第3話
第3話
最初に感じたのは、痛みだった。
腹の奥を焼け火箸で抉られているような、鈍く重い痛み。それが意識の底まで沈んでいた俺を、無理やり水面まで引きずり上げた。
目を開ける。視界がぼやけている。暗い。冷たい。背中の下にコンクリートの感触。路地裏だ。まだ、あの倉庫の間の狭い通路に倒れている。
どれくらい気を失っていた? 空は相変わらず暗い雲に覆われていたが、倉庫の中から聞こえていた怒声は消えていた。サイレンも遠ざかっている。静寂だけが、潮の匂いと一緒に路地に溜まっていた。
腹を押さえた。手のひらがぬるつく。血はまだ流れているが、さっきほどの勢いはない。出血が収まったのか、出す血が残っていないのか——どっちにしろ、今すぐ死ぬ感じではなかった。
身体を起こそうとして、腹に激痛が走った。歯を食いしばり、壁に手をついて上体を持ち上げる。視界がぐらつく。吐き気が込み上げて、口の中に酸っぱい液体が広がった。冷や汗が額から顎へ伝い落ちて、コンクリートに小さな染みを作った。
——あの壁。
正面に、あるはずのものがなかった。倉庫の壁が一枚、綺麗に消失している。コンクリートの断面が嘘みたいに滑らかで、まるで最初からそこに壁なんてなかったみたいだった。地面に灰色の砂が薄く積もっている。壁だったもの。俺が触れて、砂にしたもの。
夢じゃなかった。
右手を見た。普通の手だ。汚れと血がこびりついた、十六歳のガキの手。何も変わっていない——はずなのに、指先にまだあの感触が残っている。構造線に触れたときの、ぷつりという手応え。爪の間に入り込んだ灰色の砂粒が、さっきの出来事の動かぬ証拠だった。
もう一度、あれが見えるのか?
恐怖と、それを上回る衝動があった。理由は自分でもわからない。ただ、確かめなければいけないという直感だけが俺を動かした。
壁に手をついたまま、意識を集中する。集中——というより、力を抜く感覚に近い。目を細めて、焦点をずらすように。視界の奥にある別のレイヤーを覗き込むように。
見えた。
構造線が、また視えた。
壁を走る無数の線。前よりもはっきりと認識できた。太い線と細い線がある。太い線は白く輝いていて、壁の骨格を成している。細い線は青みがかった淡い光で、太い線の間を網目のように繋いでいた。
色が違う。太さも違う。それが何を意味するのか——直感的に理解した。太くて白い線は結合が強い。構造の中核。これを解けば全体が崩れる。細くて青い線は補助的な結合。一本解いたくらいでは何も起きない。
地面のコンクリートにも線が走っている。壁とよく似た配色だが、密度が違う。地面のほうが線の間隔が広い。踏み固められた路面は壁よりも構造が粗い——そういうことか。
右手の指先を、壁に押し当てた。
構造線の一本に触れる。細い青い線を選んだ。恐る恐る、意識を向ける。ほどけ、と念じたわけじゃない。ただ「これを解きたい」と思っただけだ。
ぷつり。
指先に、あの感触。糸を切るような小さな手応え。青い線が一本消えた。消えた箇所のコンクリートが、直径二センチほどの円形にぽろりと崩れた。表面が薄く剥がれただけ。壁は健在だ。
制御できる。さっきの暴発とは違う。狙った一本だけを、選んで解ける。その事実が、恐怖と同じくらいの安堵を連れてきた。
次に、白い太い線に触れてみた。指先を這わせると、線が脈打つように振動しているのがわかった。硬い。さっきの青い線とは抵抗感が全然違う。こめかみの奥に鈍い圧迫感が生まれ、集中を維持するだけで体力が削られていくのを感じた。だが、意識を集中して力を込めると——
ぶつん。
白い線が弾けるように解けた。途端に、周囲の青い線が連鎖的に消失し、壁の一角が拳大の範囲で砂になって崩れ落ちた。崩れた砂が靴の甲に降りかかり、乾いた粉の匂いが鼻腔を刺した。
息を呑んだ。白い線を一本解いただけで、これだけの範囲が崩壊する。構造線の色と太さは、そのまま物質の結合強度を示している。白くて太い線ほど壊したときの影響が大きい。
——これが、俺の力。
