第2話
第2話
廃ビルは、死んでいた。
それが最初の印象だった。歌舞伎町一丁目、靖国通りから二本入った裏通りの突き当たり。七階建てのテナントビルは半年前まで飲食店やマッサージ店がひしめいていたはずだが、今は窓という窓が合板で塞がれ、正面入口には「立入禁止」のバリケードが無造作に置かれている。開発凍結の看板が風雨に晒されて文字が滲み、所有者の連絡先すら読めない。
午前四時二十分。空が灰色に白み始めている。俺はビルの外周を一巡りした。情報屋の基本——中に入る前に出口を確認しろ。正面、裏口、非常階段。裏口は溶接で塞がれていた。非常階段は二階部分から折りたたみ式のラダーが下りるタイプで、内側からしか展開できない。つまり、入口は正面の一択。
バリケードのパイプに手をかけると、簡単に動いた。錆びたボルトが外れている。誰かが最近ここを通った痕跡だ。俺はスマートフォンのライトを点け、隙間から身体を滑り込ませた。
エントランスの床にはコンクリートの粉塵が薄く積もっていて、複数の足跡が残っていた。だが妙だ。足跡は入口から奥に向かって続いているのに、戻ってきた形跡が一つもない。全員が入って、誰も出ていない。
腐った壁紙の匂いと、かび臭い空気が鼻腔を刺す。その奥に、もう一つ——鉄錆に似た、しかしもっと生々しい匂いが混じっていた。知っている匂いだ。この街で何度か嗅いだことがある。
血の匂いだ。
エレベーターは当然動かない。非常階段の鉄扉を引くと、蝶番が錆の悲鳴を上げた。階段の壁に手をつきながら上がる。二階、三階、四階。フロアごとに足跡の数が減っていく。五階で一人分になり、六階でそれも消えた。
代わりに、別のものが現れた。
壁に黒い染みが走っている。塗料でも煤でもない。触れてみる気にはなれなかった。染みは階段の壁を這うように上に続き、七階——最上階への扉に吸い込まれていた。
扉の前で足が止まった。ここから先は「知らなかった」ことにできる領域だと、身体の奥の何かが警告していた。トキの声が脳裏に蘇る。来るな。お前はまだ"視えて"ないなら——。
だが、俺の足は止まらなかった。情報屋の業だ。知りたいという衝動は、恐怖より根が深い。
七階の鉄扉をゆっくりと押し開けた。
フロア全体がワンルームだった。間仕切りが撤去され、コンクリートの柱だけが等間隔に立つ広い空間。合板で塞がれた窓の隙間から、夜明け前の灰色の光が細く差し込んでいる。
最初に目に入ったのは、床に散らばった靴だった。スニーカー、革靴、ヒールのサンダル。五、六足。持ち主の姿はない。
次に——匂い。一階で感じた血の匂いが、ここでは桁違いに濃い。胃の底から酸っぱいものがこみ上げ、口を手で覆った。
そしてフロアの奥、最も暗い隅に——それがいた。
人の形をしていた。正確には、人の形を模していた。身長は二メートル近く、輪郭が揺らいでいる。影を固めて人型に押し込んだような、そんな存在。腕に見える部分が二本、脚に見える部分が二本。だが関節の位置がおかしい。肘が逆に曲がり、首が九十度横に折れた状態で——何かを抱え込んでいた。
生きた人間だ。
男。年齢は分からない。ぐったりと力を失った身体を、その影の腕が包み込んでいる。まるで母親が赤子を抱くような姿勢で。だが行われていることは真逆だった。影の胸に当たる部分が口のように開き、男の身体から何かを——光とも煙ともつかない淡い靄を吸い上げている。男の輪郭が薄くなっていく。存在そのものが削り取られるように、人間としての「厚み」が失われていく。
目が合った。
影の頭部に目はない。顔と呼べるものもない。なのに、そいつが俺を認識した瞬間が分かった。空気の質が変わった。フロア全体の温度が二度下がったような寒気。俺の肌が総毛立ち、心臓が一拍分止まった。
逃げろ。
思考より先に身体が動いた。踵を返し、鉄扉に向かって走る。三歩目で扉に手が届く——その瞬間、背後から圧が来た。音ではない。風でもない。存在の重さとしか言いようのないものが背中に叩きつけられ、足が縫い止められた。
振り返る余裕はなかった。ただ、影が自分の足元まで伸びてきているのが視界の端に映った。床を這う黒い染み。五階の壁にあったものと同じだ。それが俺の靴底に触れた瞬間、全身に電流のような衝撃が走った。
頭の中に映像が流れ込んできた。知らない男の顔。恐怖に歪んだ目。暗闇の中で何かに引きずり込まれていく感覚。悲鳴。途切れる意識。そして——虚無。何もない。誰もいない。終わりのない暗黒。
「が——ッ」
膝が折れた。床に手をつく。吐き気が限界を超え、胃液が喉を焼いた。視界が明滅し、意識が遠くなる。影が足首から這い上がってくる。冷たい。骨の髄まで凍るような冷気が、血管を遡るように上ってくる。
死ぬ。
直感した。今ここで、トキたちと同じように喰われる。歌舞伎町の地下から消えた人間たちの仲間入りをする。情報屋・神崎蓮は失踪者リストに名前も載らず——
煙草の匂いがした。
紫煙が視界を横切った。安物じゃない。重く甘い葉巻の煙に似た、しかしもっと乾いた香り。場違いなほど穏やかなその匂いが、凍えた肺に流れ込んだ瞬間——足首の冷気が消えた。
