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座標支配のFランク

第3話 第3話

第3話

第3話

通信途絶の一報から、一夜が明けた。

俺は資料室で夜を明かしていた。帰る気になれなかった。端末の通知欄は十八時以降、一切の更新がない。精鋭部隊十二名の生体反応ロスト——その一文が画面に貼りついたまま、もう十四時間が経過していた。

デスクの上には空になった缶コーヒーが三本と、広げたままの報告書の束。蛍光灯は相変わらず全灯で、地下三階を不自然に照らし続けている。昨日まで半分死んでいた照明が律儀に働いているのが、かえって不気味だった。組織が戦時体制に入った証拠だ。

端末が震えた。全職員宛ての通達。

〈本日07:00より、本部五階にて第二回緊急対策会議を実施。対象:全ランク実動要員および管理部門全員〉

全ランク。目を疑った。五年間で一度もなかった。Fランクの俺が五階に呼ばれる日が来るとは思っていなかった。

七時五分。大会議室の扉を開けた瞬間、数十の視線が突き刺さった。——いや、違う。誰も俺を見ていなかった。視線はすべて、正面のスクリーンに釘付けになっていた。

スクリーンには東京湾岸の衛星写真が映し出されていた。海面に浮かぶ蒼い亀裂。昨夜、電車の窓から見たものと同じだ。ただし規模が違った。衛星画像で視認できるほどに拡大している。亀裂の周囲には海上保安庁の巡視船が点のように散らばり、上空にはヘリの影があった。

壇上に立っていたのは、禍祓庁管理局次長・氷室征爾。五十代半ば、銀縁眼鏡の奥にある目は手術用メスのように冷たい。俺が五年間で直接顔を見たのは入庁式以来、二度目だった。

「現状を報告する」

氷室の声には感情がなかった。十二人が消息を絶った翌朝とは思えない平坦さだった。

「昨日十五時に突入した精鋭部隊十二名は、第五層到達後に通信途絶。現時点で生死不明。亀裂内部の空間——便宜上、以下『ダンジョン』と呼称する——は依然として存在しており、規模は拡大傾向にある」

会議室にざわめきが走った。ダンジョン。十七年間禁じられてきた単語を、氷室自身が解禁した。それだけで事態の深刻さが伝わってくる。

「第二次突入部隊の編成は見送る。霊圧干渉により、Cランク以上の能力者は第三層以降で著しい能力低下を起こすことが、第一次部隊の通信記録から判明している」

つまり、強い能力者ほど深層に進めない。ダンジョンの空間そのものが、異能を阻害している。

「そこで、観測要員の単独偵察を実施する」

氷室の視線が、会議室をゆっくりと舐めた。

「条件は一つ。異能測定器に反応しない人間であること。霊圧を持たなければ、空間の干渉を受けにくいと推定される。該当者は——」

視線が止まった。銀縁眼鏡の奥の目が、俺を捉えていた。

「——Fランク実動要員、桐生蓮」

会議室が静まり返った。静寂の質が変わった。同情でも驚きでもない。安堵だ。自分が指名されなかったことへの、剥き出しの安堵が、数十人分の沈黙となって部屋を満たしていた。

「桐生。測定装置を携行し、ダンジョン内部の空間構造データを収集しろ。通信が維持できる範囲での観測に留め、第三層までの到達を目標とする。帰還後、データを解析班に引き渡せ」

帰還。その単語を氷室は確かに口にした。だが会議室の誰もが、その二文字を信じていないことが伝わってきた。帰還は「想定」ではなく「建前」だ。測定装置にすら映らない最弱の駒を未知の空間に放り込み、どこまで進めるかを見る。生きて戻れば儲けもの。戻らなくても、失うものはFランク一人分の人件費だけ。

使い捨ての駒。それが俺に与えられた役割だった。

「了解しました」

声が震えなかったのは、怒りのおかげだった。恐怖は確かにある。だがそれ以上に、腹の底で熱いものが煮えていた。十二人を送り込んで失い、次は一人を使い捨てにする。この組織は最初から、人間を消耗品としか見ていない。十三年前、父が非番の夜に家族を守ろうとして死んだのも、組織が彼を「Dランクの替えの利く駒」としか扱わなかったからではないのか。

会議が解散した後、俺は地下三階に戻らず、二階の装備庫に向かった。

装備庫の受付で申請書を出すと、担当者が怪訝な顔をした。Fランクが装備を申請すること自体、前例がないのだろう。氷室の命令書を見せると、担当者は無言で奥に引っ込み、しばらくして台車を押して戻ってきた。

標準支給の観測装備一式。空間測定器、生体モニター、通信機、携行食。それに加えて、小型の霊圧灯と防護服が載っていた。

俺はリストを眺めてから、追加の申請書を書いた。

「閃光弾を四発。発煙筒を二本。それと、携行用の結界札があれば」

「結界札? Fランクに使えるのか」

「使えません。でも、報告書に記載があった。空間異常の中では霊圧由来でない物理的な障壁が有効だったケースがある。結界札の素材は特殊和紙と銀糸です。霊圧を込めなくても、物理的な遮断材として機能する可能性がある」

担当者は黙って結界札の束を台車に追加した。

資料室で読み込んだ五年分の知識が、ここで生きるとは思わなかった。俺には異能がない。術式も霊圧も使えない。だが、この組織で起きたあらゆる戦闘の記録を読んできた。どの装備がどの状況で機能し、何が無効だったか。敵の攻撃パターン、地形の利用法、撤退のタイミング。実戦経験はゼロでも、知識だけなら禍祓庁の誰にも負けない自信があった。

