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座標支配のFランク

第1話 第1話

第1話

第1話

五年間、誰にも必要とされなかった男の一日は、地下三階から始まる。

薄暗い蛍光灯が不規則に明滅する廊下を、俺——桐生蓮は無言で歩いていた。壁面のコンクリートには染みが浮き、配管が低く唸りを上げている。政府非公認の異能者組織「禍祓庁」。その存在を知る者は限られるが、ここで働く人間にとっては紛れもない日常だ。エレベーターは二階までしか降りない。その先は階段だけ。地下三階の資料室に用がある人間など、俺以外にいないからだ。

重い防火扉を押し開けると、黴びた紙とインクの匂いが鼻腔を刺した。天井まで積み上げられた書架。過去数十年分の討伐記録、異能災害報告書、能力者の査定資料。それが俺の持ち場であり、五年間の全てだった。

デスクに鞄を置き、端末を立ち上げる。今日の業務指示は三件。第七小隊の討伐報告書の書式修正。備品管理台帳の更新。そして、会議室で使用した資料の回収とシュレッダー処理。どれも三十分で終わる雑務ばかりだ。

Fランク。禍祓庁における最低評価。異能測定器に一切反応しない俺に与えられた烙印は、入庁から五年経った今も変わっていない。

端末の通知欄に、一件のメッセージが表示されていた。

『蓮、今日の早瀬のBランク昇格祝い、来るよな? 18時から本部近くの居酒屋。早瀬も蓮に来てほしいって言ってた』

送り主は同期の安藤。悪い奴じゃない。だからこそ厄介だった。

早瀬拓真。同期入庁組の中で最も早くAランクに届くと言われている男。測定器が叩き出した適性値は歴代五位。入庁二年目で実戦配備、四年目にはCランクからBランクへの飛び級昇格。俺が資料室で報告書の誤字を直している間に、早瀬は最前線で異能災害を鎮圧し続けていた。

——行くべきじゃない。わかっている。

それでも俺は、十八時きっかりに居酒屋の暖簾をくぐっていた。

「おー、桐生! 来てくれたんだ!」

早瀬が奥の座敷から手を振った。その笑顔に嫌味はない。本気で喜んでいる。それが一番きつい。

「昇格おめでとう」

「ありがとな。いやー、実感ないわまだ」

テーブルには同期が六人。全員がCランク以上。俺だけが、胸の認識票にFの刻印を光らせている。

座敷に上がると、すでにテーブルの上は出来上がっていた。枝豆、唐揚げ、刺身の盛り合わせ。生ビールのジョッキが人数分並び、結露が卓上に小さな水溜まりを作っている。醤油と焼き鳥のタレが混ざった匂いが、換気の悪い座敷に充満していた。壁に貼られた手書きのメニューが、酔客の熱気でわずかに揺れている。

「ほら桐生、ここ空いてるぞ」

安藤が座布団を叩いて場所を示した。案内されたのは早瀬の正面——一番目立つ席だった。逃げ場がない、と思いながら腰を下ろす。

「桐生、最近どう? 資料室」

安藤が気を遣うように話を振ってきた。

「変わらないよ。報告書が溜まる一方だ」

「大変だよなあ。でもさ、桐生の整理した資料、うちの隊でもめちゃくちゃ使ってるぜ。過去事例の検索、すげー楽になったって隊長が言ってた」

褒めているのだ。心からそう思って言っている。資料整理の腕を。Fランクの男が唯一貢献できることを。

隣に座った同期の女性——第四小隊の白石が、唐揚げを取り分けながら口を挟んだ。

「安藤の言う通りだよ。先月の港湾案件、桐生が整理してた七年前の類似事例がなかったら、初動対応もっと遅れてた」

「そうそう。あの索引マジで助かった」

口々に言われるたびに、胸の奥が軋む。ありがたいと思う気持ちと、それしか言ってもらえることがないという事実が、同時に押し寄せてくる。

「……ありがとう」

早瀬がビールを注ぎ足しながら、少しだけ声を落とした。

「蓮。俺さ、お前が一番根性あると思ってるよ。五年間、辞めなかったんだから」

周囲の喧騒が一瞬遠のいた。早瀬の目は据わっていた。酔いのせいではない。実戦で異能災害と向き合ってきた男特有の、真っ直ぐすぎる眼差し。その目に見つめられると、取り繕った笑顔の薄さを見透かされている気がした。

その言葉が、胸の奥を抉った。

根性じゃない。執念だ。辞められないだけだ。

十三年前。東京西部で発生した大規模異能災害。崩壊した団地の瓦礫の中で、俺は父と母と妹の名前を叫び続けた。助けが来たのは六時間後。連れ出されたとき、俺の喉は潰れていて、家族は三人とも冷たくなっていた。

