第1話
第1話
雨に濡れた歓楽街の裏路地は、腐った生ゴミと小便の匂いが混ざり合って、吐き気がするほど甘い。排水溝から溢れた黒い水が足元を這い、どこかの店の換気扇が低く唸りながら油混じりの熱気を吐き出している。
午前二時。俺——灰島レンは、黒いビニール袋を抱えて走っていた。中身は知らない。知る必要もない。Eランク犯罪組織「鉄鎖(テッサ)」の末端である十六歳のガキに、荷の中身を確認する権利なんてものは存在しない。
「二十三分以内に届けろ。遅れたらわかってるな」
三十分前に告げられた言葉が、まだ鼓膜にこびりついている。幹部の金城が煙草の火を俺の首筋に近づけながら言った台詞だ。あの赤い光点が肌から三センチほどのところで止まったとき、熱よりも先に恐怖が毛穴という毛穴から噴き出した。声は穏やかだった。穏やかなほうが怖いと、もう身体が覚えてしまっている。
角を曲がる。水溜まりを踏む余裕もなく、真っ直ぐに突っ切った。靴の中がぐちゃりと鳴る。雨脚が強くなってきた。ネオンの光が濡れたアスファルトに反射して、赤や青の模様を描いている。綺麗だと思う感性は、とっくに摩耗していた。
この街——東京の裏側には、表の人間が知らない秩序がある。
犯罪組織はS~Eの六段階にランク付けされていて、ランクが上がるほど警察の手が届かなくなる。Aランク以上になると所轄どころか公安すら見て見ぬふりをする。Sランクに至っては、その名前を口にしただけで裏社会の人間が黙る。「不可侵」。それがSランクに与えられた、国家公認の称号だ。
鉄鎖はEランク。最底辺。ゴミ溜めの中のゴミ。そんな組織にすら使い潰される俺は、じゃあ何だ?
——考えるな。走れ。届けろ。生き延びろ。
受け渡し場所のコインランドリーに滑り込んだのは、二十一分後だった。蛍光灯がちらつく店内で、革ジャンの男が腕を組んで待っていた。乾燥機が一台だけ回っていて、中の衣類がごとん、ごとんと鈍い音を立てている。洗剤の化学的な甘さと、男の革ジャンから漂う獣脂のような体臭が混ざって、狭い店内に充満していた。無言でビニール袋を差し出す。男は中身を確認し、顎をしゃくって「行け」と示した。
それだけ。礼もなければ、報酬の話もない。俺への報酬は「明日も生きていられること」だ。金城はそう言って笑う。冗談みたいだが、冗談じゃない。逃げようとした奴が川に浮いたのを、俺は知っている。
帰り道は歩いた。走る理由がもうない。雨は相変わらず降っていて、Tシャツが肌に張り付いて重い。組織から与えられた六畳一間のアパートに戻るだけの道のりが、やけに長く感じた。
だが、その夜は真っ直ぐ帰れなかった。
鉄鎖の事務所が入っている雑居ビルの裏口を通りかかったとき、二階の窓から声が漏れていた。金城の声と、もう一人——組織のトップ、鷲尾の声だ。
窓はわずかに開いていた。煙草の煙を逃がすためだろう。その隙間から、白い煙が糸のように漂い出て、雨に溶けて消えていく。俺は反射的に壁際に身を寄せた。息を殺す。心臓が早鐘を打つのが、自分でもわかった。背中を押し当てたコンクリートの壁が、雨水を吸って冷たく湿っている。その冷たさが薄いTシャツ越しに背骨まで染みて、身体の芯が震えた。
「明後日の取引、囮は灰島を使え」
鷲尾の声は事務的だった。天気の話でもするような口調で、俺の名前を出した。
「あいつか。まあ、ちょうどいいですね。向こうの武闘派が出張ってくるって話ですし、最初に突っ込ませて注意を引ければ十分でしょう」
金城が笑う。煙草の匂いが窓の隙間から漂ってくるような気がした。
「死んだら?」
「替えはいくらでもいますよ。Eランクなんてそんなもんです。駒の頭数だけは足りてますから」
鷲尾が鼻で笑うような短い息を漏らした。「処分費がかからんだけマシか」——その一言が最後に聞こえて、窓が閉まる音がした。
窓の下で、俺は立ち止まっていた。雨が顔を打つのも感じなかった。