装備庫を出ると、廊下で安藤が待っていた。壁にもたれかかり、腕を組んでいる。その顔は蒼白だった。

「蓮——」

「止めるなよ」

「止めねえよ。止めたところでお前は行くだろ」

安藤が懐から小さな包みを取り出した。布に包まれた細長いもの。

「早瀬から預かってた。あいつ、突入前に『もし俺に何かあったら蓮に渡してくれ』って」

包みを開くと、一本のナイフだった。刀身に薄く青い光沢がある。霊銀の合金だ。Bランクの実動要員に支給される近接武器。柄に小さく『早瀬拓真』と刻まれていた。

「あいつ、お前のこと心配してたんだよ。Fランクの蓮が護身用の武器すら持ってないって」

昨夜の居酒屋で見せた早瀬の笑顔が、三度目に蘇った。根性がある、と言った声。あの真っ直ぐな目。

ナイフを腰のベルトに差した。

「必ず帰ってくる。早瀬も一緒に」

安藤は何も言わなかった。ただ一度だけ、強く頷いた。

十三時。東京湾岸、臨海副都心の封鎖区域。

蒼い亀裂は昨夜よりもさらに拡大していた。幅は五メートル近く、高さは十メートルを超えている。亀裂の縁から零れ落ちる光の粒子が、アスファルトの地面に触れて薄い霜のような結晶を作っていた。四月の陽光の下で、その結晶だけが冬の色をしている。

周囲には禍祓庁の封鎖班が展開し、一般市民の立ち入りを阻んでいた。俺が近づくと、封鎖班の隊員たちが道を開けた。その目には好奇心も同情もなく、ただ無関心な諦めだけがあった。死にに行く男を見る目だ。

通信機の最終チェックを済ませ、観測装備の電源を入れる。空間測定器の画面に数値が踊った。亀裂の前に立つだけで、既存の計測値が異常を示している。

「桐生蓮、これよりダンジョン内部に進入する」

通信機に記録用の音声を残し、俺は蒼い亀裂に足を踏み入れた。

光に呑まれた。視界が蒼白に染まり、一瞬、上下の感覚を失った。足裏にかろうじて硬い感触がある。それだけを頼りに、一歩、また一歩と進む。

蒼白い光が収まると、別世界が広がっていた。

天井のない空間。頭上には鉛色の空——いや、空のように見える高い天蓋が広がっている。足元は黒曜石のような光沢を持つ石材で覆われ、左右には高さ二十メートルを超える壁がそびえ立っていた。壁面には意味不明の紋様が刻まれ、薄い燐光を放っている。空気は冷たく、無臭だが、肺に入れた瞬間にわずかな圧迫感があった。呼吸できる。だが、この空気は外界のものではないと身体が訴えている。

通信機に話しかけた。「第一層に到達。視界良好、大気組成に大きな異常なし。通路幅は約八メートル、直進構造」

応答があった。まだ通信は生きている。

足を進めた。戦闘記録で読んだ通り、第一層は比較的安全なはずだ。精鋭部隊も第三層までは順調に進んでいた。問題はその先——

不意に、壁面の紋様が脈動した。燐光が強まり、通路の奥から重く低い振動が伝わってくる。足裏から脛へ、脛から腹へ。内臓が共鳴するような不快な周波数だった。

空間測定器の数値が跳ね上がった。だが、俺の身体には何の影響もない。霊圧を持たないということは、この空間の干渉を受けないということだ。氷室の推定は正しかった。皮肉な話だ。最弱であることが、ここでは唯一の武器になる。

第二層への境界を越えた。空間の質が変わった。通路は直線から複雑な分岐構造に変化し、壁面の紋様は密度を増している。精鋭部隊の通過痕——壁面の斬撃痕や焼け焦げた石材——が点在していた。戦闘の跡だ。だが、倒された敵の残骸はどこにもない。溶けたのか、吸収されたのか。

通信機が雑音を交え始めた。

「第二層。分岐構造を確認。精鋭部隊の戦闘痕跡あり。敵性体の残骸はなし。通信状態、やや不安定——」

応答がなかった。

第三層に踏み込んだとき、通信は完全に途絶した。

静寂。自分の足音と呼吸音だけが、黒曜石の壁に吸い込まれていく。ここから先は、誰にも報告できない。記録装置だけが動いていることを祈るしかない。

空間測定器の表示を確認する。数値は計測限界を超え、エラー表示が点滅していた。機械は役に立たない。ならば、自分の感覚だけが頼りだ。

そのとき、視界に異変が生じた。

最初は目の疲労かと思った。壁面の紋様を見つめすぎたせいで、残像が焼きついたのだと。だが違う。目を閉じても、それは消えなかった。

格子。

淡い蒼光を放つ透明な線が、空間を三次元的に区切っている。縦、横、高さ。等間隔に引かれた線が、通路全体を目に見えない方眼紙のように覆っていた。

視覚ではなかった。網膜に映っているのではない。脳の奥、もっと深い場所——意識の根幹に近い部分で、空間の構造そのものが「読めて」いる。壁がどこにあるか、天蓋までの距離がどれだけか、通路の先がどう曲がっているか。格子が、そのすべてを俺に伝えてくる。

五感では説明できない。六番目の感覚とも違う。空間そのものが情報となって流れ込んでくる、未知の知覚。

格子の向こう、通路の奥深くに——歪みがあった。格子の線が不自然に捻じれ、断裂している領域。何かが空間を壊している。あるいは、書き換えている。

心臓が跳ねた。恐怖ではなかった。

——見える。俺には、この空間が見えている。

ポケットの中の父の認識票が、明確な熱を放っていた。今度は気のせいではない。金属が手のひらを灼くほどの熱。父が何かを伝えようとしているのか。それとも、この空間が俺の中の何かに触れたのか。

格子が脈動した。呼吸するように、収縮と膨張を繰り返す。その律動に合わせて、俺の心臓もまた、鼓動を速めていった。

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