第1話
第1話
歌舞伎町の地下は、嘘と金の匂いがする。
午前二時。雑居ビルの地下一階、表向きはスナック「月光」の奥にある六畳の事務所が俺の城だ。壁一面に貼り付けた付箋とホワイトボード、三台のモニターが青白い光を放っている。煙草の煙が天井に薄い層を作り、安物のコーヒーが胃を焼く。
神崎蓮。それが俺の名前で、この街での肩書きは「知りたいことを知る男」。
警察にも暴力団にも属さない。情報だけを武器に、新宿の裏側を渡り歩く。誰が誰と繋がっているか、どの金がどこに流れているか、どの人間が何を隠しているか。俺の頭の中には歌舞伎町の地図がある。表の地図じゃない。人間関係と利害と秘密で編まれた、目に見えない地図だ。
今夜も三件の依頼をさばいた。浮気調査が一件、企業の内部告発者の身元特定が一件、行方不明者の足取り調査が一件。どれも表の探偵では手が出ない案件ばかりだ。情報の仕入れ値と売値の差額が俺の飯の種になる。
モニターの一つに通知が点滅した。暗号化メッセージアプリ。送信者はトキ——本名は知らない。歌舞伎町の東寄り、ホスト街の裏通りを縄張りにしている情報屋仲間だ。俺より五つ年上で、この街の夜の動きを読む嗅覚は俺以上だった。
メッセージを開く。
『蓮、ヤバい。ここ最近の失踪、普通じゃない』
既読をつけた瞬間、続きが来た。
『調べるな。マジで調べるな。あいつら——喰われてる』
喰われている。
妙な言い回しだった。トキは感情的な男じゃない。事実だけを端的に伝えるタイプだ。それが「喰われている」という、まるで都市伝説じみた言葉を使っている。
『トキ、もう少し具体的に——』
返信を打ちかけたとき、通話着信が入った。トキからだ。俺は即座に応答した。
「トキ、どういう意味だ。喰われたって——」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、トキの息遣いだった。走っている。荒い呼吸の合間に、声が途切れ途切れに届く。背後で何かを蹴飛ばしたような鈍い音がして、アスファルトを叩く靴底の音が不規則に跳ねた。路地を曲がっているのだと直感した。
「蓮——聞け。新宿の地下で何か——起きてる。消えたやつら——全員、影が——」
雑音が走った。電話越しでも分かる、異質なノイズ。耳の奥がきんと痛むような、金属を歪めたような音。思わずスマホを耳から離した。鼓膜の奥に鈍い圧迫感が残り、数秒間、左耳だけが水の中に沈んだように聞こえが悪くなった。
「トキ? おい、トキ!」
「——来るな。お前は——まだ"視えて"ないなら——」
ぶつん、と通話が切れた。
その後、トキの端末に何度かけても繋がらなかった。メッセージも既読にならない。翌日も、その翌日も。トキという人間が、新宿の夜から蒸発した。
——これで三人目だ。
この二週間で、俺の情報網から三人の人間が消えた。最初はナンバー屋のジロ。次にキャッチの元締め・マリコ。そしてトキ。三人に共通点はない。年齢も性別も縄張りも違う。唯一の共通点は——俺に情報を流していたということと、最後の連絡で全員が似たようなことを言っていたことだ。
「喰われた」。
警察に失踪届が出ている形跡はない。それ自体はこの街では珍しくない。だが、三人とも俺の情報網の人間だ。偶然にしては引っかかる。俺は合理主義者だ。オカルトは信じない。だが、合理的に説明がつかない事象を無視することは、情報屋として致命的な怠慢でもある。
俺はトキの最後の通話記録を解析することにした。
暗号化アプリの通話は通常、録音されない。だが俺は自分のアプリに独自のログ機能を仕込んでいる。情報屋の基本だ。信用するな、記録しろ。
音声波形をモニターに展開した。トキの声、俺の声、そして——
「……なんだ、これは」
波形の中に、明らかに異質な帯域が混じっていた。人間の可聴域ぎりぎりの低周波。通話のノイズにしては規則的すぎる。環境音にしては不自然すぎる。何より、その波形はトキの声が途切れた瞬間から急激に振幅を増していた。まるで——トキの声を塗り潰すように。
