第2話
第2話
朝が来た。死刑執行まであと一日——そんな大げさな言い方が、冗談に聞こえないのが笑えない。
六畳一間の天井には雨染みがある。人の顔みたいな形をしていて、毎朝目が覚めるたびにそいつと目が合う。今日もそいつは無表情に俺を見下ろしていた。窓の外ではカラスが鳴いている。ゴミの日だ。表の世界は今日も平常運転らしい。
身体を起こすと、あちこちが軋んだ。昨夜の雨に打たれたまま歩き続けたツケだ。喉の奥がひりつく。風邪の前兆だと思ったが、どうでもいい。明後日——いや、もう明日だ。明日の自分が風邪を気にしている余裕があるかどうかすら怪しい。
事務所に着いたのは八時過ぎだった。雑居ビルの二階、鉄鎖の拠点。階段を上がると煙草の煙と缶コーヒーの匂いが鼻を突く。安物のパイプ椅子が並んだ部屋の奥で、金城が足を組んでいた。
「早いな、灰島。感心だ」
金城は煙草をくわえたまま笑った。机の上に地図が広げてある。所々に赤いマーカーで印がつけてあった。
「明日の段取りを説明する。聞け」
俺は黙って頷いた。
「相手は赤鬼会(あかおにかい)。Eランクだがな、最近よそから武闘派を借りてきて調子に乗ってる連中だ。取引場所は湾岸の倉庫群——C-7ブロック。お前は二十一時ちょうどに正面から入れ。荷物を持ってな」
「……正面から」
「そうだ。お前が正面口で注意を引いてる間に、俺たちが裏手から入る。挟み撃ちだ。簡単だろう?」
簡単。正面から丸腰同然で突っ込んで、武闘派の視線を集めろ。それのどこが簡単だ。
「荷物は?」
「空だ。中身は新聞紙でも詰めておけ。どうせ開ける前にこっちが突入する」
——開ける前に、じゃない。開けさせる前に俺が時間を稼げ、だ。何秒持つかわからない人間の時計で。
金城の目を見た。薄い茶色の瞳に、何の感情も浮かんでいない。煙草の煙が上に向かって細く伸びている。俺が死んでも、この男は同じ顔で次の煙草に火をつけるだろう。
「わかりました」
それだけ言って、事務所を出た。階段を降りながら、自分の声がひどく平坦だったことに気づいた。怒りも恐怖も表に出さなかった。出せなかったんじゃない——出す意味がないと、身体が判断した。感情を見せれば弱みになる。弱みを見せれば殴られる。二年間で刷り込まれた条件反射だ。
翌日。二十時四十五分。
湾岸地区の倉庫群は、潮の匂いと錆の匂いが混ざった場所だった。夜風が海から吹き付けて、剥き出しの鉄骨をひゅうひゅうと鳴らしている。フォークリフトが放置されたままのコンクリートの広場を抜け、C-7ブロックの前に立った。
黒いビニール袋を持っている。中身は新聞紙。重さだけはそれらしく調整した。
倉庫のシャッターは半分開いていて、中から白い蛍光灯の光が漏れている。人の気配。三人、いや四人か。足音と、低い話し声。
時計を見る。二十時五十八分。
あと二分。
心臓がうるさい。指先が冷たい。唇が乾く。こういうとき、映画の主人公なら格好いい台詞の一つでも吐くんだろう。俺にはそんな余裕はない。ただ膝が笑わないように、歯を食いしばるだけだ。
二十一時。
足を踏み出した。シャッターの下をくぐり、倉庫の中に入る。
蛍光灯が二本、天井からぶら下がって白い光を落としている。コンクリートの床に木箱が積み上げられ、その間に四人の男が立っていた。全員、革ジャンか黒いジャンパー。一人がバットを肩に担いでいる。もう一人の腰には、銀色に光るものが見えた。
「おう。鉄鎖か」
正面の男が顎を上げた。坊主頭に、左頬から顎にかけて走る傷痕。声が太い。
「荷物です」
ビニール袋を掲げた。声が震えなかったのは奇跡だ。
「確認させろ」
坊主頭が近づいてくる。残りの三人は動かない。だが、こちらを値踏みするような目が刺さる。
——まだだ。裏手から金城たちが来るまで、持たせろ。
「中身、先に見せたほうがいいですか?」
時間を稼ぐ。何でもいい、一秒でも長く。
「いいからよこせ」
坊主頭の手がビニール袋を掴んだ——その瞬間、倉庫の裏口が蹴り破られた。
金城たちが来た? いや、違う。入ってきたのは見知らぬ男たちだった。五人、六人——数えきれない。黒い目出し帽にジャンパー、手にはバールや鉄パイプ。
「赤鬼会、終わりだ!」
怒声が倉庫に反響した。
赤鬼会でもない。鉄鎖でもない。第三の組織——誰だ?
