第2話
第2話
走った。
どこへ向かっているのかもわからなかった。足元の闇が石か根か泥かも判じられぬまま、ただ山の奥へ、炎の光が届かぬ方へ走った。枝葉が顔を打ち、蜘蛛の巣が額に張りつき、それを払う余裕さえなかった。胸に抱いた兵法書が身を打つたびに、まだ熱を帯びた布包みが肋骨を灼いた。焦げた布の臭いが鼻腔にこびりつき、息を吸うたびに喉の奥が焼けるように痛んだ。その痛みだけが、暁風の意識を繋ぎ止めていた。
背後の炎光がやがて薄れ、代わりに闇が重みを増した。月は雲に隠れ、星明かりさえ届かぬ山道は一寸先も見えない。裸足の足裏を石の角が抉り、枝が頬を引き裂いた。血が顎を伝い、首筋を濡らすのがわかったが、拭う気にもなれなかった。だが止まれなかった。止まれば、追手の足音が聞こえる気がした。止まれば、あの炎の中で見たものが瞼の裏に蘇ってくる気がした。
斜面を踏み外したのは、どれほど走ったあとだったか。
体が宙に投げ出され、背中から落ちた。枯葉と泥の斜面を転がり落ち、何かに叩きつけられて止まった。背骨を貫く衝撃に、一瞬、視界が真白に弾けた。肺の空気が一度に押し出され、口から土混じりの血が溢れた。泥と落葉の湿った匂いが、焦げた布の残り香と混じり合い、吐き気がこみ上げた。それでも兵法書だけは放さなかった。両腕で胸に抱え込んだまま、暁風は泥の中にうずくまった。
呼吸を取り戻すまでに、長い時間がかかった。
周囲に耳を澄ませた。追手の気配はない。聞こえるのは自分の荒い息と、谷底を流れる細い水音だけだった。どこかで獣が枝を踏む音がして心臓が跳ねたが、それきり静寂が戻った。体を起こそうとして、右の踝に激痛が走った。折れてはいない。だが捻った。もう走れない。
暁風は倒木に背を預け、膝を抱えた。汗が冷え、夜気が肌を刺す。春の山とはいえ、夜半の冷え込みは容赦がなかった。薄い寝衣一枚の体が、制御できぬほどに震え始めた。歯の根が合わず、顎が勝手に鳴った。それが寒さのせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、暁風にはわからなかった。
——母上。
声にならなかった。
庭に倒れていた衣の色が、瞼の裏に焼きつく。淡い藤色。母が好んでいた染めだ。春になると決まってあの色の衣を出し、「今年も藤が咲きましたね」と微笑んでいた。その穏やかな声の記憶が、今は刃のように胸を抉った。その傍らに、もっと小さな影があった。弟の昭慶。まだ十一だった。暁風と同じ書庫に通い、兵法には興味がないくせに地理図だけは熱心に写していた。いつか天下を旅したいのだと、恥ずかしそうに笑っていた。墨で指を真っ黒にしながら、山河の稜線を丁寧になぞるあの手が、もう動くことはない。
妹の瑞月は七つだった。暁風が書庫にいると、必ず菓子を持って現れた。兄の難しい顔を見るのが面白いのだと言って、腰掛けの端に座ってこちらを眺めていた。小さな足を揺らしながら、頬を菓子で膨らませて笑う顔が、暁風にとっての書庫の風景そのものだった。あの夜、あの子はどこにいたのか。考えたくなかった。だが脳がそれを許さなかった。
東棟の火は、離れの寝所から上がった。女子供が眠る棟だ。最初に火を放たれたのは、そこだった。
趙閻は——あの男は、まず逃げ場を断ったのだ。
暁風の歯が鳴った。寒さではなかった。全身を貫く震えの芯にあるものは、悲しみよりも深く、恐怖よりも熱かった。それは炉の中で白く燃える炭のように、音もなく、しかし確実に暁風の臓腑を焦がしていた。
父の陣幕は最初に囲まれたと、周朴が言った。あの老将も、暁風を庇って矢に倒れた。「走れ、若様」——その声の響きが、まだ耳の奥にこびりついている。十年来「趙の叔父上」と呼んだ男の兵に、射殺されたのだ。
知っていたのか。父は。
あの酒席で、珍しく酔って、「あの一巻だけは読むな」と繰り返した父。盃を置く手がわずかに震えていたことを、暁風は今になって思い出した。あの目の奥にあった光は、酔いの熱ではなかった。あれは遺言だったのではないか。明朝の襲撃を、父は悟っていたのではないか。ならばなぜ、なぜ逃げなかった。なぜ家族を逃がさなかった。
