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読影の情報屋

第3話 第3話

第3話

第3話

廃ビルを出たのは、午前五時を過ぎた頃だった。

始発電車の振動が地面の奥底から伝わってくる。歌舞伎町の朝は遅い。看板の電飾が消え、路上に散らばった空き缶やチラシだけが夜の残骸として取り残されている。清掃車のブラシが遠くでアスファルトを擦る音。コンビニの自動ドアが開く気配。日常だ。ついさっきまで人間を喰っていた影の存在など、この街の朝は何一つ知らない。

足が重かった。足首の痣はほとんど消えていたが、あの冷気の記憶が骨に染みついている。身体の芯が一晩中冷蔵庫に閉じ込められた後みたいに冷えていて、四月の朝風が肌を撫でるたびに鳥肌が立った。

事務所に戻る気にはなれなかった。あの六畳の部屋に一人で座ったら、頭の中であの映像が再生される。知らない男の恐怖に歪んだ顔。暗闇に引きずり込まれる感覚。そしてトキの最後の声。

靖国通り沿いのチェーン店に入った。モーニングセットのコーヒーを頼み、窓際の席に座る。温かいカップを両手で包んだ。指先がまだ冷たい。

鬼道寺源信。退魔師。怪異を祓う男。

あの一太刀は本物だった。影を——あの得体の知れない存在を、一振りで両断してみせた。オカルトじゃない。あれは技術だ。明確な対象を認識し、適切な手段で排除する。その構造は俺の仕事と変わらない。ただ対象が人間の秘密ではなく、人間を喰う化物だという点が違うだけで。

コーヒーを啜ったとき、向かいの席に影が落ちた。

「早いな」

ロングコートの男が断りもなく座った。鬼道寺だ。トレイにはブラックコーヒーと何も載っていないトースト。禁煙席が不服そうな顔をしているが、煙草には手を伸ばさなかった。

「つけてたのか」

「おまえがあのビルを出る前から、ここで待っていた。ファミレスの方が良かったが、この時間はここしか開いていない」

待っていた。つまり俺がビルを出ることを前提にしていた。

「あの倒れてた男は」

「救急に匿名通報した。衰弱として処理される。記憶は曖昧なはずだ。喰われかけた人間は、その前後の記憶を失う」

鬼道寺はトーストを一口齧り、不味そうな顔をした。

「神崎蓮。歌舞伎町の情報屋。二十七歳。身寄りなし。十七で家を出て、この街に流れ着いた」

「調べたのか」

「おまえを助ける前にな。俺も情報は集める側だ」

挑発的な笑みを予想したが、鬼道寺の目は淡々としていた。事実を並べているだけだ。

「本題に入る。おまえに二つ説明する。一つは、おまえが昨夜見たものが何か。もう一つは、おまえ自身が何を持っているか」

俺はカップを置いた。聞く姿勢を作る。情報屋の習慣だ。相手が喋る気になっているときは、余計な口を挟まない。

「おまえが見たのは怪異——人間の負の感情が凝固した存在だ。恨み、恐怖、後悔、孤独。そういった感情が一定の密度を超えると、物理的な実体を持つようになる。科学の言葉で言えば、精神エネルギーの相転移だ」

「物理法則を逸脱してるだろう」

「既知の物理法則を、な。だが現象としては再現性がある。特定の条件下で怪異は発生し、特定の手段で祓える。法則がないんじゃない。まだ体系化されていないだけだ」

言い回しに引っかかった。オカルトを語る人間の口調じゃない。もっと実務的だ。現象を観察し、分類し、対処する。研究者か、あるいは——技術者の喋り方。

「怪異は人間を喰う。正確には、人間の生命力——魂と呼ぶ方が通りがいいか——を摂取して自己を維持する。喰われた人間は、軽度なら衰弱、重度なら廃人、完全に喰われれば存在ごと消滅する。痕跡を残さずに」

トキの顔が浮かんだ。あいつは完全に喰われた側だ。

「退魔師は、怪異を感知し、祓う技能を持つ人間の総称だ。流派も手法も様々だが、共通しているのは——怪異を知覚できる『目』を持っていること」

鬼道寺はコーヒーを一口飲み、俺を見た。

「そしておまえも、その目を持っている」

「……昨夜のことなら、ああいう極限状態では幻覚だって——」

「十年だ」

遮るように鬼道寺が言った。

「おまえは十年間、歌舞伎町で情報屋をやってきた。身寄りのないガキが裏社会で十年生き延びた。その間、一度も致命的な判断ミスを犯していない。危険な取引先を事前に回避し、裏切る人間を見抜き、警察の手入れを嗅ぎ分けてきた。異常だと思ったことはないか」

