第2話
第2話
意識が戻ったのは、揺れの中だった。
車の後部座席。窓の外を街灯のオレンジが断続的に流れていく。身体を起こそうとして、右腕に走った激痛で息が詰まった。腕を見る。月明かりに照らされた右腕の皮膚が、血管に沿って黒く変色していた。手首から肘にかけて、まるで内側から焼けた痕のように、毛細血管が浮き上がって模様を描いている。
「動くな。血管が耐えきれなくなる」
運転席から声が降ってきた。あの男だ。化物を一振りで消した、着流しにロングコートの壮年。バックミラー越しに薄い目がこちらを見ている。
「……あんた、誰だ」
声が掠れた。喉の奥がざらつく。錆びた管に空気を通しているような感覚だった。
「厳島凱道。お前にとっちゃ、今のところ唯一の生命線だ」
素っ気ない言い方だった。事実を述べているだけの、温度のない声。
「あの……化物は」
「禍獣。人の負の感情を喰って顕現する異形だ。お前が見たのは中の下。あの程度で死にかけてたら話にならん」
中の下。あの化物が。人間を咀嚼し、腕を再生し、俺を絶望の底に叩き落としたあの異形が、この男にとっては「中の下」。腹の底が冷えた。
車が首都高に乗った。歌舞伎町のネオンが遠ざかっていく。あの光の下で十六年間、俺は駒として消費されてきた。その光景が後方に小さくなっていくのを見ながら、不思議と感傷はなかった。あの街に、離れて惜しいものなんて何もない。
「さっきの、俺の腕の……あれは何だ」
「命燃拳」
凱道は前を向いたまま答えた。
「生命力を衝撃波に変換する異能だ。滅禍師の中でも特に希少な系統でな。天然の覚醒は、俺が知る限り過去に三例しかない」
異能。滅禍師。言葉のひとつひとつが、俺の知る世界の辞書にない。だが理解よりも先に、右腕がまた脈を打った。焼け付くような痛みが肩まで昇り、心臓が跳ねる。不整脈だった。一拍飛ぶたびに視界が明滅する。
「がっ——」
胸を押さえて前のめりに崩れた。シートベルトが鎖骨に食い込む。息ができない。心臓が自分の拳で内側から殴られているような圧迫。さっきの化物と戦ったときよりも酷い。戦闘の興奮が引いた後、身体が遅れて壊れ始めている。
車が路肩に寄った。エンジンが止まる。
凱道が後部座席のドアを開けて乗り込んできた。狭い車内に、革と煙草の匂いが充満する。男の大きな手が俺の胸の上に置かれた。掌から、低い振動のようなものが伝わってくる。
「黙って呼吸だけしろ。吸って、吐く。余計なことを考えるな」
命令口調。だが不思議と反発は湧かなかった。凱道の掌から流れ込んでくる振動が、暴れ回る心臓のリズムを少しずつ押さえつけていく。一拍、二拍、三拍——心臓が正常な間隔を取り戻し始めた。
「応急処置だ。根本的な解決にはならん」
凱道が手を離した。俺の胸元を一瞥して、目を細める。
「心臓の周囲に霊脈の焼損がある。命燃拳は生命力を燃料にする異能だ。覚醒時に制御なしで発動すれば、燃料タンクが爆発するのと同じことが起きる。お前の体は今、内側から燃えている最中だ」
「……三日で心臓が破裂するって、さっき言ってたのは」
「嘘じゃない。今の状態を放置すれば、七十二時間以内に霊脈が心筋を焼き切る。もう一度でも命燃拳を発動したら、三日も保たん」
淡々と告げられた死刑宣告だった。三日。七十二時間。たった一度の力の行使と引き換えに、俺の寿命はそこまで削られている。
「じゃあ俺は——死ぬのか」
声が震えた。怖いからじゃない。十六年間ゴミのように扱われて、ようやく自分の中に「力」があると知ったのに、それが原因で死ぬ。その理不尽さに、唇が勝手に歪んだ。
凱道が運転席に戻り、エンジンをかけた。車が再び走り出す。首都高を降りて、街灯の少ない道に入っていく。窓の外の景色が都市からだんだん暗い山間部に変わっていった。
「死なせるつもりなら、あの場で拾ってない」
バックミラー越しに、凱道の横顔が見えた。表情は変わらない。だがその一言だけが、事実の報告ではなく、意志の表明だった。
