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命燃拳の運び屋

第3話 第3話

第3話

第3話

鳥の声で目が覚めた。

一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。天井が低い。木の梁が走っている。ネカフェの蛍光灯じゃない。エアコンの乾いた風もない。代わりに、い草と木の匂い。布団の重み。窓の障子越しに、白っぽい光が滲んでいる。

——そうだ。山。あの男に連れてこられた。

身体を起こそうとして、右腕が軋んだ。痛みは昨夜よりはマシだが、肩から指先にかけて鉛を詰め込まれたような重さが残っている。左手で右腕を持ち上げて見る。黒い変色は手首の周囲にまだ残っていたが、肘から先はだいぶ薄くなっていた。

廊下を歩く足音。障子が開いた。

「五時十分だ。十分の遅刻」

凱道が立っていた。昨夜と同じ着流し。ただしロングコートは脱いでいて、袖を肘まで捲っている。その腕に、古い傷跡がいくつも走っているのが見えた。

「……すんません」

「顔を洗え。飯にする」

それだけ言って去っていった。

台所のちゃぶ台に、また飯が用意されていた。白飯、味噌汁、卵焼き。昨夜と同じく簡素だが、湯気が立っている。凱道は向かい側で既に食べ始めていた。黙って箸を取る。

今朝は泣かなかった。ただ、温かい味噌汁を一口飲んだとき、胃の底が溶けるような感覚があった。歌舞伎町の十六年間で、朝飯を「座って」食べた記憶がない。コンビニのおにぎりを歩きながら齧るか、そもそも食べないか。それが俺の朝だった。

「食い終わったら外に出ろ。話がある」

凱道は茶碗の飯を最後の一粒まで拾って食べ終え、さっさと立ち上がった。

母屋の裏手に出ると、昨夜は闇に沈んでいた景色が目の前に広がっていた。

山だ。周囲を深い緑の山に囲まれた、谷間のような場所。母屋の裏に広い空き地があり、地面は土が踏み固められている。空き地の端に古い木柱が何本も立っていて、表面には無数の拳大の凹みが刻まれていた。奥には小さな沢が流れ、水音が谷全体に響いている。

空気が透明だった。歌舞伎町の空気が泥水だとしたら、ここは蒸留水だ。一息吸い込むだけで、胸の奥の鈍い熱がほんの僅かだが引いていく気がした。

「座れ」

凱道が空き地の中央に胡坐をかいた。俺もその向かいに座る。朝日が凱道の白髪交じりの髪を照らしていた。昨夜のビルの廊下で見たときとは印象が違う。あのときは死神のように見えた男が、朝の光の下ではただの厳しい顔をした中年に見える。ただし、「ただの」は訂正すべきだ。この男が纏う空気の密度は、日光の下でも変わらない。

「まず聞く。お前、昨夜の化物——あれ以前に同じものを見たことは」

「ない。あんな化物、初めてだった」

「嘘をつくなとは言わん。思い出せないだけかもしれんからな」

意味深な言い方だった。だが凱道はそれ以上追及せず、話を続けた。

「あれは禍獣という。人間の負の感情——恐怖、憎悪、絶望。そういったものが一定以上の密度で蓄積した場所に、『裂け目』が生じる。禍獣はその裂け目から顕現する異形だ。裂け目の向こう側に何があるのかは、正直なところ誰もわかっていない」

凱道の声は平坦だった。世間話でもするような調子で、人間の世界の裏側にあるものを語っている。

「歌舞伎町のような繁華街は、負の感情の吹き溜まりだ。あの規模の街なら常時十体前後の禍獣が顕現している。普通の人間には見えない。触れられもしない。だが禍獣は人間を喰う。霊的な意味でも、物理的な意味でもだ。お前が見たのは物理捕食の現場だったわけだ」

昨夜の光景がフラッシュバックした。骨を噛み砕く音。七本指の腕。人間の歯がびっしり並んだ口。胃が持ち上がりかけたが、歯を食いしばって押さえ込んだ。

「禍獣を滅する力を持つ人間を、滅禍師と呼ぶ。数は少ない。日本全土で百人いるかどうかだ。流派も系統もバラバラ。統一された組織もない。それぞれが自分の異能で、自分の縄張りの禍獣を始末している」

「あんたも、その滅禍師なのか」

「三十年やっている」

三十年。俺が生まれる前から、この男は化物を殺し続けてきた。

凱道が俺の右腕を指差した。

「本題はお前の力だ。命燃拳。聞き慣れない名前だろうが、これは技の名前じゃない。異能の系統名だ」

「系統名」

「異能にはいくつかの系統がある。霊力を外部に放出する系統、身体能力を強化する系統、結界を構築する系統——命燃拳は、そのどれとも違う。自分自身の生命力を燃料にして、純粋な衝撃波を生成する。使うたびに命が燃える。だから命燃拳だ」