触れた物の構造的結合を解除する能力。構造線の色と太さを読み取ることで、どこを解けば何が起きるかを予測できる。破壊の設計図が、見えている。
名前はない。誰にも教わっていない。だが、この力が何をするものなのかは、もう理解した。
自分の身体を見下ろした。腹部の刺し傷の周囲に、赤黒い構造線がうごめいている。他の部位の線とは明らかに異質だった。太くて、密で、脈動のリズムが不規則。触れたらどうなるか——想像して、指を引っ込めた。
壁やコンクリートとは訳が違う。人間の身体の構造線は複雑すぎる。一本解いたら何が連鎖するかわからない。今の俺には、自分の傷を治すことも、悪化させることもできない。ただ見えるだけだ。
構造線の視界を解除した。意識を通常に戻すと、途端に腹の痛みと全身の疲労が押し寄せてきた。壁に寄りかかったまま、荒い息をつく。このまま路地裏で倒れていたら、朝までに出血で死ぬか、衰弱で死ぬか。どちらにしろ終わりだ。
動け。
足を引きずりながら路地を歩いた。壁伝いに、倉庫群の外縁を目指す。途中で二度、膝が折れた。そのたびに歯を食いしばって立ち上がった。シャツの裾を引き裂いて腹部を縛る。止血なんて呼べる代物じゃないが、何もしないよりはましだ。布を締めた瞬間、傷口が焼けるように痛んで、視界の端が白く明滅した。
倉庫群を抜けた先に、高架下の空きスペースがあった。ホームレスが使っていた形跡がある。段ボールが積まれ、ブルーシートが柱に括り付けてあった。人の気配はない。
ここなら、少しだけ休める。
段ボールの上に横たわった。冷えた身体にブルーシートを被せる。潮風を遮るだけで、僅かに体温が戻ってくるような気がした。
目を閉じる。眠ってはいけない。刺し傷を負った人間が意識を手放したら、二度と目覚めない可能性がある。わかっている。わかっているのに、瞼が重い。
構造線のことを考えた。あの力があれば、壁を壊せる。物を砂にできる。使い方次第では——武器になる。人に向けたらどうなる? 肉体の結合を解除したら? 想像して、背筋が冷えた。自分の力に対する恐怖と、もう一つ。
もしあの力があの夜——金城に煙草を押し付けられそうになった夜にあったら。もし鉄鎖に拾われたときにあったら。二年間、駒として使い潰される人生を送る必要はなかったんじゃないか。
考えても仕方ないことだ。力は今、目覚めた。過去は変えられない。問題は——
足音が聞こえた。
一つじゃない。複数。高架の向こう側から、規則的な足音が近づいてくる。
身体が凍った。段ボールの上で息を殺す。ブルーシートの隙間から外を窺った。暗闘の中に、懐中電灯の光が揺れている。二つ。いや、三つ。光の輪が高架下のコンクリートを白く切り取りながら、じりじりと距離を詰めてくる。
「この辺だって話だ。血痕が倉庫裏からここまで続いてる」
声。聞き覚えがある——鉄鎖の構成員だ。名前は知らない。だが、あの事務所で何度かすれ違った男の声だ。
「金城さんの指示だ。灰島を見つけ次第、処理しろ」
処理。
その一語が、腹の傷よりも深く臓腑に突き刺さった。囮として使い捨てるだけでは済まなかったらしい。倉庫の一件で何があったか知らないが、鉄鎖にとって俺はもう——口封じが必要な存在になった。逃がしてもらえるとどこかで思っていた自分の甘さに、吐き気がした。
もう一つの声が言った。
「つっても、刺されてんだろ? どうせその辺で野垂れ死んでんじゃねえの」
「死体でもいい。確認しろって言われてんだ。見つからなきゃ俺らが怒られる」
懐中電灯の光が、高架下のコンクリートの柱を舐めるように這った。段ボールの山に近づいてくる。あと十メートル。あと五メートル。心臓の音が耳の奥で暴れていた。呼吸を止めると、代わりに傷口が脈打って、腹の底から熱い痛みがせり上がってくる。指先が冷たく痺れている。段ボールの端を掴む手に、力が入らなかった。
俺はブルーシートの下で、自分の手を見た。血に汚れた、震える手。この手で構造線に触れれば——壁を崩したように——人間の結合だって、解ける。
光が、ブルーシートの端を照らした。
「おい。あそこ——」