混乱は一瞬だった。坊主頭が舌打ちして後ろに飛び、バットの男が木箱を蹴倒す。木箱が割れて中身が散乱する。鉄パイプとバールが振り回され、怒声と悲鳴が入り混じった。
俺は壁際に張り付いた。逃げなければ。正面のシャッターは——ふさがれている。目出し帽の一人がシャッターの前に立っていた。裏口も乱入者で埋まっている。
逃げ場がない。
「おい、ガキ——鉄鎖の奴か!」
目出し帽の一人が俺を見つけた。距離は五メートル。手にナイフ。蛍光灯の光を受けて、刃が白く閃いた。
走った。木箱の陰に飛び込み、転がるように反対側へ抜ける。背後で金属が壁にぶつかる音がした。ナイフを投げた? 違う、鉄パイプだ。肩をかすめて、衝撃が走る。
痛みを無視して走る。出口。出口はどこだ。
倉庫の側面に小さな搬入口があった。鍵はかかっていない。体当たりで押し開け、夜気の中に転がり出た。
路地。倉庫と倉庫の間の狭い通路。幅は一メートルもない。暗い。足元が見えない。
走れ。
三歩目で、背中に衝撃が来た。
突き飛ばされたのだと理解するのに一秒かかった。地面に叩きつけられ、コンクリートで頬を擦る。血の味が口の中に広がった。振り返ると、目出し帽の男が立っていた。追いつかれた。手にはナイフ——今度は間違いない。
「鉄鎖のガキが、一匹逃したら示しがつかねえんだよ」
蹴りが腹に入った。息が止まる。続けてもう一発。胃の中身がせり上がる。地面に這いつくばった俺の髪を男が掴み、引き上げた。
そして——腹部に、冷たい感触。
刺された、と思った。不思議と痛みより先に冷たさが来た。金属が体内に押し込まれていく感触が、やけに鮮明に伝わってくる。引き抜かれた瞬間、ようやく痛みが爆発した。
声にならない叫びが喉から漏れた。膝が折れる。男の手が離れて、俺は路地の地面に崩れ落ちた。
腹を押さえた手が、温かい液体でぬるぬると滑る。血だ。自分の。暗い路地の地面に、黒い水溜まりが広がっていくのが見えた。
男の足音が遠ざかる。用は済んだ、とでも言うように。
仰向けになった。空を見上げようとしたが、倉庫の壁に挟まれた狭い空は暗い雲に覆われていて、何も見えない。
寒い。四月なのに、真冬みたいに寒い。指先の感覚がなくなっていく。視界の端が暗くなる。
——ああ、死ぬのか。
不思議と、恐怖は薄かった。むしろ、どこか納得している自分がいた。そうだろうな、と。灰島レンの人生なんてこんなものだろう、と。使い捨ての駒は、使い捨てられて終わる。それが順当な結末だ。
目を閉じかけた、そのとき——
視界が、反転した。
闇が白くなった。いや、白いんじゃない。透明——いや、それも違う。言葉が見つからない。世界の見え方そのものが根本から変わった。
倉庫の壁が透けている。コンクリートの中に、無数の線が走っていた。赤い線、青い線、白い線。太さも密度もバラバラで、複雑に絡み合いながら壁という構造を支えている。
地面にも。空気にも。自分の身体にも——線がある。
構造線。そう呼ぶしかない何か。物質を物質たらしめている、目に見えない骨格のようなもの。
手を伸ばした。指先が壁に触れた。触れた瞬間、構造線の一本が——解けた。
ほどけたのだ。糸がほつれるように、一本の線が消えた。そこから波紋のように崩壊が広がる。構造線が次々と消失し、コンクリートの壁が——砂になった。
粒子になった壁がさらさらと崩れ、夜風に攫われて消えていく。俺の目の前に、倉庫一枚分の壁があったはずの空間が、ぽっかりと口を開けていた。
何が——何が起きた?
意識が遠のいていく。腹部の出血は止まっていない。だが、あの線が見える。まだ見える。自分の腹部を走る線——赤黒く、脈打つように明滅している。
身体の線は、壁のそれとは全然違った。有機的で、複雑で、一本に触れれば全体が連鎖しそうなほど密に絡み合っている。これに触れたら何が起きる? わからない。わかりたくない。
視界が暗転した。構造線が見えなくなる。身体が冷たい地面に沈んでいく感覚。遠くで倉庫の中の怒声がまだ聞こえる。もっと遠くで、救急車のサイレン。どこかの誰かを助けにいくサイレンだ。俺のためじゃない。
最後に見えたのは、砂になった壁の残骸だった。ありえない光景。夢か幻覚か、死にかけた脳が見せる走馬灯の一種か。
——でも、あの線は確かに見えた。
指先に、まだ残っている。構造線に触れたときの、あの感触。何かの結合を解いたときの、ぷつりという手応え。
意識が途切れる直前、一つだけ確かなことがあった。
あの壁を壊したのは——俺だ。
暗闇の中に沈んでいく。血溜まりの温もりだけが、最後まで俺の背中に張り付いていた。