なかった。考えたことすらなかった。それは経験と勘だと思っていた。場数を踏んで磨かれた、情報屋としての嗅覚。

「おまえの力は『読影』という。怪異が残した残留思念——俺たちはそれを『影』と呼ぶ——を読み取る力だ。人間の悪意、殺意、恐怖。そういった負の感情は、怪異と同じ組成の痕跡を空間に残す。おまえはそれを無意識に拾っていた」

椅子の背に体重を預けた。窓の外をサラリーマンが足早に通り過ぎていく。

「……待て。つまり俺の勘ってのは」

「勘じゃない。知覚だ。危険な人間の周囲には、怪異と同質の影が濃く溜まる。おまえは知らず知らずのうちにそれを読んで、危険を避けていた。情報屋としての嗅覚じゃない。生まれつきの異能だ」

生まれつき。

あの路地裏で。取引の席で。張り込みの最中に。何度となく感じてきた、言語化できない違和感。こいつは危ない、この場所には近づくな、今日はこの道を通るな。全部が——俺自身の異能だった。

「昨夜、おまえは怪異に直接触れた。それが引き金になって、読影が覚醒した。今までは無意識だったものが、意識の表層に上がってきている。あのビルで視えた映像——喰われた人間の記憶——あれが読影の本来の力だ」

鬼道寺の言葉を、情報として処理する。感情は後回しだ。

怪異は実在する。退魔師も実在する。そして俺には、怪異の痕跡を読む異能がある。

信じるか信じないか、という段階はとっくに過ぎていた。あの足首の冷気を、あの映像を、幻覚だと切り捨てるには——俺は自分の知覚を信頼しすぎている。情報屋が自分の知覚を疑い始めたら終わりだ。

「それを踏まえて、提案がある」

鬼道寺がトレイを脇に寄せた。

「俺と組め。おまえの読影は、怪異の追跡に極めて有効だ。残留思念から行動パターンを割り出し、本体の位置を特定する。情報屋としてのおまえの技術と組み合わせれば——」

「断る」

即答した。鬼道寺の眉が僅かに上がった。

「理由を聞こう」

「俺は情報を売る側の人間だ。誰かの陣営に入ったら、情報の中立性が死ぬ。退魔だか何だか知らないが、俺があんたの下について怪異退治に加われば、その瞬間から俺は情報屋じゃなくなる」

嘘じゃない。だが本音の全部でもなかった。

本当の理由は——怖い。あの映像が。知らない人間の死の記憶が頭に流れ込んでくる感覚が。あの虚無の冷たさが。もう一度あの領域に足を踏み入れたら、次は俺が喰われる側になる。

「トキを喰った怪異は、まだいるんだろう」

「ああ。昨夜のは末端だと言った。本体は新宿の地下のどこかに巣を張っている」

「なら、情報として売ってやる。俺の情報網で分かることがあれば、対価次第で提供する。だが現場には出ない。それが俺の流儀だ」

立ち上がった。テーブルに千円札を置く。自分の分と、鬼道寺の分。

「情報屋は死体に近づかない。死体を作る側にも回らない。観察して、記録して、売る。それだけだ」

鬼道寺は何も言わなかった。煙草を取り出しかけて、禁煙席であることを思い出したように手を止めた。

「一つだけ覚えておけ」

背を向けた俺に、鬼道寺の低い声が届いた。

「読影が覚醒した以上、おまえには怪異が視える。そして怪異にもおまえが視える。情報屋の中立性とやらが、あちら側に通用するといいがな」

自動ドアを抜けて外に出た。朝の光が眩しかった。歌舞伎町が目覚め始めている。清掃車が通り過ぎ、始業前の店員がシャッターを上げている。何も変わらない日常の風景。

だが——視えていた。

道路脇の排水溝の暗がりに、微かな黒い靄。ビルの隙間の日陰に、揺らぐ影。看板の裏側に張りついた、薄い染み。昨日まで気づかなかったもの——いや、気づかないふりをしていたものが、朝の光の中にくっきりと浮かび上がっている。

歌舞伎町は、怪異だらけだった。

視線を正面に戻し、駅へ向かって歩き出した。知らなかった頃には戻れない。鬼道寺の言葉が脳裏で反芻される。だが俺は情報屋だ。見えるものが増えたなら、それも情報として処理すればいい。怪異だろうが何だろうが、観察と分類の対象にすぎない。

そう自分に言い聞かせながら、ポケットの中でスマートフォンを握った。画面には未読メッセージが一件。番号を登録していない相手からだった。

『メシ行こう。木曜空いてる? ——凪』

元仲間の妹、朝倉凪。月に二度の定例の食事。いつも通りの、軽い文面。

いつも通りの——はずなのに。

メッセージを見つめる俺の目が、無意識に凪のアイコン画像の背景を読み取っていた。自撮りの凪の後ろに映り込んだ窓ガラス。その窓ガラスに反射した、凪の影。

影が、微かに——笑っていた。凪は笑っていないのに。

指先が冷えた。あの廃ビルで感じたのと同じ冷気が、スマートフォンの画面越しに伝わってくる。

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