あの日から、俺の中には一つの炎だけが残った。

二度と、誰も死なせない。

だから禍祓庁に入った。異能が使えなくても、この組織にいれば何かできると信じた。五年経って、できたことは報告書の書式修正だけだ。それでも辞めない。辞めたら、あの炎まで消えてしまう気がした。

「おい桐生、飲めよ! 今日は早瀬の奢りだぞ!」

同期の笑い声の中で、俺はぬるくなったビールを口に運んだ。泡の抜けた麦の苦みが、舌の上で妙に長く残った。

二十時過ぎに店を出た。同期たちは二次会に向かったが、俺は駅へ足を向けた。明日も朝から資料室だ。

帰り道、イヤホンも音楽もなしで歩く。夜風が首筋を撫でた。四月にしてはまだ冷たい。居酒屋で染みついた煙草と油の匂いが、風に晒されて少しずつ剥がれていく。街灯の下を通るたびに、自分の影が伸びては縮む。その繰り返しが、地下三階と居酒屋を往復するだけの日常に重なって見えた。

駅の改札を抜け、ホームのベンチに腰を下ろす。次の電車まで七分。ホームには疎らに人がいて、誰もが手元のスマートフォンに視線を落としている。誰も俺を見ない。禍祓庁でも、ここでも、それは同じだった。

ポケットの中で、指先が固いものに触れた。取り出したのは、古びた金属のタグ。父の認識票だ。父もまた、禍祓庁の人間だった。Dランクの実動要員。あの異能災害の夜、非番だった父は家族を守ろうとして——力が、足りなかった。

タグの表面を親指でなぞる。刻まれた名前はもう擦れて読みにくい。

——親父。俺はまだここにいるよ。何もできないまま、ここにいる。

電車が滑り込んできた。立ち上がり、乗り込む。車内は空いていて、窓際の席に腰を下ろした。ドアが閉まり、車体が緩やかに加速する。

窓の外を、夜の街が流れていく。ビルの灯り、高速道路のテールランプ、遠くに光る東京タワー。見慣れた景色だ。

ふと、資料室で今日読んでいた報告書の一節が頭をよぎった。十七年前の未解決事案。「空間異常」と分類された極めて稀少な現象。報告書には〈空間そのものに亀裂が生じ、既知の異能反応とは異なるエネルギー波形を観測〉と記されていた。担当者の所見欄にはこうあった。〈本現象は既存の異能分類体系では説明不能。上層部の判断により、本件を封印等級に指定〉——。

封印等級。禍祓庁が「なかったこと」にする案件に使う分類だ。五年間で俺が目にした封印等級の報告書は、あの一件だけだった。

電車が湾岸エリアに差しかかったとき、俺は何気なく窓の外に目を向けた。

東京湾の暗い海面の上、夜空に——蒼い線が走った。

一瞬、目の錯覚だと思った。だが違う。窓ガラスに額を押しつけて凝視する。

空間が、裂けている。

蒼白い光を放つ亀裂が、湾岸の空を縦に切り裂いていた。長さは目測で数百メートル。亀裂の縁からは微細な光の粒子が零れ落ち、海面に触れる前に消えていく。

その光は、冷たかった。色温度の問題ではない。亀裂から漏れ出す光を目にした瞬間、全身の毛穴が粟立ち、背骨に沿って氷の指を這わされたような感覚が走った。美しいのに、本能が警告を発している。見てはいけないものだ、と。

車内の乗客は誰も気づいていない。スマートフォンに視線を落としたまま、あるいは眠っている。窓の外で空が裂けていることに、誰一人として反応していない。

だが俺の目には、はっきりと見えていた。

——あの報告書と、同じだ。

背筋を冷たいものが這い上がる。十七年前に封印等級に指定された空間異常。その実例が、今、眼前に出現している。

報告書の記述が脳裏で高速で再生される。〈観測者は異能適性Bランク以上の隊員三名。一般市民からの目撃報告はなし〉——異能者にしか視認できない現象。だとしたら、なぜFランクの俺に見える。異能測定器に一切反応しないはずの俺に、なぜこの亀裂が見えている。

蒼い亀裂は数秒間、夜空に留まった後、ゆっくりと閉じていった。まるで、開くべき時を待っているかのように。

電車は何事もなく走り続ける。俺は窓に手を当てたまま、亀裂が消えた空を見つめていた。

掌の中の父の認識票が、かすかに熱を持っている気がした。気のせいかもしれない。だが今夜だけは、その温もりに縋りたかった。

心臓が、五年ぶりに強く脈打っていた。

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