凱道の目が俺の右腕から胸へ移った。

「心臓の周囲にある霊脈——生命力の通り道だ。昨夜お前は、それを一気にこじ開けた。水道管にダムの水圧をかけたようなもんだ。管が壊れるのは当然だろう。霊脈の焼損。それが今お前の心臓を殺しかけている原因だ」

風が吹いた。沢の水音が一瞬大きくなる。

「命燃拳は使うたびに寿命を削る。一発の衝撃波を生成するのに消費する生命力は、制御なしの状態で概算三年から五年。お前は昨夜、一発撃った。つまり——」

「三年から五年、寿命が縮んだってことか」

「それに加えて覚醒時の暴走による霊脈損傷がある。合わせて、まあ十年前後は持っていかれたと思え」

十年。十六歳の俺から十年。その数字の重さが遅れて腹に落ちた。だが不思議と、怒りは湧かなかった。あの瞬間、あの力がなければ化物に喰われて死んでいた。十年で命を買ったと思えば——高い買い物だが、死ぬよりはマシだ。

「制御を覚えれば、消費を減らせるのか」

「減らせる。熟練した命燃拳の使い手なら、一発あたりの消費を数日から数週間の範囲に抑えられると文献にはある。実際に会ったことはないがな。天然覚醒の命燃拳使いは、俺の知る限りお前を含めて四人目だ。先の三人は——二人が暴走で死に、一人が行方不明」

全滅じゃないか。

「安心しろとは言わん。だが俺は三十年、あらゆる系統の異能者を見てきた。制御の原理はどの系統でも同じだ」

凱道が立ち上がった。空き地の端に立てられた木柱の一本を掌で叩く。乾いた音が谷に反響した。

「出力を上げるな。燃焼効率を上げろ。ガソリンをドバドバ撒いて火をつけるんじゃない。一滴を完全燃焼させる。それが命燃拳の制御の核心だ」

凱道が右手を木柱に向けた。何の予備動作もなく掌を突き出す。

衝撃波が走った。空気が歪み、木柱の表面が拳ひとつ分だけ正確に抉れた。木片が飛び散る。だが柱は折れていない。ピンポイントで、必要な分だけの力。

「これが制御だ。全力を叩き込むのは誰でもできる。必要な分だけを、必要な場所に、必要なタイミングで。それができなければお前は力を使うたびに死に近づく」

凱道が振り返った。朝日を背負った顔に、初めて明確な意志が見えた。

「三日以内に霊脈の暴走を止める基礎制御を叩き込む。できなければ死ぬ。できれば生きる。単純な話だ」

「……単純すぎるだろ」

「ごちゃごちゃ考える暇があったら体を動かせ。立て」

立ち上がった。右腕はまだ重い。心臓の奥の熱も消えていない。だが足は震えていなかった。昨夜、ビルの廊下で化物に追い詰められたときとは違う。あのときは退路のない恐怖で足が竦んだ。今は——退路がないのは同じだが、目の前に道がある。

三日。七十二時間で死ぬか、生きるか。

「——やる」

短く答えた。凱道は頷きもせず、木柱の前に立つよう顎で示した。

「まず右手を開け。拳を握るな。掌を柱に向けろ。命燃拳は拳で撃つものじゃない。生命力は身体の中心——心臓から流れ出す。それを腕を通して掌に集める。イメージしろ。胸の炎を、腕という管を通して、掌から一滴だけ押し出す」

胸に意識を向けた。あの鈍い熱。時限爆弾みたいに鳴り続けている、心臓の奥の炎。

これを——一滴。

右腕に力が集まる感覚。昨夜の暴走とは違う。あのときは激流だったが、今は細い水流を意識している。掌が微かに熱を帯びた。

だがそこで止まった。一滴を押し出す、その加減がわからない。どこまでが一滴で、どこからが暴走なのか。境目が見えない。

「力め。だが全開にするな。匙加減を探れ。今日中に正解を出せとは言っていない。まず失敗のパターンを知れ」

凱道の声が背中から飛んでくる。

俺は掌を木柱に向けたまま、胸の炎と対話を始めた。三日間の猶予。その最初の一歩。

——ユキ。

唐突に、幼馴染の顔が浮かんだ。組織の末端で、俺と同じように使い捨てにされていた少女。最後に会ったのは半年前。あいつは、まだあの街にいる。

生き延びなければ。生き延びて、強くなって——

掌の温度が、ほんの僅かだけ上がった気がした。

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