第2話
第2話
翌朝、地下三階の資料室に着いた瞬間、異変に気づいた。
廊下の蛍光灯がすべて点灯している。普段は半分が死んでいるか明滅しているかで、管理課に報告しても「予算がない」の一言で片づけられてきた。それが今朝に限って、全灯。薄暗いはずの地下通路が、手術室のように白々しい光で満たされていた。光に慣れていない目が痛んで、思わず手をかざした。コンクリート壁の染みや配管の錆まで、普段は闇に溶けている細部が残酷なほど鮮明に浮き上がっている。
階段を上がって一階ロビーに出ると、空気が違った。受付カウンターの向こうを、スーツ姿の職員が早足で行き交っている。すれ違うたびに書類の束やタブレットを抱えた腕がぶつかりそうになるが、誰も詫びの一言も口にしない。顔見知りの守衛の田所さんは、いつもの競馬新聞を広げておらず、姿勢を正して無線機に耳を当てていた。無線機からは断続的にノイズ混じりの声が漏れていたが、内容までは聞き取れなかった。
「田所さん、何かあったんですか」
「ああ、桐生くん。——悪いが今日はちょっと」
田所さんの目が俺の胸元の認識票——Fの刻印——を一瞬見て、それから逸れた。言えない、という顔だった。その一瞬の視線の動きに、五年間で何度味わったかわからない疎外感が胸の底でざらついた。
ロビーに設置された大型モニターに、速報テロップが流れていた。〈東京湾岸沖にて原因不明の海域封鎖 海上保安庁が調査中〉。一般向けのニュースはその程度の扱いだ。だが禍祓庁の内部では、まるで戦時のような緊張が走っていることは空気を吸えばわかった。廊下の角を曲がるたびに、ひそめた声の断片が耳をかすめる。「前例がない」「観測値が振り切れた」——どれも主語を欠いた、断片だけの囁きだった。
資料室に戻り、端末を開く。業務指示は一件もなかった。代わりに、全職員宛ての通達が一通。
〈本日09:00より、本部五階大会議室にて緊急対策会議を実施。対象:Cランク以上の実動要員および各部門責任者。該当者は速やかに参集のこと〉
Fランクの俺には関係のない通達だ。いつものことだった。五年間ずっとそうだった。
だが、昨夜の蒼い亀裂が網膜に焼きついて離れない。あれが何だったのか、知りたいという欲求が腹の底から湧き上がってくる。知ってどうする、という冷静な声と、知らなければならない、という根拠のない確信が、胸の中で綱を引き合っていた。
資料室の端末には、禍祓庁の内部ネットワークへの閲覧権限がある。Fランクに与えられた権限は最低レベルだが、過去の報告書と討伐記録だけは例外だった。整理担当者に閲覧制限をかけると業務が回らないからだ。つまり俺は、禍祓庁が過去に蓄積してきた膨大な異能災害データの、ほぼ全てにアクセスできる。
検索ワードを打ち込んだ。「空間異常」「亀裂」「座標偏差」。
ヒットした報告書は七件。うち五件は観測記録のみの簡易報告で、残る二件が詳細調査報告だった。最も古いものは二十三年前、最も新しいものが昨日電車の中で思い出した十七年前の封印等級案件。
俺は七件すべてをプリントアウトし、デスクに広げた。古い用紙特有のかすかな酸味が鼻をつく。インクが薄れかけた頁もあったが、観測データの数値だけは辛うじて読み取れた。
共通点を洗い出す。まず、発生地点。七件中五件が海岸線から三キロ以内。東京湾周辺が三件、相模湾が一件、駿河湾が一件。内陸の二件は、いずれも地下水脈の直上だった。——水域との関連性。
次に、観測されたエネルギー波形。通常の異能反応は「霊圧波形」と呼ばれる正弦波に近い波形を示すが、空間異常の波形は全てが鋸歯状波。既存の分類体系に該当しないと、どの報告書にも記されていた。
そして最も気になる記述。十七年前の封印等級報告書の末尾、手書きで追記された一文。
〈本現象の発生メカニズムが解明されるまで、「ダンジョン」の呼称を内部資料において使用することを禁ずる——管理局長命令〉
ダンジョン。十七年前の時点で、既にこの単語が使われていた。そして、禁じられていた。
椅子の背もたれに体を預けた。天井の蛍光灯が目に刺さる。
つまり禍祓庁は、空間異常——ダンジョンと呼ばれる現象の存在を、少なくとも十七年以上前から把握していた。把握した上で、封印等級に指定して情報を凍結した。なぜだ。何を隠す必要があった。