「制御を覚えろ。命燃拳は暴走すれば使い手を殺すが、正しく運用すれば禍獣を滅する最大の武器になる。三日以内に霊脈の暴走を止める基礎制御を叩き込む。死ぬ気で来い」
三日で心臓が破裂する。だがその三日で制御を覚えれば助かる。
選択肢があるように聞こえるが、実質一択だ。
「……行く場所もないしな」
精一杯の強がりだった。凱道は鼻を鳴らしただけで何も言わなかった。
車は山道をさらに奥へ進んだ。アスファルトが途切れ、砂利道に変わる。ヘッドライトが照らすのは杉の木立と獣道だけだ。歌舞伎町からどれくらい離れたのかもわからない。携帯の電波はとっくに圏外になっている。
組織のことが頭をよぎった。俺がいなくなれば、「逃げた駒」として処理されるだろう。追手が出るかもしれない。だが今の俺にはそれを気にする余裕すらなかった。右腕の痛みは凱道の応急処置で和らいだものの、心臓の奥に残る鈍い熱は消えていない。時限爆弾を胸に抱えて走っている感覚だ。時計の針がずっと聞こえている。
車が止まった。
「着いた。降りろ」
ドアを開けると、冷たい山の空気が肺を満たした。歌舞伎町の腐った空気とは比べものにならない、透明な冷たさ。一瞬だけ、胸の奥の熱が鎮まったような気がした。
暗闇の中に、古い日本家屋の輪郭がぼんやりと浮かんでいた。平屋の母屋と、少し離れた場所にもう一棟。周囲は木立に囲まれ、どこかで沢の水が流れる音がする。
こんな場所が存在することすら知らなかった。歌舞伎町しか知らない俺にとって、暗い山の中ですら別世界だった。空を見上げた。星が見えた。ネオンに塗り潰されていない、本物の夜空。光の粒が、思っていたよりもずっと多い。
「何を突っ立ってる。中に入れ」
凱道が母屋の引き戸を開けた。中から柔らかい灯りが漏れる。
敷居を跨いだ瞬間、足が止まった。
畳の匂い。い草の、乾いた青い香り。どこかで嗅いだことがあるような——いや、ない。俺はこんな匂いを知らない。知らないはずなのに、鼻の奥が痛くなった。
凱道が奥の部屋を指差した。
「そこがお前の部屋だ。布団が敷いてある。明日の朝五時に起こす。飯は炊いてある、食ってから寝ろ」
お前の部屋。布団。飯。
単語のひとつひとつが、俺の人生にはなかったものだった。ネカフェのリクライニングシートと、コンビニの冷えた弁当と、「お前の居場所」なんて存在しなかった十六年間。それが今、畳の上に敷かれた布団と、台所から漂う米の炊ける匂いに置き換えられようとしている。
目頭が熱くなった。堪えろ。泣くな。こんなことで泣くのは弱い人間だ。組織で学んだのは、感情を見せた瞬間に付け込まれるということだ。
「飯が冷める」
凱道の声が背中に当たった。振り返らなかった。振り返ったら顔を見られる。
台所に入った。小さなちゃぶ台の上に、茶碗に盛られた白飯と、味噌汁と、焼き魚が置かれていた。簡素な一汁一菜。だが湯気が立っている。温かい飯。俺のために用意された、温かい飯。
箸を持つ手が震えた。一口目の白飯を噛んだとき、涙が落ちた。止められなかった。声を殺して、ただ飯を口に運び続けた。味なんかわからない。わからないのに、こんなに美味いものを食べたことがない。
凱道は台所に来なかった。
飯を食い終えて、指示された部屋に入った。六畳の和室に布団が一組。枕元に清潔なタオルが畳んで置かれている。布団に潜り込んだ。綿の重みが身体を包む。ネカフェの薄いブランケットとは違う、ちゃんとした布団の感触。
目を閉じた。心臓の奥の鈍い熱は消えていない。三日。あと三日で、この心臓が止まるかもしれない。
だが不思議と恐怖は薄かった。少なくとも今夜は、温かい飯を食べて、自分の布団で眠れる。十六年間で初めてのことだ。もし三日後に死ぬとしても——この一夜だけで、生きていた意味があったと思えるかもしれない。
意識が沈んでいく直前、台所の方から微かに音が聞こえた。凱道が茶碗を洗っている音だった。
——明日の朝五時。
その言葉だけが、暗闇の中で小さな錨のように意識を繋ぎ止めていた。起きなければ。明日から、生き延びるための戦いが始まる。