知っていた。わかっていた。自分が「駒」であることくらい、とっくに。この二年間、組織の言いなりになって走り回って、殴られて、それでも生きてこられたのは、たまたま使い道があったからだ。使い道がなくなれば捨てられる。壊れた道具と同じだ。
知っていたはずなのに、実際に言葉として聞くと、胸の奥で何かが軋んだ。
怒り——じゃない。悲しみ——でもない。もっと冷たくて、もっと静かなもの。感情の名前がわからない。ただ、胸の中にぽっかりと穴が空いたような感覚だけがあった。まるで心臓のあたりに手を突っ込まれて、中身をごっそり抜き取られたような——空洞。風が吹き抜ける空洞だ。
「……替えは、いくらでも」
口の中で繰り返した。唇が震えたのは寒さのせいだと、自分に言い聞かせた。
雑居ビルから離れて、当てもなく歩いた。繁華街の喧騒はとうに遠ざかり、街灯すらまばらな住宅街に入っても、足は止まらなかった。濡れた運動靴が歩くたびにきゅっ、きゅっと間抜けな音を立てて、静まり返った住宅街にやけに響いた。どこかの家の窓に明かりが灯っていて、カーテン越しにテレビの青白い光が揺れているのが見えた。あの中には、明日の朝ごはんの心配だけして眠れる人間がいるのだろう。
十四のとき、身寄りのない俺を鉄鎖が「拾った」。飯を食わせてやる代わりに働けと言われ、断る選択肢はなかった。最初は掃除や買い出しだった。半年で運び屋になり、一年で「使い勝手のいい駒」になった。
逃げればいい。何度もそう思った。だが逃げた先に何がある? 身分証もない、学歴もない、頼れる人間もいない十六歳のガキが、この街で一人で生きていけるわけがない。鉄鎖の外にも裏社会は広がっていて、Eランクの逃亡者なんて、他の組織にとっては格好の獲物だ。
結局、檻の中にいるほうがまだ安全だという、最悪の計算が俺をここに繋ぎ止めていた。
ふと足が止まった。見上げると、公園のフェンスの向こうにブランコが揺れていた。風のせいだ。誰も乗っていない。鎖が錆びた音を立てて、きぃ、きぃ、と鳴る。
——明後日、俺は囮にされる。
武闘派が出張ってくる現場に、最初に突っ込まされる。生き残れる保証はない。というより、生き残ることを期待されていない。
替えはいくらでもいる。
その言葉が、雨音の中で何度もリフレインした。
俺は錆びたフェンスに背中を預けて、空を見上げた。雨粒が目に入って、視界が滲む。泣いているみたいだと思ったが、泣いてはいなかった。涙を流すほどの感情すら、もう残っていない気がした。
明後日。
あと二日で、俺は使い捨ての駒として消費される。
拳を握った。爪が掌に食い込んで、じわりと痛みが走る。四本の指が白くなるほど握りしめて、その痛みだけが今の俺に「生きている」と教えてくれる唯一のものだった。
——それでも。
それでも明日の朝が来たら、俺はまた金城の前に立って、次の指示を待つのだろう。逆らう力もなく、逃げる場所もなく、ただ生き延びるために従い続ける。
それが、灰島レンの世界の全てだった。
雨は止まない。ブランコの鎖が、まだ鳴っている。きぃ、きぃ、と。まるで誰かが助けを求めているみたいに——いや、それは俺自身の声だったのかもしれない。
口を開きかけて、やめた。叫んだところで、この街は何も返してくれない。
ポケットの中で、携帯が震えた。画面を見る。金城からのメッセージ。画面の光が暗闇の中で不自然に白く浮かび上がり、雨粒が液晶の上を流れていく。
『明後日の件、朝イチで事務所に来い。詳細を伝える』
——詳細。囮の詳細。死に方の手順書。
親指が画面の上で止まった。既読をつけるかどうか、数秒だけ迷った。つけなければ殴られる。つければ、あと二日の猶予が始まる。
既読をつけた。
そしてまた、歩き出した。六畳一間のアパートに向かって。明日も生きているために。明後日、死ぬかもしれないとしても。
フェンスの向こうで、ブランコが最後に一度大きく揺れて——止まった。