Novelis
← 目次

献身の盾と最弱剣士

第1話 第1話

第1話

第1話

──また死んだ。

視界が白く弾け、リスポーン画面の冷たい青が網膜を塗りつぶす。画面中央に浮かぶ無機質なテキスト。

《死亡回数:998》

「……あと1回で999か」

誰に言うでもなく呟いて、リスポーンボタンを押した。指先に返ってくるのは、使い慣れたガラス質の感触。何百回と繰り返した動作だ。もう手が勝手に動く。

光が収束し、辺境フィールド《忘却の荒野》の拠点に身体が再構成される。夜の草原に吹く風が頬を撫でた。乾いた土と枯れ草の匂いが鼻腔をくすぐる。遠くでは虫の声が細く重なり合い、頭上には天の川を模したピクセルの星々が地平線まで流れている。VRならではの触覚フィードバック──この微細な空気の流れまで再現するから、『エターナル・フロンティア』は全世界3000万人が接続するモンスタータイトルになったのだ。

ステータスを開く。

レベル38。職業:剣士。装備:木剣。スキルポイント残:142(未使用)。フレンドリスト:0。

2年間、何も変わっていない。変えていない。

スキルツリーの画面を横目で見る。142ポイントもあれば、二刀流も盾術も、回避特化ビルドだって組める。攻略サイトに最適解が載っている。でも一度も振ったことがない。ポイントを使えば強くなる。強くなれば勝てる。けれど、それは木剣の自分じゃなくなるということだ。

木剣を握り直す。刀身には無数の傷が刻まれている──耐久値はとっくに赤ゲージだ。修理すれば直るが、この傷ごと自分の記録だと思っている。998回分の。指の腹で刃の欠けをなぞると、ざらりとした凹凸が返ってきた。最初の傷がどの戦いでついたか、もう思い出せない。でも全部、逃げなかった証だ。

荒野の向こうで光の柱が上がった。レイドボスの出現エフェクト。地面が微かに震え、遠雷のような轟音が遅れて届く。すぐに複数のパーティが殺到するのが、ミニマップの光点でわかる。十数個の光が一斉に同じ方角へ動いていく。あの光に向かえば効率よく経験値が稼げる。レベルも上がる。スキルも解放される。

──わかってる。そうすれば強くなれることくらい。

でも、それは私のやり方じゃない。

足を反対方向に向けた。誰もいない辺境の、さらに奥へ。光の柱が背中で輝いていた。歓声のような音声チャットが風に乗って微かに聞こえたが、三歩も歩けば静寂に溶けた。

荒野の外縁部。ここまで来るプレイヤーはほとんどいない。モンスターのレベル帯が中途半端で、効率が悪いからだ。でも私にとっては2年間通い続けた庭みたいな場所で、岩の配置も草の揺れ方も全部覚えている。南側の大岩の影にはいつも《灰狼》のペアが寝ていて、北の枯れ木の根元には時々レアな薬草が湧く。誰にも要らない知識だけど、私にとっては地図に載らない地図だった。

レベル45の《灰狼》が3体、丘の上でうろついていた。月明かりに灰色の毛並みが銀に光り、低い唸り声が地を這うように響く。黄色い瞳がこちらを捉えた瞬間、3体の耳が同時にぴくりと立った。

木剣を正眼に構える。相手のレベルは自分より7つ上。ステ差で言えば本来パーティ推奨の相手だ。でも、パターンは知り尽くしている。右前脚を引いたら突進。耳を伏せたら範囲咆哮。尻尾を振ったらフェイント──。2年間、数えきれないほど斬り合った。この狼たちのことは、たぶん開発者より詳しい。

1体目が突進してきた。地面を蹴る筋肉の収縮が見える。予備動作は0.3秒──体感ではもっと短い。

左にステップ。爪が頬をかすめる。風圧で前髪が揺れ、一瞬だけ肌がひりついた。返す刀で首筋に木剣を叩き込んだ。手のひらに鈍い衝撃が返ってくる。ダメージ表示、たったの12。木剣の攻撃力なんてそんなものだ。灰狼のHPバーは微動だにしない。灰狼のHPは4800。12ダメージで削るには400回の正確な攻撃が必要になる計算だ。1体に、400回。それを3体。

それでも、繰り返す。

避けて、打つ。避けて、打つ。避けて──。

息が上がる。VRで息は切れないはずなのに、脳が勝手に呼吸を荒くする。集中が身体を侵食する感覚。2体目の爪撃を紙一重でかわし、すれ違いざまに脇腹へ一閃。12。また12。