「——なぜですか、父上」
声が、今度は出た。枯れた喉から絞り出された声は、暗い谷間に吸い込まれて消えた。返す声はなかった。梟の鳴き声だけが、遥か頭上の樹冠から降ってきた。
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夜が、明けなかった。
正確には、暁風にとって夜が終わらなかった。東の空が白み始め、鳥が鳴き、木漏れ日が地面にまだらの光を落としても、暁風の内側にある闇は微塵も薄れなかった。
踝の腫れは一夜で拳ほどに膨れ、立ち上がるたびに視界が白く弾けた。それでも歩かねばならなかった。趙閻の追手がいつ山に入るかわからない。軍師の息子が生き延びたと知れば、必ず探しに来る。暁風にはそれだけの価値がある。陸淵の兵法を継ぐ者として——あるいは、胸に抱えたこの書の存在を知る者として。
谷川の水で喉を潤し、崖際に生えた野草を手当たり次第に口に押し込んだ。何が食えて何が毒かなど、書物の知識でしか知らない。舌が痺れるものは吐き出し、そうでないものを無理に嚥下した。苦い汁が喉を焼き、胃の腑が痙攣するように拒んだが、構わず飲み込んだ。指は昨夜の火傷で赤く腫れ、水に浸すたびに声にならない呻きが漏れた。冷たい水が傷口に沁みるその感覚すら、生きている証だと思うことにした。
兵法書は懐に入れた。布包みは焦げ、端が炭化していたが、中の竹簡は無事だった。竹に刻まれた文字の一端が、衣越しに肌に触れた。それが何を意味するのか、暁風にはまだわからない。ただ、これだけが残ったのだという事実だけが、重く胸にのしかかっていた。
父の書庫の万巻は灰になった。陸家百年の知は焼け落ちた。将兵は殺され、家族は——。
すべてを失った。この一巻と、自分の体ひとつを除いて。
二日目の夕暮れ、暁風は歩けなくなった。
踝がもう体を支えなかった。木の根に躓き、倒れ、起き上がれなかった。横たわったまま、樹冠の隙間から見える空を眺めた。紫紺の空に一番星が灯り、冷えた風が汗と泥にまみれた体を嬲る。腹は三日近く何も入れていない。指先の感覚が遠くなり始めていた。唇は乾いて裂け、舌で触れると鉄の味がした。
——このまま死ぬのか。
その問いが浮かんだとき、不思議なほど恐怖はなかった。むしろ楽になれるという誘惑があった。目を閉じて、このまま眠りに落ちれば、父や母や弟妹のところへ行ける。あの穏やかな書庫に戻れる。梅の花が咲く中庭に——。
だが、瞼を閉じた瞬間に見えたのは、書庫でも梅でもなかった。
趙閻が巻物を掲げる姿だった。「これは正義の粛清だ」と叫ぶ声だった。兵たちが槍を突き上げて歓声を上げる光景だった。母の衣が血に染まり、弟の小さな体が動かなくなった庭の景色だった。
腹の底から、何かが這い上がってきた。
暁風は地面に爪を立てた。泥を掴み、体を引きずり、一寸でも前へ進もうとした。踝が軋み、火傷した指が裂けた。爪の間に泥と血が詰まり、指の一本一本が別の生き物のように悲鳴を上げた。だが止まらなかった。死ぬわけにはいかない。まだ死ぬわけにはいかない。あの男が笑って生きている限り。あの男が「正義」を騙って眠れる限り。自分が死ぬことは許されない。
それは生への意志というよりも、呪いに近かった。
暁風は木の幹に縋りつき、膝で体を支え、立ち上がった。視界が揺れ、足元が定まらない。だが立った。立って、また歩き始めた。
どれほど歩いたか。月が中天を過ぎた頃、暁風の耳が微かな音を拾った。
焚き火の爆ぜる音。そして人の話し声。
岩陰から覗くと、谷間の窪地に粗末な天幕が幾つか見えた。焚き火を囲む男たちの姿。錆びた刀や槍が無造作に地面に突き立てられている。正規の軍ではない。装備も隊列もなく、酒を酌み交わしながら下卑た笑い声を上げている。火に照らされた顔はどれも日に灼け、刀傷や痘痕が影の中に浮かんでいた。
山賊だ。
暁風の意識は、そこで途切れた。膝が折れ、体が前のめりに岩陰から転がり落ちた。最後に見えたのは、驚いて立ち上がる男たちの影と、焚き火の赤い光だった。胸の兵法書を抱く腕だけが、意識を失ってなお、力を緩めなかった。