銀色の光が閃いた。
一太刀。
音すらなかった。ただ光の線が俺の頭上を走り、フロアの闇を両断した。足元に絡みついていた影が千切れ、黒い霧になって霧散する。フロアの奥で、あの影の人型が痙攣するように形を歪めた。胸に当たる部分に一筋の裂け目が走り、内側から灰色の光が漏れている。
影が絶叫した。音ではなく、空気の振動として。鼓膜ではなく頭蓋の内側に直接響く、あの低周波。だがそれも一瞬だった。影は自分の輪郭を保てなくなり、黒い靄となって天井に吸い込まれるように消えた。
後には、抱えられていた男が床に崩れ落ちただけだった。
俺はまだ床に手をついたまま、荒い息を繰り返していた。視界がようやく安定する。震える首を巡らせると——柱の影に、男が立っていた。
長身。黒いロングコートに、手入れのされていない無精髭。年齢は四十前後か。右手に日本刀——いや、太刀と呼ぶべきか。鈍い銀色の刃が、窓の隙間から差す灰色の光を反射している。左手には火のついた煙草。その先端の赤い光だけが、この暗いフロアで唯一の暖色だった。
男が煙草をくわえたまま、俺を見下ろした。値踏みするような目。だが敵意はない。どちらかといえば——珍しいものを見つけた、という目だった。
「生きてるか、小僧」
低い声だった。ぶっきらぼうだが、どこか馴染む響きがある。
「……あんた、何者だ」
「質問を返すな。まず自分の状態を確認しろ」
言われて自分の足を見た。足首に、黒い痣のようなものが残っている。影が触れた箇所だ。だが痛みはなく、痣もゆっくりと薄くなっていく。
男は太刀を鞘に収めた。鞘はコートの内側に吊るされていたらしい。街中で刀を持ち歩いている男。普通なら通報案件だが、今の俺にとってはこの男が唯一の「まともな存在」だった。少なくとも人間の形を正しく保っている。
「あれは——何だ」
「おまえの言葉で言えば『怪異』。もっとも、正式な分類名は別にあるが」
「知ってるのか。あの——影みたいなやつを」
男は煙を吐き出した。紫煙がゆっくりと天井に昇っていく。
「知っている。祓うのが俺の仕事だ」
祓う。除霊とか退魔とか、そういう類の言葉が頭をよぎった。オカルトは信じない。信じないが——五分前に俺の足首を掴んだあの冷気は、幻覚では説明がつかない。
倒れていた男の様子を確認しに行こうとして、膝が笑った。まだ立てない。
「あの男は」
「生きている。魂を半分ほど喰われたが、戻る。三日は意識が混濁するだろうが」
魂。このロングコートの男は、平然と「魂」という言葉を使う。
「トキは——ここに来た俺の仲間は、どうなった」
男の目が微かに細くなった。
「おまえの仲間がここに来たなら、間に合わなかった側だろう。あの手の怪異に完全に喰われた人間は、戻らない」
言葉が腹に落ちるまでに数秒かかった。トキは——死んだのか。いや、「死んだ」のとも違う。喰われた。存在ごと。あの男から吸い上げられていた淡い靄のように。
膝の震えを押さえつけ、壁に手をついて立ち上がった。男と向き合う。
「あんたの名前は」
「鬼道寺源信」
「鬼道寺。退魔師、ってことでいいのか」
「好きに呼べ」
鬼道寺は新しい煙草に火をつけた。マッチだった。百円ライターではなく、マッチ。擦った瞬間の硫黄の匂いが、血と腐敗の悪臭を一瞬だけ上書きした。
「一つ訊く」
炎に照らされた鬼道寺の目が、俺を真っ直ぐに捉えた。
「おまえ、さっきあの怪異に触れられたとき——何か『視えた』か」
知らない男の顔。恐怖に歪んだ目。暗闇に引きずり込まれる感覚。あの映像。
「……ああ。視えた。知らない人間の——たぶん、喰われた奴の記憶みたいなものが」
鬼道寺の口元が、微かに動いた。笑みと呼ぶには険しすぎる。だが、確かにそこには何かを見つけた者の表情があった。
「——やはりな。おまえの目は珍しい」
煙草の煙が、二人の間をゆっくりと漂っている。窓の隙間から差し込む光が白みを増し、フロアの輪郭が徐々に浮かび上がる。散乱した靴。倒れた男。壁を這う黒い染みの残滓。
「お前に話しておくことがある」
鬼道寺の声に、初めて重さが乗った。さっきまでの飄々とした態度が消え、俺を見る目が真剣なものに変わっている。
「あの怪異は祓ったんじゃない。追い払っただけだ。本体は別にいる」
「——何だと」
「今のは末端だ。枝葉。本体はもっと深い場所に巣を張っている。そして——おまえはもう、向こうに顔を覚えられた」
足首の痣がまだうっすらと残っている。それが急に、焼印のように重く感じられた。
「覚えられた、ってのはどういう意味だ」
鬼道寺は煙草を床に落とし、靴底で揉み消した。
「文字通りの意味だ。おまえの目——怪異の痕跡を読む力。連中にとって、それは獲物の匂いであると同時に、厄介な脅威でもある」
男は背を向け、非常階段へ歩き出した。
「逃げるか戦うか、好きにしろ。だが一つだけ言っておく——」
振り返らないまま、鬼道寺は言った。
「逃げても、もう"視えなかった頃"には戻れんぞ」
鉄扉が閉まる音が、廃ビルの階段に長く反響した。俺は一人、明けていく朝の光の中に取り残されていた。足元の影が、ほんの一瞬——俺の動きより遅れて揺れた気がした。