3体同時に囲まれた。三角形の頂点に、それぞれが立っている。逃げ場がない。咆哮のタイミングが重なり、回避が間に合わない。音の壁が身体を叩き、視界が揺れた。衝撃波に吹き飛ばされ、HPが一気に溶ける。地面に叩きつけられる背中の衝撃。空が回った。

《HP:0》

998回目に続く、999回目の死。

リスポーン画面が表示される直前、視界の端で笑い声が聞こえた。

「見ろよ、まだいるぜあの木剣」 「マジ? まだレベル38なの?」 「効率ゼロじゃん。何が楽しいんだろ」

5人パーティがこちらを見ていた。全員レベル70超え。揃いの装備は大手ギルドの制式だろう。磨き上げられた金属鎧が月光を反射して、まぶしいほどだった。先頭のプレイヤーが嘲笑のエモートを飛ばしてきた──キャラクターが腹を抱えて笑うモーション。

「PT組む? あ、ごめん、レベル制限に引っかかるわw」

ケラケラ笑いながら通り過ぎていく。彼らの足音はすぐにレイドボスの方角へ消えた。

私は何も返さなかった。チャット欄は空白のまま。2年間ずっとそうだ。返す言葉がないんじゃない。返す相手がいないことに慣れすぎて、声の出し方を忘れた。胸の奥が少しだけ軋んだ。痛みとは違う。もっと古くて、乾いた感覚。錆びた蝶番みたいに、開こうとしても動かない場所がある。

リスポーン。

同じ荒野。同じ夜空。同じ木剣。

──なんで続けてるのか、自分でもうまく説明できない。

現実の私は、何者でもない。朝起きて、仕事に行って、帰って、ログインする。職場では名前じゃなくて席番号で呼ばれている気がする。現実の人間関係は必要最低限。別に辛いわけじゃない。ただ、あっちの世界では自分が透明な気がする。ここでも透明だけど──少なくとも、木剣を振る自分は嘘じゃない。998回負けても逃げなかった自分は、現実のどの自分より確かだ。

誰にも理解されなくていい。誰かに認められたいわけでもない。

ただ、この手で戦っている時間だけが、自分のものだと思える。

「……999回か」

死亡カウンターの数字を見つめた。桁が変わるのを、少しだけ感慨深く思った。999回負けた。999回、逃げなかった。この数字は誰も知らない私だけのスコアだ。スクリーンショットも撮らない。配信もしない。誰かに見せるための数字じゃない。ただ、ここにある。

ログアウトボタンに指を伸ばしかけて──止めた。

まだ、今夜は終わりたくない。

もう少しだけ奥に行こう。2年間で一度も踏み入れたことのないエリアがある。荒野の最深部。マップ上ではグレーアウトされた未踏破ゾーンだ。レベル帯的に行くだけ無駄だと、最初から切り捨てていた場所。

「999回負けた記念に、ちょっと散歩くらいいいでしょ」

自分に言い訳しながら、荒野の果てへ歩き出す。

草がまばらになり、地面が岩肌に変わる。風が止まった。VRの空気が変質したのがわかる──環境音が減り、足音だけが反響する。温度も下がった気がした。肌がうっすらと粟立つ。さっきまで聞こえていた虫の声が完全に消え、代わりに岩壁の隙間から低い共鳴音がうねるように漏れていた。

そして、見えた。

岩壁に穿たれた洞窟の入口。その奥から、淡い紫色の光が脈動している。吐息のようなリズムで明滅を繰り返す光は、見つめていると心臓の鼓動と同期していくような錯覚を覚えた。

システムメッセージが右上に表示された。

《未踏破エリア『終焉の残響』──推奨レベル:60以上》

レベル60以上。私のほぼ倍。パーティ前提、フル装備前提の高難度エリア。木剣のレベル38が入っていい場所じゃない。

──わかってる。

光が明滅した。まるで呼んでいるみたいに。

「推奨レベル60、ね」

木剣を握り直す。998回と同じように。999回と同じように。掌にはもう木の握りの形が馴染んでいて、構えるだけで呼吸が整う。

「……1000回目は、ここでいいか」

洞窟の闇に、一歩を踏み出した。紫の光が私の影を長く引き伸ばし、背後で入口の光が細くなっていく。振り返らなかった。

奥から、何かの鼓動が聞こえる。

低く、重く、この世界のBGMにはない音。岩壁が共鳴して、足元から骨まで震わせるような振動。

──生きている。この洞窟の最奥に、何かがいる。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