思考を遮るように、階段を降りてくる足音が響いた。複数人。革靴の硬い音がコンクリートの壁に反響して、まるで倍の人数が降りてくるように聞こえた。資料室に人が来ること自体が珍しいのに、それも複数となると記憶にない。
防火扉が開き、見知った顔が現れた。安藤だ。その後ろに、総務課の職員が二人。安藤の額にはうっすらと汗が滲んでおり、ネクタイが僅かに曲がっていた。五階から走ってきたのだろう。
「蓮、ちょっといいか」
安藤の声は昨夜の居酒屋とは別人のように硬かった。
「五階の会議に出た全部隊に、過去の類似事例をまとめた資料を配布することになった。お前、空間系の報告書の場所わかるだろ。至急で一式揃えてくれ」
「空間異常の報告書か」
「ああ。詳しくは言えないけど——昨夜、湾岸で何かあったらしい。幹部連中がかなり焦ってる」
安藤は一瞬だけ俺の目を見て、すぐに視線を外した。知っているが言えない。Fランクの同期には伝達できない情報があるということだ。
「三十分で揃える」
「助かる。——あと、蓮」
安藤が声を落とした。
「五階の空気、かなりやばい。Aランクの精鋭部隊を突入させるって話が出てる。突入先はたぶん、お前も見当ついてるだろ」
それだけ言って、安藤は階段を上がっていった。総務課の職員が後に続き、防火扉が重い音を立てて閉まった。
精鋭部隊の突入。つまり禍祓庁は、あの蒼い亀裂の先に実体を伴う空間が存在すると判断している。ダンジョンという呼称を禁じた十七年前の方針を覆すほどの、決定的な何かが観測されたということだ。
俺は資料を整え、総務課の職員に渡した。そしてデスクに戻り、もう一度七件の報告書に目を通した。二度、三度。行間に隠された情報を搾り取るように。
十四時。安藤から端末にメッセージが入った。
『A〜Cランク混成の精鋭部隊十二名が編成された。隊長は鷹野一等禍祓官。十五時に突入開始。早瀬も入ってる』
鷹野。Aランク実動部隊の筆頭。禍祓庁最強の名を欲しいままにする男だと、討伐記録で何度も名前を目にしていた。そして早瀬。昨夜ビールを注いでくれた、あの真っ直ぐな目の男が、未知の空間に飛び込もうとしている。
俺にできることはない。資料は渡した。それ以上は求められていないし、求められることもない。
それでも、デスクから離れられなかった。報告書を広げたまま、端末の通知欄を睨み続けた。十七年前の封印等級報告書が、何かを伝えようとしているような気がしてならなかった。
十五時二十三分。館内放送が入った。
『精鋭部隊、ポイントAに到達。第一層突入を確認。通信状態良好』
十六時四十一分。
『第三層に到達。抵抗あり。負傷者一名、戦闘継続中』
十七時十五分。
『第五層突入。空間構造が急激に変化。電波状態不安——』
放送が途切れた。
蛍光灯の微かな唸りだけが、資料室を満たした。俺は端末を握りしめたまま、通知欄を凝視し続けた。新着メッセージはない。館内放送も再開されない。画面の光だけが、暗くなり始めた資料室で青白く顔を照らしていた。
十七時三十分。四十分。五十分。
十八時を過ぎた頃、安藤からのメッセージが表示された。
文面は短かった。
『精鋭部隊との通信が完全に途絶。十七時十四分を最後に、一切の応答なし。十二名全員の生体反応ロスト。——早瀬も、鷹野隊長も』
端末を持つ手が震えた。震えたことに、自分で驚いた。昨夜の居酒屋で早瀬が見せた笑顔が、不意に瞼の裏に蘇った。あの笑顔がもうどこにもないのだと、頭が理解するのに数秒かかった。
十七年前、空間異常を「なかったこと」にした禍祓庁。その判断のツケが、今夜、十二人の命で支払われようとしている。
デスクの上に広がった七件の報告書。その中の一枚に、俺は改めて目を落とした。封印等級案件の観測者所見、最後の一行。
〈なお、本亀裂の消失直前に内部から微弱な霊圧反応を確認。パターンは既知のいかなる異能生物とも一致せず。空間そのものが、意志を持つかのような挙動を示した〉
空間そのものが、意志を持つ——。
指先が、ポケットの中の父の認識票に触れた。金属は昨夜と同じように、微かな熱を帯びていた。