第1話
第1話
歌舞伎町の裏路地は、夜になると別の顔を見せる。
俺——神代蓮、十六歳。この街の裏側しか知らない人間にとっちゃ、ネオンの光だって檻の照明と変わらない。今夜も「運び」の仕事だ。黒いスポーツバッグを右肩に掛けて、人混みの隙間を縫うように歩く。中身は知らない。知る必要もない。聞けば殴られるだけだから。
午後十一時。靖国通りから一本裏に入ると、空気が変わる。酔っ払いの怒号、どこかの店から漏れるベースの重低音、ゴミ袋の甘ったるい腐臭。全部まとめて、俺の世界の匂いだ。
携帯が震えた。非通知。出る。
「神代、三十分以内に届けろ。遅れたらわかってんだろうな」
甲高い声。組織の中間——名前すら教えてもらえない連絡係だ。
「……わかってます」
通話は一方的に切れた。いつものことだ。
俺に親はいない。物心ついたときにはもう、組織の末端に組み込まれていた。最初は見張り。次にメッセンジャー。今は運び屋。危ない荷物を、指定された場所に届けるだけの使い捨ての駒。成功しても報酬は飯一食分のコンビニ弁当代。失敗したら、あるいは逆らったら——右の肋骨がまだ鈍く痛むのは、先週の「お仕置き」の名残だ。
足を速めた。届け先は歌舞伎町の外れ、新大久保寄りの雑居ビル。七階建ての古びた箱。テナントの看板はほとんど外されていて、一階のスナックだけが赤い光を垂れ流している。
裏口のドアに三回ノック。間を置いて二回。決められた手順。
返事がない。
もう一度。三回、間、二回。
沈黙。
嫌な汗が首筋を伝った。届け先が応答しないケースは過去に二度あった。一度目は相手が警察に踏まれた後。二度目は——相手が「消された」後だ。どちらにしろ、この場に長居するのは不味い。
だが、このまま荷物を持ち帰れば俺が「仕事を飛ばした」ことになる。先週の肋骨どころじゃ済まない。
舌打ちして、ドアノブに手をかけた。鍵は開いていた。ノブを回す指先が微かに震えている。自分でも気づかない振りをした。ここで怖がっていいのは、退路のある人間だけだ。
薄暗い階段を上がる。二階。蛍光灯が一本だけ点滅していて、廊下全体が脈を打つみたいに明滅している。足元のリノリウムが所々剥がれて、踏むたびにぺたぺたと肌に張り付くような感触がする。届け先は二〇三号室。ドアの前に立った瞬間、異臭が鼻を突いた。
血の匂い。それと、もうひとつ。腐った果物を煮詰めたような、甘くて吐き気を催す何か。胃の底がせり上がり、反射的に口を手で押さえた。この匂いは知らない。裏社会で嗅いできたどの匂いとも違う。人間の世界の匂いじゃなかった。
ドアが薄く開いている。隙間から赤黒い液体が廊下に這い出していた。
逃げろ——本能がそう叫んでいる。だが足が動かなかった。恐怖じゃない。もっと原始的な、動物が天敵の前で硬直するのと同じ反応だ。
隙間から中を覗いた。
暗い室内に、それは「居た」。
人の形をしている。だが人じゃない。身長は二メートルを優に超え、関節の曲がり方がおかしい。肘が逆に折れ、膝が横に開き、首が百八十度ねじれた状態で——何かを咀嚼していた。噛み砕く音が響いている。ごり、ごり、と。骨を粉にするような湿った音が、蛍光灯の明滅に合わせて断続的に耳に届いた。
床に転がる人間の腕。スーツの袖が裂け、断面から白い骨が覗いている。
その化物が、俺を見た。
顔と呼べるものはなかった。のっぺりとした黒い表面に、横一文字の裂け目がある。それが開いた。裂け目の奥に、びっしりと並んだ細い歯。人間の歯を何十本も無理やり詰め込んだような、不揃いの白い列。
「——ッ」
声が出ない。バッグが手から滑り落ちた。鈍い音が廊下に響く。
化物が動いた。関節を軋ませながら、四つん這いの姿勢でドアの隙間から身体を押し出してくる。骨格の法則を無視した動き。液体がぬるりと広がり、俺のスニーカーの先端を濡らした。生温かい。その温度が、足の裏から背骨を伝って脳天まで駆け上がった。
逃げろ。逃げろ。逃げろ。
