かと組め」とシステムに説教されているみたいで、少し腹が立つ。

リスポーンした。荒野の拠点。いつもの夜空。

スキル画面を開き直す。【献身の盾】の項目が、スキルツリーとは別の場所──固有スキル欄に独立して表示されていた。使ったこともないスキルポイント142の横に、ポイント消費ゼロで存在する異質な項目。紫色のアイコンだけが、無機質なステータス画面の中で唯一、呼吸するように明滅している。

攻略Wikiを開いた。検索窓に「献身の盾」と打ち込む。

──該当記事なし。

フォーラムを検索する。「隠しスキル」「固有スキル」「累計敗北」。ヒットはゼロ。3000万人のプレイヤーが走り回るゲームで、誰一人として報告していない。

「……誰も取ったことがないのか、これ」

当然かもしれない。累計1000敗。まともなプレイヤーなら装備を変え、スキルを振り、パーティを組む。わざわざ木剣で1000回負ける人間なんて──少なくとも、効率を求める3000万人の中には、いない。

私を除いて。

スキル詳細画面を閉じようとして、指が止まった。

画面の最下部。スクロールしなければ見えない位置に、灰色の小さなテキストが一行だけ追記されている。通常のスキル説明とは明らかにフォントサイズが違う。まるで隠すように。

《──隠し効果あり》

三文字。それだけ。条件も内容も書かれていない。

心臓が跳ねた。VRの身体は心臓なんて持っていないのに、胸の奥で何かが脈打つ感覚がある。指先がじんと熱くなる。さっきまで冷えきっていた手が、今は木剣を握っていた時より強く血が巡っている気がした。

使えないスキル。情報ゼロ。そして、まだ明かされていない隠し効果。

「……何これ」

洞窟の光と同じ紫色が、スキルアイコンの縁で微かに脈動していた。呼吸みたいに。生きているみたいに。

画面を閉じて、夜空を見上げた。星が流れた。天の川のピクセルが、いつもより少しだけ明るく見えた。

──1000回目の夜は、まだ終わらないらしい。

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