俺はイコライザーでその帯域だけを抽出し、増幅した。スペクトログラムの色が変わる。通常の環境音は緑から黄色の暖色帯に収まるが、この帯域だけが深い紫——ほとんど黒に近い色で画面を侵食していた。波形を時間軸に沿って追うと、トキの声量が上がるたびにその紫の帯域も連動して振幅を増している。受動的なノイズではない。反応している。
ヘッドフォンを通して耳に届いたのは、声だった。人間の声ではない。言語とも音楽とも違う、しかし確かに意図を持った「何か」の声。背筋に冷たいものが走った。生理的な拒絶反応。この音を聞いてはいけないと、本能が叫んでいる。腹の底から吐き気に似た感覚がせり上がり、モニターの青白い光が一瞬にじんで見えた。手が勝手にヘッドフォンへ伸びていた。外せ、と身体が命じている。
俺はヘッドフォンを外し、椅子の背にもたれた。煙草に火をつける。指先が微かに震えていた。ライターの火が小刻みに揺れ、二度目でようやく先端に炎が移った。深く吸い込んだ煙が肺に沁みるまでの数秒間、あの声の残響が頭蓋の内側に貼りついて離れなかった。
三人が消えた。全員が「喰われた」と言った。そしてトキの最後の通話に、人間ではない何かの声が混じっていた。
合理的な説明をつけようとした。盗聴器の干渉、通信障害、音声ファイルの破損。どれも当てはまらない。俺は十年この仕事をやってきた。音声の解析は専門の一つだ。これが技術的なノイズでないことくらい、聴けば分かる。
椅子から立ち上がり、ホワイトボードの前に立った。三人の名前、最後の連絡日時、消えた場所の推定地点。線で結ぶ。
三つの消失点が、新宿の地下で三角形を描いていた。
その中心にあるのは——歌舞伎町一丁目の廃ビル。半年前に開発計画が凍結され、今は誰も立ち入らないはずの場所。ホワイトボードのキャップを握ったまま、俺はその三角形の重心を睨んだ。偶然の配置にしては幾何学的すぎる。まるで何者かが意図的に、三つの頂点を選んだかのように。
俺は煙草をもみ消し、モニターの音声波形をもう一度見た。拡大して、波形の反復パターンを確認する。規則的だ。ランダムなノイズじゃない。これは——
「信号、か」
誰かが、あるいは何かが、発信している。俺の情報網の人間を一人ずつ喰いながら。
情報屋としての十年が、一つの結論を弾き出していた。これは偶発的な失踪じゃない。狩りだ。この街の地下で、何かが人間を狩っている。
コートを掴み、鍵を取った。向かう先は分かっている。あの廃ビルだ。行くべきじゃないと分かっている。トキは「来るな」と言った。だが、俺は情報屋だ。分からないことを分からないまま放置することが、何より耐えられない。
事務所の鉄扉を閉めるとき、蝶番が軋んで甲高い音を立てた。その音が地下の廊下に反響し、一瞬だけ——あの低周波に似た残響を残した気がした。気のせいだと自分に言い聞かせ、階段を上がる。
午前四時。歌舞伎町のネオンが白み始めた空に滲んでいた。酔客の喧噪が遠ざかり、街がほんの一瞬だけ静まる時間帯。風俗店の呼び込みも引き上げ、始発を待つ酔っ払いが路上にまばらに転がっている。湿った夜風が首筋を撫で、どこかの排水口から下水と腐った果物が混じったような甘い臭気が漂ってきた。
俺は廃ビルへ向かって歩き出した。
靖国通りを渡り、雑居ビルの間を縫うように裏道に入る。この時間帯の歌舞伎町を知り尽くしているはずなのに、今夜は街灯の影がやけに濃く見えた。路地に積まれた段ボールの隙間、閉じたシャッターの下端の暗がり、ビルとビルの間の二十センチほどの隙間——普段は気にも留めない暗闇の一つ一つに、視線のようなものを感じる。気のせいだ。そう言い聞かせるが、首筋の産毛が逆立ったまま戻らない。
ポケットの中で、端末が震えた。非通知着信。応答すると、数秒の沈黙の後——あのノイズが聞こえた。トキの通話に混じっていたのと同じ、人間ではない何かの声。
そしてノイズの中に、かすかに聞き取れる一言が混じっていた。
『——見ツケタ』
通話は切れた。端末の画面に残った通話時間は、〇秒。着信履歴すら残っていない。
背筋を走った寒気を振り払い、俺は足を速めた。何かが始まっている。いや——とっくに始まっていた。俺が気づいていなかっただけだ。
廃ビルの黒い輪郭が、夜明け前の空に浮かんでいる。窓のない建物の中から、何かがこちらを見ている気配がした。