足が動いた。背中を向けて階段に向かって走る。二歩、三歩。背後から、濡れた布を引き裂くような音。
振り返った。化物がもう目の前にいた。伸ばされた腕——指が五本ではなく七本ある、長すぎる指。爪が俺の喉元に迫る。
死ぬ。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
心臓を焼くような熱。比喩じゃない。本当に、心臓の裏側を溶けた金属で焼かれているような激痛が走った。その熱が血管を伝って右腕に流れ込む。肩から肘、肘から手首、手首から拳へ。血管の一本一本が膨張して破裂しそうな圧力。腕の内側の皮膚が、自分自身の光で透けて見えた。骨の影が浮かぶ。俺の骨が、青く燃えていた。
視界が青く染まった。
右腕が光っていた。青白い、炎とも雷ともつかない光が、拳を中心に渦巻いている。痛みは消えていない。むしろ激しくなっている。だが恐怖が遠退いた。この光に、本能の何かが応えている。
化物の七本指が俺の首に触れる直前——右腕が勝手に動いた。
拳が化物の腕にめり込んだ。
轟音。青い光が炸裂して、化物の腕が根元から消し飛んだ。黒い液体が壁に飛び散り、天井の蛍光灯が割れて闇が落ちる。化物が仰け反り、人間の歯で構成された口から、金属を擦り合わせるような悲鳴を上げた。
だが一瞬の空白の後、化物はまだ動いていた。残った腕で体を支え、千切れた断面から新しい触手のようなものが生え始めている。
そして俺の体は——限界だった。
右腕の光が消えた途端、膝から力が抜けた。視界が明滅し、心臓が不規則に跳ねている。息ができない。肺が潰れたように空気を拒否する。口の中に鉄の味が広がった。血だ。咳き込むと、掌に赤い飛沫が散った。
倒れた。冷たい廊下の床に頬がついた。リノリウムの冷たさが、焼けるような体温との落差で痛いほどに感じる。化物が這い寄ってくる音が聞こえる。濡れた何かが引きずられる、ずるり、ずるりという音。
ああ、ここで終わりか。十六年。ゴミみたいに使われて、ゴミみたいに死ぬ。人生最後に見るのが、天井のシミと化物のツラとか笑えもしない——
足音が聞こえた。革靴の、硬い音。
階段を上がってくる、一定のリズム。急いでいないが、遅くもない。まるで散歩でもしているかのような足取り。
化物が反応した。俺から注意を逸らし、階段の方向を向く。全身の歯がカチカチと鳴り始めた。威嚇——いや、恐怖だ。化物が、怯えている。
男が階段の上に現れた。
壮年。四十代後半か五十代か。短く刈った白髪交じりの髪。着流しの上に革のロングコートという、ちぐはぐな格好。だが、この男の周囲だけ空気の密度が違った。重い。壁際の埃すら動きを止めたように見える。呼吸をするたびに胸が軋む。この男が纏っているものの重圧だけで、俺の肺がさらに押し潰されていく感覚があった。
男が化物を見た。化物が後退る。
「——雑魚か」
男が右手を軽く振った。それだけだった。
音はなかった。光もなかった。ただ、化物が「消えた」。存在ごと削り取られたように、黒い液体の染みだけを残して。あれだけ俺を圧倒した化物が、この男の前ではゴミを払うのと変わらなかった。次元が違う。そう理解した途端、別種の恐怖が腹の底に沈んだ。
男が俺を見下ろした。薄い目に、感情らしい感情は読めない。しゃがみ込んで、俺の右腕を掴む。まだ微かに熱を帯びたそれを一瞥して、男は口を開いた。
「命燃拳——天然の覚醒か。馬鹿な巡りだな」
何を言っているのかわからない。意識が遠い。視界の端が黒く侵食されていく。
男が俺の襟首を掴んで引き起こした。顔が近づく。革と煙草の匂い。
「ガキ。その力、このまま放っておけば三日で心臓が破裂する」
冗談だと思いたかった。だが、この男の目は冗談を言う目じゃなかった。
「俺のところに来い」
返事をする前に、意識が途切れた。
最後に感じたのは、誰かに背負われている感覚だった。革のコートの硬い感触と、その下にある体温。十六年生きてきて、初めてのことだった。誰かの背中の温度を知ったのは。